月姫
(増補改訂版)







ただ一緒にいられるだけでよかったと。
私の心はあなたとは永遠に重ならぬまま。







 初めて出会ったのは、月の美しい夜のことだった。その日の月は白く淡く。星々の煌めきに溶け込むかのように。ゆるく、静かに輝いていた。
 恐怖からは程遠いその静けさは、命あるものに等しく与えられている。

「――誰?」

 小さな声。少女は振り向く。
 その手に今宵の月と同じ――白く淡く優しく妖しく――輝きを放つ、小さなその花を握り締めていた。
 そっと忍び寄った影は、幼い少女と同じほどに小さい。思いがけずいた先客――少女の姿に戸惑いを隠せぬ声もまた、高く拙いものだった。

「えっと…」
「あ、紫苑様」
「えっ?」
「はじめまして、花梨と申します」

 鈴の音のような健やかな声で、少女は頭を小さく下げた。上げられた表に移る花のような微笑に見惚れ、少年は瞠目する。
 少女は白い光りの海の中にいた。
 それは月明かりか。花の放つ光りによるものか。未だ幼い少年には分からない。分かるのは、少女が腰を下ろしているそこに咲き誇る花の名だ。
 月代王国の国花。夜、月明かりの下でのみ花を咲かせる、稀有の花。

「月姫(つくひめ)候補なんです、私」
「ああ…それで」

 少年が言葉を発さぬのを、少年には都合がいい方に解釈したのだろう。少女が身分を明かした。
 月姫とは月代国の奉じる月神に仕える巫女。少年――月代国王子紫苑の母もまた、かつて月姫だった。

「花梨といいます」
「花梨?」
「はい」

 少女がにこりと笑った。
 だから、少年も笑った。

「そこ、座ってもいい?」
「もちろんです」

 月明かりの下で、月光の如き光を放つ花の海。その真ん中に、腰を下ろして並んだ。
 ほんの少しだけ、夜更かしをした子供たち。
 今宵の出逢いが、物語りを紡ぎだすと――。
 幼すぎる少年と少女は――否、この世の神でさえ、まだ、知らぬこと。





 泉にその半身を浸かり、精神の集中力を高めていた。
 木々のざわめく音。虫たちの羽音。獣が様子を伺う視線。それら様々の音が消え、やがて自分は静寂の只中に佇む。
 泉の湧き出る音も、その温度も、やわらかく自身を包み込む圧力も。
 何もかもが消えて。
 目の前に一つの光点が生み出される。

 それは極小の星の如く。
 今はまだ限りなく暗いそれはやがて膨らみを増し、いつしか月のように大きく、淡い光を放つ存在となる。
 瞳を閉じていても、それが「見える」のが分かる。
 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、淡く微笑む少女の姿が合った。

「お邪魔でしたか?」

 少女が問いかけた。問いかけながら、その声音には微塵も邪魔をしたとの思いは伺えない。
 鈴のように高く、虫の音のように軽やかな声が心地良く。それにつられてというわけでもなかったが、少年もまた、微笑を浮かべて答えた。

「全然」

 むしろ、ちょうどいいところに来てくれた。あのまま、闇の中に一人佇み続けるには、自分はまだ幼い。

「それでは、お食事にしませんか?」

 少女が素焼きの皿を差し出した。乗せられているのは米を焚いたものだ。まだ湯気の立ち上るそれに、少年は驚き、その蒼い瞳を丸くして少女を見上げる。
 いったいどこで炊き上げ、どれほどの時間でそれをここまで運んだというのか。

「お食事は温かいうちに」

 少女はにこりと微笑うばかりだったので、少年は小さく苦笑して身を起した。歩けば水の抵抗に体が推し戻されそうになる。自分の体を纏うそれらを掻き分けて、陸へとその身を上げた。
 少女が乾いた布をその両手に乗せて捧げてきたので、ありがたく受け取る。

「まだ水の冷たい季節です」

 きちんと体を乾かさなければ、病を呼みこび、やがて死んでしまう。

「月巫女(つくのみこ)である私は月代と共に。紫苑様は、月神様と共に」

「花梨ならきっと月姫になるさ」
「まだまだ未熟です。そうなれるように、いつだって精進します。…紫苑様も」
「うん。オレも、そうし続ける」

 月代国とそこに住む人々を、引き継ぎ、守るために。

「そのためにも、まずは腹ごしらえですよ」
「そうだな」

 幼い少年少女が、肩を並べて座(ざ)していた。出会ったあの日、あの夜のときのように。
 二人を彩るその笑顔は、やがて訪れるはずの――かならず築き上げるとすでに誓いを立てている――未来を思い描き、その希望によって成されたものだ。
 そう。それは希望に満ちた、幼子(おさなご)たちの笑顔だ。
 すべての幼子にはそれを与えるられる権利があり、すべての大人にはそれを守る義務がある。そして、幼子達は未来のために今を微笑う。





 白粉塗って紅つけて―――。
 乙女はゆっくりと開花する。

「これ、何?」

 幼いながらもよく整った顔つきの少年は顔を顰めた。月代国王子紫苑――彼の眉間には子供らしからぬ深い皺が浮かんでいる。
 紫苑の眼前にいるのは、美しく着飾った黒髪蒼目の少女。年の頃は紫苑と同じくらいであろうか。少女の方が僅かばかり紫苑よりも背丈が高いが、十(とお)にも満たない幼少期の少年少女であるから、その方が自然だろう。あるいは少女の方が一つか二つばかり年下の可能性もある。
 涼やかな瞳の、利発そうな娘だ。名は花梨。月姫候補の月巫女で、紫苑とは主従であり幼馴染である。

