血星石 







地獄の中に佇む君に、僕は手を差し伸ばしはしない。







 彼の世界は黒と白。だからこそ、彼はアクマを見分けることができるのだという。
 けれど知っている。知ったのだ。
 アクマの姿を見るのではなく、彼はいつだって、惨めにも拘束された生贄の姿を見続ける。
 それを目にして渦巻くのは憐れみや苦しみなどではない。ただ吐き気を催すのに似た、蔑みと嫌悪。

 嫌悪。

 生きもせず、死にもせず、ただ惨めに。
 きっと、地獄に落ちた者達の姿はああいうものなのではないだろうか。
 垣間見て抱くのは憐れみではなく、嘆きではなく、恐怖ですらなく。
 嫌悪だ。
 人の本性を丸出しにして拘束した姿。
 美しい皮の一皮捲った姿。
 だから、人には魂を見る能力などないのだ。あってはならないのだ。

 ああいう、ただ惨めなだけの、気分の悪くなる姿など。

 もはや生きもせず、さりとて死にもせず。
 グロテクスなその魂は、人の本性を暴き立てる。
 ただ嫌悪を。
 ただそこにあるのみの――。



 汽車は静かに揺れていた。車窓に映る景色は一定の速度で止めどなく流れていく。
 先ほど、仲間になったばかりのクロウリーが初めての汽車に浮かれて探検へ赴くとはなしに席を離れていった。アレンとラビにしてみれば、ほとんど厄介払いのような気持ちでけしかけたことだ。別に本気で厄介払いしたわけでもないが。

 アレンとラビは隣り合って座ったまま、特に何を交わすでもなく。瞳を合わせることもなく。
 流れる空気は軽いものではなく、和やかさなどもちろんなく、穏やかさにもほど遠く。どちらかといえば重苦しい部類に入るかもしれない。さりとてそれで気詰まりになり、どちらかが席を立つこともなく。
 汽車の中では誰がその様子を気に掛けるわけではないが、むしろ周囲の方が気を使いそうな雰囲気を纏いつかせて、二人は隣り合って座り続ける。

 ラビはアレンからは反対側、通路を挟んだ先に置かれた窓から、見るとは無しに流れる景色を見やっていた。風景が瞳に写り、脳にまで到達しているはずもない、見た瞬間には忘れられている情景。
 ぼんやりとした頭で考えられるのは、隣に彼の瞳の写す世界。
 それがあれば、きっと今よりももっと便利で、楽になると単純に思う心が、確かに会った自分のこと。

(だって、はっきりと「標的」がわかるんだぜ?)

 風景は流れる。
 思考は海を漂う海月のように、取り留めもない。
 不意に耳に入った声は小さく、それまで彼が必死で話しかけていたことにようやっと気がついた自分を、普段ならば胸中苦虫噛み潰してなじるのにもかかわらず。
 常ならば慌てて返事を返すにもかかわらず。
 視線を向けたことさえ億劫な気だるい動作であって、それをなじる気力さえ湧いてはこなかった。

「――それでね、ラビ。この左目、今度からは僕の意思で操作できるみたいなんです」

 彼は話し続ける。けれどラビに視線を向けることはない。
 人の態度には敏感な彼のことだ、ラビが彼を見つめていることには気がついているだろう。それまでの話しを聞いていたか否かを、これから話す事柄を聞いてくれているか否かを、確かめるのが怖いかのように。気に掛けるのが怖ろしいかのように。
 たとえば、まったく耳を傾けていてもらえなかったその事実を目の当たりにしなくてすむようにと。
 そっと瞳を伏せがちにさせて、その瞳が見つめる先には彼の手袋に包まれた手。素肌を晒されぬ手が、祈るように組まれている。

