あなたの名前
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ねぇ、アレン。 知ってる? 君に僕の名前を呼ばせてあげることができなくて。 君が少し、涙を流しているのを知っていて。 僕に抱かれて美しく啼く君が、僕の名前を呼ぼうとして声を詰まらせているのを見続ける。 快楽に溺れ、僕に溺れ、縋るように差し伸ばされる腕。 開かれて、声を潰してしまう君。 何度でも、声を潰してしまう君。 僕の名前を呼ぼうとして、それが出てこないことに、瞳の奥にやるせなさを写して、君は声を潰してしまう。 それを見続ける僕。 ねぇ、アレン。 ごめんね。 その代わり、僕が呼ぶのは君の名だけ。 他の誰の名前さえ、僕は呼びかけることなんてしないと。 君には内緒で、勝手に誓っている。 僕にとって意味のあるのは、君の名前だけだよ。 「お父さんって、お父さんっていうんだよね?」 「ちがうよ。お母さんは、お母さんだけど、おなまえは、アレンだもん」 「じゃあ、お父さんは?」 テーブルについておやつを口に運んでいる双子のうちの一人がくるりと振り向いて問いかけてきた。口には子供用の、先の割れたスプーンをくわえている。口の周りと胸の辺りがベタベタに汚れているのを見て、アレンは涎掛けを掛けて置いてよかったと、いつものように苦笑した。 まだ五つにも満たない小さな子供は、まぎれもなく、彼女がお腹を痛めて生んだ子だ。それまでは夫婦一緒にあちらこちらへと旅をしていた――正確に云えば、ブックマンとして様々な土地へ赴いては歴史を記録する夫についてだ――が、子供が生まれると同時に、妻は一所(ひとところ)に定住する決意を固めた。子供達がもう少し大きくなったら、またどうなるかはわからないことではあったけれど。 白い髪が腰元まで伸びていた。以前――彼女の夫と出会ったばかりの頃は、その髪色を気にしない振りをしながら、その実ひどく気にしていて、できるだけ隠そうとしていたが、彼が「きれい」だと嬉しそうに触れるだけで、今度こそ本当に気にならなくなった。 他の誰に奇異の眼で見られようとも、たった一人がそれを美しいと喜び、好きだと微笑んでくれるのであれば、そのためだけに隠すことさえつまらないことに思えてくる。事実、彼女の髪は美しかった。 「……ねぇ、お父さんのおなまえは、なんていうの?」 小首を傾げるしぐさが彼の父親に似てきたような気がするのは、もう随分と長く、彼と会っていないからだろうか。愛を疑うことも、愛が薄れることもない分、出会えぬときを数えては酷く寂しいと思うことは、どうしても止められない。 母親の銀灰色の瞳をまっすぐに見つめて問いかける我が子に、アレンは小さく笑いかけた。洗い物をしていた白く美しい手が濡れているのを、エプロンの裾で軽く拭き取りながら子供達の方へと足を進める。すらりと伸びた両の腕は美しくて、しかし左の手の甲に小さな十字型の古傷のようなものが見えた。昔、そこには彼女の不幸と幸運の始まりが納まっていた。 実の親から嫌われた不幸。愛する養父を得られた幸福。 養父を破壊する不幸。絶望に囚われた養父の魂を開放することのできた幸福。 思い出すとちょっとあれな師に拾われた不幸。共に歩む仲間と、帰るべきホームを得た幸福。 機械と魂と悲劇に立ち向かわざるを得ない不幸。彼に出会えた至福。 今はもうないそれは、彼女の人生を荊の道へと誘い。そこで、彼女は得られなかったことなど考えることもできぬ、掛け替えなのない幸福の数々を手にしてきた。 目の前で己の答えを待つ小さな子供達も、その幸福の延長の上に生まれた、掛け替えのない宝物だ。どれほどの死と絶望に向き合わされても、彼女はそれを持って生まれたことを悔やんだりはできなかった。 むしろ、感謝したい。