「月姫になるための儀式用の衣装よ。きれいでしょ?」

 幼くとも少女だけあり、花梨は色彩豊かな衣装に笑顔を見せる。巫女の儀式用の衣装は、普通は白を基調とした単調なものであるが、月姫選びの儀式には、月代国王家にのみ咲かせることの適うとされる月光華から染め上げられた衣装が用いられる。
 桜ほどの大きさの花は、赤、白、青、黄…と、月の色彩の数だけあるとされるほどに様々だが、どれも例外なく一色で染め上げれられ、色の混ざり合ったものはない。

 夜にのみ花を咲かせるそれは、淡い光を放つ。例外はない。
 そこから染め上げた布は、夜の闇の中で月明かりのように柔らかな光を放つ。この衣を纏うことが赦されるのは月姫とそうなるための試練を受ける巫女。そして月代王家の人間――王と后と王子――のみだ。
 月代の王は月読の剣を受け継いでいることが、その前提条件である。

 紫苑は眉間の皺をさらに深くした。目付きも幾分か険しくなったようだ。

「そうじゃなくて、その顔!」

 半ば怒鳴るように投げ掛ければ、その内容というよりは勢いに驚いたのだろう。花梨の蒼い瞳がきょとんと見開かれた。

「何をそんなにイライラしているの?」

 小首を傾げて問うその姿は愛らしい。
 紫苑はそれにさえ意に介さずに再度怒鳴りつけようと口を開き、…結局は声にしないまま、その口を閉じた。殺した勢いを溜息に変えて吐き出すと、少し声のトーンを落ち着けるようにと意識しながら語り出す。紫苑からしてみれば、なぜ花梨が自分の怒りに思考が及ばないかという方が不思議である。
 苛立ちに小さく痛み出した頭に手を添えたのは、無意識での仕草だった。一言一言を区切るように説明するために、改めて口を開く。

「だって、それ白粉だろ?紅だってつけてる。どれも有毒なものばかりじゃないか」

 たとえその毒性が微弱なものであったとしても…。
 紫苑の言葉に、花梨は「ああ、そのことか」とばかりの表情で頷いた。その表情はいたって軽い。
 憮然とした表情で腕まで組んでいる幼い少年の姿が、精一杯大人ぶっているようで穏やかな笑みを誘われる。
 もっとも、少年と同じ年頃の少女にしてみれば、そのような感情はとうてい湧き起こるものではなかったようだが。

「大丈夫よ。今日だけだもの」
「なんだってそんなのつける必要があるんだよ」

 さらりと言う花梨に、紫苑が反論する。その頬は幾分膨らんでいた。

「月神様に礼をつくすためだよ。知ってるでしょ?」
「そうだけど…」

 それでも紫苑はまだ釈然としない。そんな古い習慣など、そろそろ改善されても良いのではないかとさえ思っている。まして、それが有害であるならなおさらだ。
 月姫になるものはその身を飾り立てて七日七晩の間、月の小舟と呼ばれる森の中に設けられた囲いの中で過ごす。囲いの設けられるのは湖や沼、川などの近く。湿地帯だ。
 そういったところの土を少し掘り返して水を湧き上がらせ、そこに出来た小さな水溜り――人一人が十分に浸かれる――を中心にして、人が一人座れる程度の場を設ける。
 辺りの草や枝を重ね合わせて作られる囲いは、底のない編み籠のようにも見えた。

 七日七晩を数えるのは巫女本人だ。月神はその数えの正しいことを見て、巫女の力や知識――巫女の力量といったものを見定める。
 化粧によって顔を隠すのは月神がその本当の姿を見せることを忌みとしているからだ。人の見ることの叶う月神の姿は仮の姿でしかない。数多いる神々でさえ、その真の姿を見たものはいないとされている月神を、まして人がなぜ見ることが適うというのか。
 互いの姿を見せないこと、見ようとしないことが月代における神と人との関わりにおける礼儀の基本事項とされていた。
 言葉を発することも禁忌(タブー)視されている。人は神の前にあっては黙して礼をつくすのみ。

「もっと古い昔は、泥とか仮面とかだったって聞いた」

 顔を隠すものは何だっていいはずだ。

「泥だと水に溶けちゃうもの。仮面は元々、神鬼精霊の似姿を模(かたど)ったものだから本質的にふさわしくないし」

 己の姿を見せないことと、他人の姿を借り己を偽ることとはまったく異なる。
 紫苑は押し黙った。彼とてその言葉の正当性を知っているし、どのような思想を持とうと、彼は生粋の月代王家の人間だったからだ。慣習や文化を最前線で守るべき立場に生まれ、それを誇りとしている。
 彼が花梨の立場であったなら、彼もまた、有毒と知りながら何を迷うこともせず己に化粧を施しただろう。

「……気をつけて」

 だから、紫苑はそれだけを告げた。言いたいこと、伝えたい思いは溢れんばかりにあるのに、どれも言葉に出来なくて…。言葉にならない代わりに、涙になって零れてしまいそうだった。
 俯いて歯を食いしばる、その合い間合い間になんとか口にした台詞だった。
 それに、花梨は笑顔を返した。未だ俯いている紫苑には見えない、優しくも儚い微笑み。