「だから、僕の近くにいなければ、瞳を閉じているように…見ないでいることもできるんですよ」

 彼は伝えてくる。自分の隣いるからといって、必ずしもアクマの姿を見る破目になることはない。
 けれどその言葉になんの意味もないことは、誰よりその言葉を紡ぐ彼自身が知っていることだ。アクマを見逃すようなことを、彼が行うはずもなく。自分が彼の隣にいて、アクマが彼の視界に入るのであれば、また再び、あの惨めで醜い魂の姿を見ることになる。

「……ラビ」
「ん?」

 話しかける彼の声に、初めて声を返した。

「……僕と戦っていくのは…嫌、ですか……」

 ヤバイ。もしかして聞かれただろうか。コムイへ報告していた内容を。
 …いや、それはないだろう。

 ラビは即座に自分の考えを否定した。
 彼は、聞いてなどいなかった。だって、あの時、自分の声の届く範囲に、彼の気配は感じなかったから。
 どんなに、何に集中していたとして。
 どれほど、己の内に引き込んでいたとして。
 硬く閉じこもり、外郭に壁を作り出し、すべてを遮断したところで。
 彼の気配に気がつかぬはずがない。

 ラビはそのことを知っていた。

「クロちゃん、探しに行こっか」
「ラビ?」

 ようやくこちらを向いた彼。声には思いがけない事態への驚きが含まれていた。
 ラビはそれには頓着せずに席から腰を上げる。

「ラ、ラビ?!」

 そのまま歩き出しそうな彼に、アレンは慌てて腰を浮かしその名を呼ぶ。
 呼び止めるためか。
 追い駆けるためか。
 ラビの脳裏に瞬間過ぎり、けれど、そんなものはどうでもよかった。
 クルリとアレンに向き直る方向へと体を回転させて、ぴたりと止まる。片手で後ろ頭を抑えて、ちょっと困ったようないつもの微笑は、ラビ特有の優しい笑みだった。

「クロちゃんが汽車探検に出てから、もう3時間になるさ」

 心持ち肩を竦めて云えば、アレンは今まさにその事実に気がついたように目を見開き、慌てて立ち上がる。
 立ち上がり、しゅんとした意気消沈とでもいうかのような様子で、俯いてしまう。今度はきちんとアレンの様子をラビは見ていて。アレンの視線がラビを写さぬようにと逸らされるのを見つける。
 だから、ほんの少しだけ微笑った。

 もちろん胸中でだ。少しは表情にも出てたかもしれないけれど、声には出してない。
 そもそも声に出して笑うような類の笑みではないのだ、これは。もっとずっと優しくて、暖かな笑みだ。
 そんなことを自分にいいきかせているのに気がついて、ラビは今度は自らに向けて胸中、苦笑を浮かべる破目になるのだった。

 きっと、目の前にいるこの優しい子供は小さく震えている。
 そして、あまりにも愛しい嫉妬をしてくれている。
 愛に臆病なその嫉妬が怒りには転ずることはなく、それは落胆と僅かばかりの悲しみへ変換せされる。

(アレンより、クロちゃんのこと優先させるなんてことがあるわけなんて、ないのにさー)

 目の前にいるその存在が愛しすぎて、かわらしすぎて。
 その小さな胸に抱いてくれている気持ちが嬉しすぎて。
 やっぱり、笑みを隠すことなんて不可能で。

「探しに行くデショ。――『一緒』に」

 云って手を差し出せば、はっとして顔を上げるその子がやっぱり愛しくて。
 ラビは、すでに浮かべている笑みがさらに深まるのを自分でも自覚した。

 しばらくラビから向けられた手の平をじっと見つめていたアレンは、恐る恐るといった態(てい)で。
 そっと、広げられた手のひらに、己の手を重ね合わせるように乗せた。
 ラビはすかさずその手を握り締め。

「んじゃ、行こっか」

 にぱりと笑いかけて、その手を引いてずんずんと歩んでいく。
 繋いだ手が、やがてきゅっと握り返されて。だから、ラビはやっぱり笑みを浮かべた。



 一緒に戦い続けるよ。君の隣で。
 そのためにならばいくらでも、僕から手を差し出そう。
 君はいつだって、本当は極彩色の世界に、切ないまでに恋焦がれているのを知っている。
 夢見ているのを知っている。

