ある日、森の中で
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銀灰色の瞳の少年が一人遊びをしていた。小さな両の手に持つのは、真っ赤なボールだ。どこにでもありそうなボールは、しかしその小さな子供が持つにはあまりにも大きなものだった。 小さな少年は両手にいっぱい広げてようやく持てる巨大なボールを抱えて込んでいる。とてとてとやや駆け足気味の歩みは、今にもバランスを崩して倒れそうに危なっかしく、それがまた愛らしかった。 街の喧騒から離れた森の中。これから本格的な人の活動が始まるという時間よりも少し早い頃で、透けるような陽の光が森に薄く差し込んでいた。 そんな早い時間に何をしに来たのだろうか。こんなにも小さな子供がたった一人で来るには、この森は些か深く危険である。 それを知っていても、少年は歩みを止めなかった。 少し開けたところを見つけると、少年は小さな忙しなく動くその足をようやく止めた。手に掛かえていた赤いボールを、転がっていかないように慎重に置く。 ボールが完全に止まっているのを確かめると、今度はそのまま動かさないようにそっと手を置き、その上に乗るように足を掛けた。 ボールに乗るように、ではない。少年はボールに乗ろうとしているのだ。不安定に揺れるその上に、両手を広げてバランスをとりながら、少年は立ち上がろうとしている。 両手を翼のように広げて、少年はぴたりと球体の上に立ち上がる。そこで漸く少年の顔に笑顔が生まれた。嬉しそうに笑い、今度は上着の内側に手を入れて、何やらごそごそと漁っている。少年が手を引き出すと、そこには小さな色とりどりのボールが、少年の小さなふっくらとした手から溢れんばかりに握られていた。 少年はそれを一つ一つ中(ちゅう)へと投げていく。落ちてくるボールを採っては投げて、投げては採って、くるくると空中を回転させていく。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ…。 カラフルなボールたちが己の持つ色の影を残して、少年の小さな手を通過点として、くるくると中(ちゅう)に弧を描き、やがてそれは円になる。 お手玉だ。 少年はバランスの悪いはずの球体の上に平然と立ち、そのバランスを崩すことなく、カラフルなボールを操っている。 それはいつまでも続くかのように見え、見るものの視線を奪い、少年の笑顔は輝いていた。 始まりが少年が意思によるものであれば、その終わりもまた少年の意志による。手にとっては中へと投げていたボールを、今度は新たに放り出さずに手の中に納める。 まるで良く躾けられた犬が主人の合図で順に小屋に戻るかのように、ボールは一定の速さを崩すことなく少年の片手の中(なか)に収まっていく。一つ、二つ、三つ……。 ……四つ目のボールを手の中に納めようとしたときに、それは少年の手から零れ落ちて草の上を転がった。少年は慌てて残りの一つを、それまで三つのボールを納めたのとは逆の手で受け止めて、乗っている紅い球体の上から飛び降りて零れ落ちたそれを追う。 少年の小さな手の平には、三つ以上のボールは収まることができなかったのだ。 ころころと減速する気配さえ見せずにボールは転がっていく。緑の森の中に良く映える、赤い色のボールだった。 あおでもきいろでもみどりでも、むらさきでもない。 あかいボールが転がっていく。 お手玉の玉が転がっていく。 少年の大切な、商売道具が転がっていってしまう。 ――マナ。 少年は腕を伸ばしてボールを追いかける。途中、足を絡ませて転びそうになりながら、ずっと、ずっと追いかける。 けれど少年の小さな足では追いつかず、小さな腕をいくら伸ばしても届かない。 ――マナ。 そのボールは少年の大切な商売道具だ。いずれ、そうなる予定のものだ。 大好きな大好きな、少年が決して嫌われたくない養父が自分の練習用にと与えてくれたものだ。それを与えられた日の喜びを、なんと表現すればいいというのか。 決して忘れることのない、それは歓喜の瞬間だった。 それを手に受け取り、養父からボールを自在に操るコツを手ずから教わって。 その幸福を、ああ、いったいなんと表現すればいいというのか。 ――マナ。 少年の小さな瞳に涙は浮かばない。そんな余裕さえないからだ。 それは決して失ってはならないものだからだ。 それを贈られた日。 それを受け取った瞬間。 少年はそれを操って養父の手伝いをしようと、静かに心に誓った。 