「大丈夫よ。かならず月姫になって、私は月神様にお仕え出来るようになるの。そうすれば、紫苑様のお役にも立てるもの。紫苑様と一緒に、月代を守るの」

 揺るがぬ決意。心底から嬉しいのだと喜びを込めた声音。
 花梨は迷いない笑顔で告げる。
 花梨の小さな手が、紫苑の小さな――それでも花梨よりはほんの少しだけ大きな――手を取る。

「だから、紫苑様もがんばって。二人一緒に、月神様に認めてもらうの」

 舌っ足らずなしゃべり方にもかかわらず、その声音の中には大人にも劣らぬ覚悟が見え隠れする。
 紫苑は黙って頷き、それから勢いよく面(おもて)を上げた。ぎゅっと、全身に力を込めるようにして花梨を見つめる。
 添えるようにそっと握られている手を取り直して、今度は互いの手を繋ぎ合う形にした。

「花梨なら大丈夫」
「紫苑様ならやれる」

「「絶対に」」

 幼い二人は額を寄せ合った。瞳を閉じて、しばし互いだけの存在を確認しあう。
 流れる清水の音、葉が虫たちによって擦れる音さえ、やがて聞こえなくなる。
 繋いだ手と、触れ合わせた額からの温もりだけが、闇の中で像を結んでいるような感覚。
 瞼を押し上げたのは同時だった。

『『信じてる』』

 それは確信にも似た力強い何かを伴っていた。
 声にならない言葉を互いに伝え合う。それは信頼の証。
 繋がれた手が離れる。
 これからそれぞれが試練へ向かう。

 花梨は月姫と認められるための。
 紫苑は月王と認められるための。
 それぞれの、試練へ―――。





 月王とは月神に代わって月の民をまとめるもののことだ。 月王と認められたものが、後々の月代国王となる。
 己の身一つで山に入り、兎を狩ってくるのがその試練の大まかな流れであるが、もちろんそれがすべてではない。
 これは儀式であり、試練である。

 この儀式の中で、王たらんものは通夜(つや)を見付けださなければならない。通夜とは月神の示される道のこと。それを可視することが出来るか否かが、すなわち月神の認めるに足る器であるか否かを分ける。
 通夜の先には大木があり、王と認められたものはそれをもって弓矢を授けられる。
 丈夫で清らな長弓と矢が一本。
 その弓矢をもって、王は、月神の眷属でありその器量を試すために遣された兎を射止め月神に捧げ誓いを立てるのである。

 月神の意に沿うこと、すなわち、月の民の繁栄を。
 人々は月姫と月王たらんものが試練を終えて無事に戻ることを国内で待つ。月神の慈しみである農耕をつつがなく行うことで、試練を受けているものたちへ月神の慈しみの授けられることを願うのだ。
 そうして昼と夜を数え、二人は月神に認められる。

 花梨の月姫となるのと同時に、紫苑の月王として認められたその晩に、月代国では華やかな宴の催された。
 静かなるを好む月神も、喜び舞うことを咎めることはない。今宵の宴の中心である紫苑と花梨は昼のうちにその身を清め直して疲れを癒している。酒に酔うことはできないが、宴でも本当に特別の時にしか振舞われることのない甘い甘い菓子に歳相応に顔を綻ばせた。

 月姫となった花梨は次代の月王――すなわち紫苑の許婚となった。王と姫、月神に認められ、その意を伝え聞き、それを代行するものの二人、手を結び合って政(まつりごと)を行っていく。
 紫苑の母――つまりは現月代国王蒼志の妻である緋蓮もまた月姫であるとは、このことをいう。
 これから花梨はその下について王の妻として、月姫として学ぶことになるだろう。

 当代の月代国王蒼志はその人柄がたいそう気さくで、がっしりとした体格は逞しく。人々に親しみを伴ってたいそう頼りにされている。
 どちらかといえば容姿が母である緋蓮似の紫苑は、蒼志と同年のころに比べても線が細く良く云えば優しげな、悪く云えば頼りなげな印象が強くて、その性格も緋蓮の落ち着きを受け継いで――あるいは躾の賜物か。豪胆で雑な面のある蒼志が調子に乗りすぎて緋蓮に窘められている姿は珍しくない――蒼志に比べれば控えめに写る。

 だが、根は優しく基本的に勇気もあるこの王子に、人々は何の不安も抱いてはいない。いささか短気な面はあるが、それも短慮であるというわけではない。やがて歳を経ていくことで、自重される類のもの――子供特有の我侭さだ。
 国王夫妻が王子の我侭が助長されるような甘い親でないことはいまさら確認の必要さえなかったし、国民はみんな、その王子に好意を抱いていた。

 日々は穏やかに流れていた。
 本当に、穏やかだった。
 草も花も木も、陽の光に鮮やかに彩付き、山にも川にも野にも、生き物は豊富で――。作物の出来も上々で、ここ最近は大きな戦の起こる気配もない。
 本当に穏やかで。
 だから、油断していたのだ――とは、月代のものであれば決して云わないこと。
 気を緩めていても、心が和やかさに親しんでいたしてしても、油断は決してしていなかった。
 彼らは一様に答えるはずだ。

 それは油断ではなかった。

 自分たちは決して弱くはなかったし、敵もまた弱くはなかった。
 けれど大敗をきすほど的は強大ではなかった。

 そして月代の人々は云うだろう。

 それは卑怯な罠をけしかけたのではない。

 それはまったくの奇襲ではあったが、特別に卑怯と呼ばれなければならないものではなかった。
 戦えぬ女子供、老人までも皆殺しにする非道さは認められるが、戦の理としてはある意味で適っていた。