 地獄で責め苦を受けること。
 本気で受け入れられる人間が本当にいるはずなどない。絶対にない。
 いつだって、人は自由と夢を追い求める。それが本性で、その権利を持っているのだから。
 誰かの痛み。嘆きや悲しみに心を痛めるのは、それが辛いから。それが本性だから。
 そして痛みを見たくないのは、自分が痛くなるのが嫌だから。痛みを感じているから。
 そして、君は痛みを感じ続けている。夢を知っているから。
 君は、夢を見ている。

 だから、君がそれを望む限り、僕は君に極彩色の世界から手を伸ばす。
 君がその手を掴み取ることを知っているから。
 君が精一杯伸ばしたその手が、必ず僕の手を掴めるように。
 君が手を伸ばしたいのに、それを躊躇っているのを知っているよ。気づいてる。

 だから僕は地獄に佇む君に手を差し伸ばしはしない。
 手を差し伸ばしたときに、その手を取るか否かを決めるのは、君だから。
 僕は君にこの両の腕を伸ばし、君を拘束し。
 胸に掻き抱(いだ)いて。
 君が暴れても、絶対に離しはしてやらない。

 逃げるように掻っ攫ってやる。
 君に選択権など与えない。
 差し伸ばされた手には何かを掴み取る権利など与えられておらず、ただその手が取られるのを待つばかりだから。
 そんなのは絶対にごめんだから。



 地獄という名の神の支配下から極彩色の俗世へと、無理矢理にでも君を引き摺り上げてやる。







――だから僕は 地獄に佇む君の隣には 決して 寄り添いはしない――









talk
 第41夜(2005年18号掲載)のネタバレというかなんというか。勝手解釈すぎて意味不明というか、伝えたいことが上手く書ききれずに消化不良というか。いや、地獄ってけっきょく神様の領域だと思うんですよ。だって地獄に落とすのは神様で、悪魔っていうのは基本的に神様に勝てないんでしょ?(別に勧善懲悪なんて信じてませんよ。だって現実に神様って完全無欠じゃないし)。つまりはこの世じゃない、生きた人間の関わることのできない、関わるべきでない世界なんですよね。地獄って。天国は想像できなくても、地獄はいくらでもリアルに、活き活きと思い浮かべることができるんですよね。人って、それは、そこに現実の苦しみを反映させればいいからで、それを見ることができるのは、それが所詮は人事だからなんですよ。人の不幸を見て、自分を慰めるんです。それって、その心理にはっきりと気がついてしまうと、あまりにも虚しいというか惨めな気持ちになりそうだとか思ったり。人が辛いのを見てるのって、自分も辛いですし…。そういうことも含めて、ラビはアレンの見ている世界をとって「地獄」と表したのかなとか。
 …ええっと、とにもかくにもこれってば初、表D.Gra-man小説。初、表でラビアレ。なのにこのダメっぷりはいったい…。なんか私は初ジャンルに挑むときはシリアスじゃないとダメみたいです。
 タイトルの「血星石」はブラッドストーンのことで、3月の誕生石の一つです。本当は「ヘマタイト(宝石言葉「返信、勇敢、知性、自己認識、心の内に燃える思い」など)」とつけようとしたのですが、いろいろ調べているうちに、ヘマタイトとブラッドストーンを混同して説明している資料と別のものとしている資料とがあってよく分からなくなってしまったので、名前に「星」が入っている「血星石」にしました。アレンが額(?)の星を見てる場面があったので。ちなみに、この石は黒いダイヤとも呼ばれ、傷をつけると血のような赤い筋が浮かび上がるそうです。どんなに厳しい困難にあっても生きようとする欲求、力をもたらす作用があるとされ、戦場に向かう男たちのお守りともされていたようです。血液の浄化作用もあるとか。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/04/05_ゆうひ
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