今ある、この幸福に。 「お父さんは、お父さんですよ」 アレンは幸福とほんの少しの切なさを持って答えた。納得しないだろうとわかっていて、それしか答える言葉がなかった。父親の名前が消去されているとは、まだ上手く、説明できそうにない。 さて、どうしたものか…と考えているときだった。ダイニングから続く扉がバンっと音を立てて開き、 「たっだいま〜!今帰ったさ」 満面笑顔の男が一人。にっこ、にっこ、と効果音まで付きそうな笑顔のまま、扉を開け放して閉める気配も見せずに佇んでいる。 右目の眼帯が特徴といえば特徴のその男の正面には、おやつに手も顔もベタベタにした双子の兄弟と、その母親である女性。突然の出来事に、瞬きも忘れて呆然と時を止めていた。 夫または父親、帰宅。 最後に会ったのはもう半年も前のことだ。子供達はその顔をきちんと覚えているだろうか。今まさに話題にしていたのだから、存在を忘れているわけではないはずだけれど。 云いたいことも、気がかりもたくさんある。頭の中ではいろいろなことが取り留めもなく、目まぐるしく、ぐるぐると駆け回っているけど。 「…お帰りなさい、あなた」 アレンは微笑って迎えた。 とりあえず。 云いたいことも聞きたいことも、気がかりも。すべては後回しだ。 せっかく、久しぶりに、会えた。その嬉しさを噛み締めよう。彼を温かく、笑顔で迎えよう。 まずは、それからだ。 「たっだいま〜、アレン」 男は笑顔でアレンを腕の中へと包み込む。 まるで散歩に行く前の犬のようにしっぽを振っているかのようだ。喜びを全身で表して、アレンの頬に自分の頬をすり合わせてくる。 アレンはそれを瞳を眇めて、幸せのうちに受け取った。 それから男はアレンの肩口から部屋の奥に視線を送り、軽く片手を上げて声を掛ける。 「よ、ダブルリトルズ。元気だったさ?」 ダブルリトル……。「なんだそれは…」と、男が双子の我が子のことを初めて呼んだときには呆れたものだが、今では逆に男らしい、と微笑ましい気持ちになる。アレンは久しぶりに見る父と子のコミュニケーションに、嬉しくて微笑んだ。 小さな子供達は、大きな瞳をぱちぱちと瞬(しばたた)かせて小首を傾げる。もしや忘れてしまったのだろうか? アレンがちょっと心配になって口を開こうとしたときだった。 「お父さんのお帰りに、『おかえりなさい』の挨拶は?」 男がさっさとアレンの脇をすり抜けて、子供達に微笑みかける。 しゃがみ込み、子供達と視線を合わせれば、子供達は互いに顔を見合わせてから、再び男に視線を戻して口を開く。 「お父さん?」 「おかえりなさい?」 「このまえは、ぼくたちが3さいから4さいにかわるときにかえってきたんだよ」 「そのまえは、3さいになったときだったの」 「そうだよ。お父さんは、いちねんにいっかい、かえってくるの」 「お母さんのおたんじょうび!」 「クリスマス!」 「サンタクロースといっしょだよ」 「いっしょだよね」 子供たちの言い分――父親というものへの認識――に、アレンは唖然として口を丸く開けてしまった。当の父親である男はといえば、おかしそうに、にやにやと笑っている。 世界中を回っている男の帰宅は気まぐれだ。早いときでも一ヶ月ほどは平気で外に出ている。それでも、子供たちとアレンの誕生日には、かならず返ってきてくれる。 どうやら子供たちは以前に会った父親との思い出しか残っていないらしい。それ以前――子供たちが二歳であった年――は、年に五回ほど帰ってきたはずだが…。 「あっ、そうだ」 子供たちの一人が思い出したように声をあげた。 「ん?どしたさ」 「おなまえ!」 「あ、そうだ。おなまえ!」 「お父さんのおなまえ!」 「お父さんのおなまえ、なんていうの?!」 「名前?」 