 生き残りは復讐者となる。
 彼らはそれらの一々を相手にできるほどの余裕が、時間的にも人員的にもなかった。ましてそれらの復讐者と和解することに、彼らは何の意義も持ち合わせていなかったしその必要性も感じてはいなかったのだから。

 そして月代の戦士たちは云うだろう。


 その奇襲の予測できていて、それでもなお自分たちは負けたのだ――、と。


 月代の大人たちは皆知っていた。自分たちが何のために「月代」という国を形成しているのかを。
 月代の大人たちは皆知っていた。かつて「方術」と呼ばれた戦術のあることを。
 そして月代の人々は知っていた。方術の用い方を。

 方術士の国。

 それが月代国。

 目的は月代の王族の血脈、その魂――に代々受け継がれる月の刻印の守り。
 王族が、己の中に封印し続ける月の刻印は、かつて、遠い古の時代に封じられた「神威力」への道を開ける鍵の一。月の刻印を封じることも、解き放つことができるのも、月代の王――かつて高天の都を閉ざした五人の方術士。その血の流れを汲むもののみ。

 けれど、血が途絶えれば月の刻印は宙(ちゅう)に浮き、縛られていない状態に晒される。そうなれば力を持つものの支配下に置くことが可能になる。
 だから、国となって守ってきた。
 月の刻印を開放することは禁忌。
 月の刻印の封じ手の血統を途絶えさせることも同じ。
 何を犠牲にしても食い止めるべきこと。

 神威力は誰の手の上にも落としてはならない。
 月代は、そのためだけにある。
 だから月代の人々は云う。

 お前たちとは手を結べない。

 否。
 否。
 いかなるものであるとも。
 神威力を求めるものには手を貸せない。
 手を取れない。
 協力できない。


 いかなるものであろうとも。



 敵の名は「陰陽連」。どこで手に入れてたのか、方術を操る集団だった。
 まずはじめに火が上がった。夜の闇の中に赤々と燃え上がる炎は、あたかも朝焼けの訪れのようであった。
 おそらく稲の蓄えられている倉に、火種が放たれたのであろう。水を掛けて治まるような生易しい勢いではなかった。

 高く高く立ち上(のぼ)る焔(ほむら)は月にまで届きそうで。大地を伝って伸びてくるそれに恐怖を覚えながらもなお悠然と天にあり続ける月の姿に月代の人々の心は鎮められる。水面(みなも)に現れた波紋が落ち着きを取り戻し、その目に写る月には火の粉の飛ぶのがかかっている。
 火の中にあってその輝きの落ちることはなく、それどころか輝きは増してさえ見える。

 迎え撃て。
 決して引くな。
 怯むことなく前を見据えろ。

 まるで、月神が先頭に立ちて導いているかのように。
 月代の人々は月の光に魅せられて、狂戦士の如く立ち向かう。

 紫苑と花梨の目の覚めたのは、大方の月代の人々が炎に気が付いて目を覚ました頃とそう大差はなかった。宮殿の中にまで炎の明かりが入り込み、外からはすでに夜を徹しての見張り役であった男たちの慌ただしく駆け回る音が、雑音と化した怒号と共に聞こえてくる。
 二人ともが、状況をすぐには判断できなかった。

 大人達の叫ぶ声を聞き、ようやく理解の始めた頃に、紫苑は父と母の姿を見つけた。
 完全武装の両親の姿と、それまで感じたことのない静寂と。覚悟を内に秘めたその様子に、咄嗟に掛けるべき言葉も出てこない。
 周囲には国の戦士達が揃っていた。

 紫苑は生唾を飲み込んで、知らずのうちに拳を作っていた。
 大人たちの目が紫苑を見据え、紫苑もその姿をまっすぐに見つめて、一歩一歩を踏み出さしていく。
 蒼志と紫苑の距離が、その間に人一人入れるかどうかというものにまで縮まる。
 紫苑は歩みを止めて父と視線を合わせるために、その面(おもて)を上げた。

「お前たちは逃げ延びろ」

 蒼志の第一声に、紫苑はすでに大きなその瞳をさらに見開いた。その言葉の発せられることあるをある程度予測しながら、それでも平静ではいられぬ衝撃を受けたのだ。
 体がどうしようもない憤りに震えだそうとしているのを自覚し、紫苑は必死にそれを抑えようとしている。その努力はすぐに無用のものと化した。
 蒼志の大きな手が、ぽんっと軽い音を立てて紫苑の頭上に乗せられるそれだけで、構えていたすべての固いしこりのようなものすべてが霧散した。

 大きな手だった。
 大きくて暖かくて、頼りになって、強くて。
 それはいつだって、紫苑の憧れだ。
 目標であり、それ以上に。大好きな、とにかくただ大好きな父の手だった。

「お前たちは生きろ。俺達がその活路を開いてやる」

 蒼志の声は穏やかだった。力強く、愛に満ちていた。
 紫苑の知る、いつもの父の声で、極自然体のままに語られた言葉だった。

「月代が何のためにあるのか、それをそれを忘れるな。民や俺がお前を生かすのは、そのためだけに月代があるからだ。月読の剣は紫苑、すでにお前にお前に渡っている。お前はそれをお前以外の誰にも渡すことなく、決して鍵として使用もさせるな。月神の加護に酬いるためにも、二度と月神に涙を流させぬためにもだ。それが、月代王の血を引いて生まれたお前の、ここに存在(ある)理由だ」