決して表出さなかった誓いだ。表に出すまでもなく、あまりにも当たり前の、少年が少年自身に課した義務だ。 だから、少年は手を伸ばす。 ころころと転がり続けるボール。 あおでもきいろでもみどりでもなくて、むらさきでもない。 たった一つのあかいボール。 走っても走っても、走れば走るほど、その距離は開いていくようだった。 不意に影が視界を掠めた。 立ち止まり顔を上げると、そこにはやわらかそうな灯火色(ともしびいろ)の髪の少年が立っていた。銀灰色の瞳の少年よりも、二つか三つ――あるいはもう少しだけ――年上だろうと思われた。 手には赤い色のボール。 「あ、あの…」 銀灰色の瞳の少年が口を開いた。ほんの少しだけ、少年は人と話をするのが苦手なので、だいぶ、どきどきしていた。 赤いボールを手に持った少年はにこりと笑い、ずいと腕を差し伸ばしてきた。赤いボールの握られた手を。 「あ、ありがとう…ございます……」 小さな少年はそっと、両手で包むようにしてそのあかいボールを受け取る。小さな少年よりも背の高い灯火色の少年を上目使いに窺い見た。 少年は相変わらず笑ったままで、小さな少年を見ていて。その笑みがひどくやわらかくて優しそうなので、小さな少年はほっと安心して、ようやく微笑んだ。 「もう落とすんじゃないさ」 「うん。拾ってくれて、ありがとう」 小さな少年は、今度は顔を上げてお礼を言った。 バイバイ。 お互いに片手を上げて、別れの挨拶をして。 それぞれに反対の方向へと駆けていく。 元来た道へと帰っていく。 「また」とはお互い云わなかった。 帰り行く先はお互いにまったく関係のない世界だったから。 世界なのだと、そのときの二人は、理性を持って確信していたから。 日が高くなってきた。森はもう遥か遠く、背後を振り返っても見ることはできない。 灯火色の髪の少年は己の腕を組んで枕にしていた。荷馬車の揺れが心地良く、このままたいした労もせずに眠りの淵へ誘ってくれるだろう。 「どこへ行ってたんじゃ」 「ん〜?」 横から聞こえた問いかけに、少年は曖昧な音を返事の代わりとして返す。はぐらかすような、あるいはまったく話を聞いていないときの生返事のようなそれを少年が返すのはいつものことなので、問いの主も今さら目くじらを立てることもない。 問いかけてきたのは少年の師である翁で、少年の記憶に寄れば、後数年で80歳になるはずだった。正確に云えば、あと―――。 「まったく、ふらふらと」 「おこんなよ、じじぃ。ちょっと、」 少年は言葉を止め、翁は僅かにいぶかしんだが、けっきょくそれ以上何も聞かなかった。 弟子である少年の気まぐれは、今に始まったことではなかったから。 ちょっと、赤い子供がきれいだったから。 「ちょっと、寄り道さ」 少年は小さく呟き、けれど、それを聞くものは誰もなかった。 |
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ちっちゃなアレンとちっちゃなラビが、実は会っていたんだよ〜という妄想です。アレンの髪の色がわからないので、最近(4巻発売は5/2)になって判明したアレンの瞳の色だけの描写です。ラビの方も眼帯の理由はもちろんのこと、いつからつけているのかも不明なので、あえて記述を避けました。瞳は緑に金が混じったような色だと勝手に思ってますが、まあ、アレンが瞳の色だけなので、ラビも瞳についての記述はカットで、(意味もなく)対にしてみました。本当に、本当に、ちょっとした邂逅です。お互いに、きっとその日の内に忘れてしまうだろうほどの、何気ないできごとです(ラビは覚えてるかな?でも思い出さないような何気ないちょっとした事件)。誰も知らないし、本人たちにもわからないけれど、二人はずっと前に出会っていたんだよっていう話を書きたかっただけなんです。 ちなみにタイトルと前後一行は某童謡から。別に初めからその童謡を思い浮かべて書いたわけではなくて、書き上がってみたらその童謡が浮んだのでタイトルに持ってきたという…。本当はアレンを子供、ラビを少年で表記を統一しようと思ったのですが、どうにも(私的に)語呂が悪く感じたので断念。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/05/04_ゆうひ |
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