男が不思議そうに首を傾げるのを見て、子供たちは一生懸命に説明する。 「お母さんのおなまえは、アレンっていうんだよ」 「だから、お父さんも、お父さんじゃなくて、おなまえ!」 「おなまえ!」 子供たちはとうとう椅子から立ち上がり、男の周りでぴょんぴょんと飛び跳ねて主張する。両腕を上へまっすぐに伸ばして飛び跳ねても、子供たちの指先は男の腰を越えることすらできなかった。 まだまだ小さくて、小さすぎる子供たち。 男はぴょんぴょんと自分の周りを飛び跳ねる子供たちを眼で追いかける。 やがて男は瞳を眇めて口角を上へと持ち上げる。腰を下ろして子供たちと同じ高さまで目線を持ってきて、それぞれの手で、それぞれに子供たちの頭をぽんと、押さえつけた。 大きな男の手だ。子供たちの頭など、片手で掴んで持ち上げられてしまいそうだ。 男の手が頭部に当てられたことで、子供たちの動きが止まる。上目使いに男を見つめる視線に答えるように、男は子供たちに笑いかけ、云った。 「ナイショ」 頬を膨らませ、口先を尖らせて抗議する子供たちに男は笑い、その姿に、母親は微笑むのだった。 ねぇ、ラビ? あなたの本名さえ、私は知らなくて。 私と出会ったとき、すでにあなたは本名を捨てていて。 私が唯一呼ぶことのできるあなたの名称さえ、あなたはもう消し去ってしまって。 あなたは、それに躊躇いはないの? ねぇ、ラビ? あなたの本名さえ知らない私だけど。 あなたの名前さえ、呼ぶことの許されない私だけど。 あなたが私に教えてくれた、あなたを示すその名前。 あなたは簡単に捨ててしまえても。 私にとって、それはあなたをあなたとして認識した、一番初めの大切な思い出。 だから。 ねぇ、ラビ。 私のこと、侮らないでね。 私のあなたへの愛、なめないでね。 決して呼ぶことが許されなくても。 あなたを含めた誰もが、もうこの世から消え去っていると信じていても。 「ラビ…」 私、忘れていないのよ。 アレンは小さく呟いた。 |
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こめんと |
最後はアレンの独白。たとえ名前が消去されても、アレンはきちんと覚えてる。 そのことさえ誰も知らないことだけれど。 アレンはラビの本名を知らないけれど、アレンにとっては「ラビ」という、ラビが初めてアレンと出会ったときに「呼んで欲しい」と云ってくれた名前が、本当のラビの名前なのです。ラビの記述が一貫して「男」になっているのは、ラビという名前すらもう消去されているということを意識して書きました。初めはずっと「ラビ」って表記してたんですが、ブックマンを継いで名前を消去されているんだから、と思い直しました。これでラビの夢落ちバージョンも考えた。久しぶりにアレンと子供達の元に帰ったら、「名前も知らないおじちゃん」とか子供達に呼ばれちゃって、いっつもふらふらしてて家にいないから父親として認識されてないとか、アレンに「どなたでしたっけ?」とか笑顔で言われちゃう風景に慌てて起き上がったら夢で、朝食の席あたりで本気で「ブックマン受け継ぐのやようかな」とか悩んでて、アレンに小首傾げられるとか。ちなみに「ダブルリトル」の表現は笑って許してください。なんかおもしろい言葉ないかな〜と考えてて、ふと浮かんだのを他に思いつかないままに採用。自分でもかなりアレだと思ってます…(-_-)。 4巻ネタバレ。星野先生、ぜひ「BOOK-MAN」(小文字?)を書いて下さい。ラビが主人公で(笑)。 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2005/05/07 |
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