 それは王の言葉だった。
 厳しく、雄雄しく、決して逆らうことの、否することの許されぬ堂々たる声と態度。

「お前が死なぬ限り、月代は消えないし、終わらない」

 そして云うのだ。
 父と王と、その二つの優しさで、紫苑にはどのようにしても抗いえぬ姿勢を持って。
 無言のうちに語るのだ。
 自分達の生命を犠牲にしてでも生き延びろと。
 誰の命を犠牲にしようとも、月代としての生(せい)を守り抜けと。

 泣いてしまいたいと思った。
 紫苑はきつく閉じた瞳のその奥で、涙を流して泣いてしまえたならば、どれほど気が楽になるのだろうかと考えた。
 頭上に父の大きな手の平の温もりを感じながら、それはできぬと自身に言い聞かせた。

 それは己の矜持が許さぬ。

 信頼から生まれたものであり、成長から生まれたものであったそれを投げ捨てることなどできなかった。
 泣くことのできぬ代わりのように、父の瞳を正面から見つめた。
 そうすれば、彼の父親は対等の相手に相対する態度を持って、彼の息子の瞳を見返してくれるから。

 そうしていたのはどれほどの時間であっただろうか。
 当人たちにとってはあまりにも果てしなく、けれどどれほどであっても足りない。あるいは一瞬にも満たなかったのかもしれない。
 それでも、必要なものを受け止めあうには、充分な時間であった。

 瞬間でさえも良いのだ。
 互いの意思が、覚悟が分かち合えれば。
 それでいい。

 紫苑は一つ頷いた。
 そこにはどのような言葉も必要ではなかったし、言葉を発しようものならば、それまでどうにか抑えこんでいた涙がこぼれそうでもあった。
 そして響いたのは母の声だ。

「花梨、紫苑をお願いね」

 紫苑が蒼志に頷くのを確認して、緋蓮が花梨を抱きしめた。花梨の面(おもて)は蒼白になり、炎の明かりを反射して明るく映る。

「緋蓮様…けれど、私は……」
「花梨。あなたはまだまだ未熟です。けれど、月神に認められた月姫なのですよ」
「なれば…そうであればこそ、私は…!」
「花梨」

 縋るように見上げる花梨の青い瞳に、緋蓮は強く呼びかける。それは叱咤のようでもあった。
 決して荒々しくはないのにもかかわらず、それもまた、静かな威圧感を湛えていた。それから不意に優しく、諭すように話し始めた。

「月姫は月代にあり、月代を守るもの。その命は月代と共にあり、月神のご意向に沿って歩むべき道を定められるのです。そして何よりも、月王を助けるものなのですよ。お逃げなさい、花梨。そして紫苑を助けてあげて。月神も、それを望んでおられるわ」

 緋蓮の声音は優しく、花梨を抱きしめる腕は暖かかった。
 花梨の顔は涙のためにぼろぼろに濡れ歪み、不思議なほど目元が熱かった。熱くて痛い。まるで自分の熱が緋蓮の腕の中に閉じ込められたかのようだ。閉じ込めれられ、逃げ場を失ったぬくもりが、花梨の中で灼熱の劫火に変わる。その熱は高まるばかりで引く気配をみせない。にもかかわらず、緋蓮はそれさえ包み込む。
 悲恋の腕の触れる体は優しくて温かくて。母に抱かれるぬくもりを感じているのに。ぬくもりは花梨を満たし、腹の奥でとぐろを巻きながらせり上がり泪へと変わる。
 花梨を支配する灼熱を冷ますのは、耳を振るわせる誰より優しい人の声だ。それはゆるりと、花梨の心へ言い聞かせる。

「月代の国にこだわる必要はどこにありません。月は世界の隅々までも照らしているのだから。それこそ、陽の光の届かぬ、暗闇の世界でさえも」

 人に希望と試練を与え、絶望の淵より引き摺り上げるのが陽光であるのなら、人を狂気と神秘で包み込みながら、それでもなお人の闇に寄り添い涙を流させるのが月光だ。
 闇に満ちることさえできるのが月だ。
 緋蓮は花梨に微笑んだ。涙にぼやける視界にも、それは輝いて写った。煌ゝとした陽光の弾けるような輝きではない。それこそ、月の光のようなやわらかな輝きだ。
 花梨は思わず見惚れる。
 緋蓮は紫苑に面を直した。そこにあるのは微笑ではない。強く、厳しい母の顔だ。

「紫苑、生きなさい。そして、月神のお与えになった欠片を守り続けなさい。月神の力の欠片を、決して手放すことなく、解き放つことなく。目覚めさせることも、行使させることもなく…ただ、持ち続け、やがて、引き継ぎなさない」

 同じ試練と苦しみを。そして義務を。
 そのための道を確保すると――命をとしてでも確保してみせると、母の瞳は語っていた。





 紫苑と花梨は森の中を駆けていた。
 涙は止まったものの、未だ瞳のあかく腫れて俯いたきりの花梨の小さな手をとって前へと引くのは、やはり無言のままひたすらに足を動かす紫苑の小さな手である。二つの小さな手の握り交わされる後方――月代国へ向かう森の出入り口からは、絶えぬことのない剣戟と雄叫び、そして人々の悲鳴が、追いすがってくるかのようだった。


 何もかも振り捨てて逃げるのだ。
 逃げて逃げて逃げて。
 この命を、この血統を繋いでいくことだけがその役目。
 月の刻印を守るものの存続。
 それこそが、最優先事項。

 他のものは何も考えるな。振り返るな。
 一度でも振り返ってしまえば、もう、逃げることなどできないと知っているのだから。
 悲鳴も雄叫びも、故郷の滅び行く音すべてに耳をふさいで、闇雲に足を動かせ。


 それは無自覚的による言い聞かせだった。自分で自分に言い聞かせるしことでしかか、自分の荒れる心を説得のしようもなかった。
 とうてい納得のできないそれをそれでも実行に移すためには、自我など封じてしまうしかないではないか。邪魔であるなら感情さえも殺してしまおう。
 それでも、互いがいてくれるのであれば、いつか再び芽吹くこともあるだろう。紫苑は知っていた。国の滅びは悲しみを呼ぶけれど、孤独ではないそのことが絶望から自分達を隔絶させてくれると。

 二人は相変わらず無言だった。無言のまま、その小さな足を必死で動かし続けて辿り着いたのは月の泉。森の木々に遮られることなく、この泉の水面(みなも)にはやわらかな光を纏う月の姿が映し出されている。
 柔らかすぎて、賑わしい陽光の中にあっては色褪せてしまう光だ。静かなその光に満ちたそこには、故郷の滅びる音も、炎も届きはしない。
 泉の中に身を浸し月神の守護を頼る。その水の中にいるうちは、すべての焦燥から逃れられた。

 泉の水に身を浸しながら、紫苑は花梨の体を抱きしめ、花梨は紫苑の胸に体を預けていた。ただ項垂れているだけなのかもしれない。いつもならたいして疲れもせずに辿り着けるそこに来た頃には、二人ともが心身ともに疲弊していた。
 背後に振り払ってきたかの国では、彼らよりも尚幼い乳飲み子までが惨殺されているのだろうか。彼らと同じ年頃の子供であれば、もう立派に戦っているのかもしれない。戦い、命を落としたのか。

 何も聞こえないはずのそこに、炎の揺らめく姿が見え隠れしているような気がした。
 木の葉のこすれる音、梟の鳴き声、虫の音(おと)。すべてが重なり、淡く揺らめく炎の幻を形作る。
 月の水面さえ、夕焼け色に染まっている気がした。冷えるはずの身体が、炎の熱に焼かれているようだった。

 瞼を閉じて映るのは暗闇だ。朱く染まるのは朝が来たからか、炎の明るさか、意識が作り出した血飛沫の幻影か。あるいは抑えきれぬ荒々しき自我の叫びか。
 すべての音と色が消え、紫苑と花梨は水面からその身を出した。
 夜は未だに明けてはいなかった。炎の明かりは消え失せ、むしろ闇が深まっているかのようであった。

「戻らないと……」

 花梨が呟く。
 その瞳の焦点が定まっていないのを確認しながら、紫苑は花梨の動きを止めはしなかった。ふらふらとした足取りで歩く花梨の姿に、紫苑の表情が切なげに顰められる。掛ける言葉もなく、その歩みを助けるために腕を差し伸べることもできないのを知っていた。

 手を差し伸べても、花梨がそれを払いのけることはないだろう。代わりに、差し伸べられた手に縋ることはもちろん、支えられることさえもしない。
 彼女が絶望から立ち上がろうとすることはないだろう。炎に映えて見た月は、それまで見たこともないほどに禍々しく、燃え落ちる月代はどこまでも美しかったのだから。

 滅びゆく美…などという言葉さえ思い浮かびもせぬところではあるが、前を歩く花梨を見つめながら紫苑は思う。崩れゆく月代がそれでもなお美しくうつるのはきっと、冬の木枯らしもまた、美しいからなのだと。
 そう、信じたかった。思いたかった。
 春という復活のときへ向けてすべてが散ってゆくのが冬であるならば。再び蘇るからこそ、人はその死という季節を前にしても美しく微笑むことができるのだと、信じたかったのだ。
 月代は滅びの瞬間まで美しかったと思いたかった。現に、少年の心に残る今は亡き故国は、春の木漏れ日よりも、夏の川の飛沫よりも、秋の山の紅葉よりも、冬の雪の輝きよりも。何よりも美しいままだ。

(否、――違う)

 紫苑は胸中で己が考えを否定した。滅びゆく月代を見て、彼は決して笑えるような気分にはなれなかったからだ。
 廻る季節の美しいと感じるものとは明らかに異なる「美」でもってして、彼は炎の中の月代を美しいと感じたのだった。それはきっと、死にゆく人間の最後の悪足掻きにも似ていたのだろう。
 死に向かったときに見せる、鮮烈な覚悟。潔さ。賢さ。死の瞬間に見せる、最後の力。
 それは、あまりにも尊く、必死で、悲しい…。

(冬とは違う。月代は滅びた。きっと、復活はない…)

 不思議なことに、紫苑の身の内には「月代国復興」の思いがまったくといっていいほど、湧いてはこないのだ。月代王家の…というよりも、月代国の唯一の生き残りとしての自分がその思いに囚われないのだから、月代の滅びの後には冬に枯れた木々のような再生は訪れないということだ。
 

(月代はもう…月から見放されたのだから)

 見放されたから滅びたのではない。月に、加護するだけの余裕がなくなっただけだ。
 己が狂い、それでも尚、月は月代の滅びのそのときまで必死に守ってくれていた。
 戦い、導いてくれた。先頭に立ち、戦士たちを率いて。

(月が狂った。それだけのことが、起きているんだ)

 神々の世界で。
 常世の都で。

(何かが起こってる)

 立ち止まり、紫苑は空を見上げた。そこには月も、太陽も見つけることはできなかった。ただ蒼でも灰色でもない冬の空が広がるばかりだ。これから起こり得る「何か」に対して、彼は漠然とした予感めいたものを感じるのみで、明確なものは何一つ見て取ることができずにいた。
 花梨に視線を戻せば、やはり歩みは覚束(おぼつか)ないままで、紫苑はやはり切なく瞳を閉ざすことしかできない。再び瞼を押し上げ、花梨の後を追って歩き出した。
 地面に落ちた視界には、自分の足の交互に差し出される様のみが淡々と写り続ける。拳は無意識に握りこまれていた。



 漠然とした予感だけは、感じていた。





 月代の焼け落ちた跡には、何も残ってはいなかった。
 焼け落ちた建物の残骸。
 いったい誰であるのか――身元はもちろん、性別さえも判別不能と化した死体の山。
 何も残っていない。

「これ…一枚か……」

 月代国の象徴である絵図の施された布きれが一枚きり。紫苑の前で沈黙していた。
 形らしい形を残しているとかろうじて云えそうなそれを手に取り、紫苑は背後に首をめぐらせる。崩れ落ち、大地に両の手をつけて俯いたまま、黙して花梨がそこにいた。

「花梨…」

 声を掛けた。反応が返されるとは思っていなかった。紫苑は再び正面に視線を向けた。
 今度見た空の彼方、山の向こうに遠く、月が揺らめいていた。

「月姫は、月に仕えて、月代と共に…」
「――紫苑様…、月代王……」

 あまりにも小さい花梨の声は、あまりにも静かな墓地のために紫苑の耳に届けられた。
 紫苑はいささかの意外さを伴って視線をめぐらせる。この場にあって、花梨が何かしらの反応を示すとは思いもしていなかったのだ。
 花梨を見れば、彼女は地に正座し頭(こうべ)を垂れていた。揃えて置かれた両手の指に、形の良い額が付いているかと思われた。腕を伸ばし、面(おもて)を上げたその瞳が昏かった。

「月代王…」
「……」
「お暇(いとま)を、お願いしたく申します」

 紫苑は花梨を見つめ続けた。
 花梨はその瞳を紫苑の瞳に合わせようとはしなかった。頭を垂れ――いや、頭は上げられているのだ。視線だって紫苑を射抜いている。視線が紫苑を射抜いているだけで、自らのうちの中に篭もった彼女がそれを見ているとはいえないだけだ。そのままで、淡々と用件のみを並べていく。

「月代は失われ、あとは、ひたすら月に従うのみと…願います」

 花梨が云う。
 嘘だと思った。

 花梨が月に魅入られていることは知っていた。だから、その言葉のすべてを嘘だと思ったのではない。嘘だと感じたのは、語らぬ部分についてだ。
 言葉が足りないだろう、と紫苑は思った。憤りだった。怒りだった。瞬間的に湧き上がり、それ以上の速さで霧散した怒りだ。

「月代の復興と、刻印の守りはどうする?」

 思ってもいないことを口に出して訊ねてみた。
 答えた花梨の声には、とうの昔から抑揚が失せていた。まだ滅びる前、月代から逃げ出した時にはすでに、彼女の心はこの世から消え失せていたのかもしれない。

「それは、月代の王であらせられる紫苑様のお役目にございます」

 どのような答えを想定していたわけではないが、紫苑にとって、花梨のその答えは予測の通りであるような気がした。
 花梨は放棄したのだ。これ以上の生を。

(月じゃなくて、月代をとったか…)

 紫苑はゆっくりと瞳を閉じる。
 月姫は巫女だ。巫女は現世ではなく、人の世ではなく、神につく。
 だが花梨は人の世についた。
 現実の絶望に耐えられずに、巫女として神とともに生きることを、自らの仕える神のために生きることを放棄して。
 もはや失われた愛すべき人々の元へ赴くことを選んだのだ。

(月に従うなんて詭弁だ)

 月神は自らの力の欠片たる刻印の守りを、月代の民に託したのだから。自らは完全に干渉することの叶わなぬ人の世に置かれた月の刻印を確かに守るために、それを守るべき人への庇護を約束したのだから。
 そのために、狂いながらも月代を守って下さろうとしたのだから。
 しかし、紫苑の口から出たのは別のことだった。

「月代の王は父上だ」

 紫苑はまだ王位を継いでいない。次期国王としての資格を確立されただけだ。
 花梨は頭(こうべ)を下げたまま言葉を紡ぐ。淡々と。淡々と。事実を紡ぐ。

「前代の王であられる蒼志様はお亡くなりになりました。月代の王たるは月神がお認めになるか否かにございます。紫苑様はすでに弓と矢をもって兎を射止めておりますれば。それをもって、私(わたくし)、月姫たるはあなた様を「月代の王」とお認めいたします」
「……だろうな」

 紫苑は無感動に呟いた。
 遠くで鳥の鳴いているのが聞こえる。あの小さな体で、よくこうも遠く響く声を出せるものだと、ぼんやりと思った。

「月神が人に与えた神格(たましい)は、すでに紫苑様に受け継がれております。であれば、私は月の神格の担い手としての紫苑様、あなた様に、お願いし申し上げるのです」
「許さなければ。どうする」
「……逃亡し(にげ)ます」

 花梨はきっぱりと告げた。その声音には吐きの欠片もなく、それと同じように、躊躇いも迷いも存在しなかった。
 それでも、彼女が紫苑を正面から見つめることはなかった。

(逃げる…か)

 お役目から逃亡をはかるということは、自らその生に死を与えるということだ。月神はその行為を許しはしない。
 生も死も、それを与える権利を持つのは月神だけなのだ。まして月神に直接に仕える月姫のそれは、月王にさえ、許されることではない。
 神の支配権を犯すことへの罰は、永劫の…――。



 いっそ、この剣(つるぎ)の錆びついて、使い物にならなければよいのに。








 紫苑は額を地に付けて礼をする花梨の姿を見つめていた。まだ小さなその背中から生えるように伸びる剣(つるぎ)の先端は、彼女の肉を突き破り――。
 おそらくは、大地に突き刺さっているのだろう。彼女の体を中心として、曼朱の華が花弁を開いていく。じわじわと、広がっていく。

 紫苑の腰に下げられた鞘に、剣は収められていない。

 花梨の命の費えるその瞬間が苦しいものであったのかどうか、紫苑にはわからなかった。彼女の面(おもて)は伏せられたまま最後まで紫苑に向けられることはなかったし、これからその表情を検(あらた)めるつもりも紫苑にはなかったから。

「月神から神格を預けられし人格の一(いち)として、月神に代わって月姫の任を解く。いづれ新たな生が月神より与えられるそのときまで、冬の永きに耐えるといい…」

 それが、お前の選んだ道なのだから。お前が選ばせた、人(俺)に強要した道なのだから。

 それは自己弁護であるのかもしれなかった。紫苑はそっと瞳を伏せると、剣を、骸(むくろ)をそのままに、踵を返して歩き去る。
 しばらくあたりをうろついていると、月代のシンボルの描かれた柱の跡を見つけた。
 これはいったいなんだったんだろうか。それすらも、もう思い出せない。
 寄りかかっても折れそうになかったので、そこに腰を下ろすことにした。
 どかりと、音を立て座り込んだ。
 ひどく疲れていた。
 けれど絶望していない自分が不思議だった。

 見上げた空には星が瞬いていて、あたかも目を閉じているかのようだった。このまま空を眺めていれば、いづれ再び月も出て、時の経過を知ることもできるだろう。瞳を開けていることさえできぬまでに衰弱しても、写る景色は変わらないのだから。
 何も変わらない。この焼け跡が風化していく前に、どうせ、写らなくなるのだから。





 どれほどの刻を…などという永い時間をおかず、それは比較的早く訪れた。何と比較してかと問われれば、それは己に降りかかるだろう飢えと孤独からだとでも答えようか。あるいはもっと単純に、彼が死ぬのが先か、それが訪れるのが先かと。

 男の問いに紫苑は答える。
 死ぬのを待ってる…、と。

 陰陽連――。
 月代の国を滅ぼし、月代の民を根絶やしにして、月神までも狂わせたものたち。その頭目らしき男が、目の前で笑んでいる。自分に手を差し出している。優しい優しい、救済者の仮面をかぶって。

 紫苑は差し伸べられた男の手を取った。
 待っていた死が訪れたのを知った。

 死だ。

 月代の王として、今、紫苑は死を迎えた。同時に新たなる誕生を迎える。無知なる亡国の王子としての生が、今まさに始まるのだ。
 これが神の権益を犯した己への罰であろうか。その逆であろうか。
 紫苑には判別のしようもなかった。どちらであろうとも、彼の目的は変わらなかったし、進むべきも道もただ目の前にまっすぐと引かれている一本のみだ。

 生きるのは、ただ月の刻印を守るため。
 月の刻印を野放しにすれば、誰の手に落ちるかわからない。だから、花梨と繋いだ手を離し、別の誰かの手を取った。
 いづれ、今度はこの王子が死を迎え、王が、冬から春へと季節がめぐるように、復活を迎えるときが来るのかもしれない。それがいつ、どのような状況で訪れるのかまでを測ることなど、紫苑にはできぬことであったが。

(高天の都が消滅すれば…王の復活さえ、必要とはしないのにな…)

 高天の都が人々の記憶から消えるか、または高天の都を開こうとするものがなくなってしまえば。紫苑は王だろうと王子であろうと、今すぐにだって死んでしまえるのだ。
 永遠に光の差さない暗黒の世界で彷徨い続ける代わりに。永遠に、誰も失わずにすむ。誰も、月の刻印を求め、使用しようとしないのであれば、それは可能であるのだ。

 ならば…――。
 紫苑は唐突に思う。もしそうであるならば、高天の都を求めるすべて、高天の都を知るすべてを屠り去ってしまえばいいのではないのかと。
 誰も彼も、殺してしまえばいい。
 けれど、それは確実ではない。永遠の保証がない。いずれかの未来に高天の都を開こうとする何かが現れるかもしれない。
 そのときに、月の刻印が野放しになっていたら…。

(いっそ、俺が壊してしまおうか……)

 高天の都を開き、足を踏み入れ、神威力を手に入れて。

(高天の都の消滅を、刻印の消滅を願おうか――)

 それならばきっと。
 戦乱の世だってなくなるはずだ。
 だって、高天の都に閉じ込められたそれから、戦(いくさ)は創(はじ)められたのだから――。



 そして再び彼女に会いたい。
 あの森の中、二人で取り合った手の温もりを、
 もう一度だけ…。







月の美しさも花の美しさも、泉の清らかささえ。
炎に照らされ狂わしく、戦を止める力を持たない。










こめんと
 2004年5月1日〜2005年7月14日に渡って拍手の方に連載していた「月姫」です。ご要望をいただけたので、一つにまとめてUPしてみました。ちょっと長いので前後編に分けようかとも思ったのですが、すでに一度発表している作品ですのでいいかな〜…と。重い上に無駄に長くてすみません(平謝り)。
 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2005/06/13〜05/09/01
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