失うことなどこわくない
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声だろうと命だろうと。 何だろうと、持っていくがいい。 この身には、どれほどの価値もないのだから。 彼に気づいてもらえぬのならなおさらに、価値など、欠片さえないのだから。 「いつからだったんさ」 ラビが辛そうに眉間に皺を作って訊ねてくるのに、アレンは小さく笑みさえ作りながら答えた。その微笑はどことなく淋しさと辛さを内包しているように見え、事実、彼の胸に抱かれた感情にはそれがあった。 けれど、アレンに内在する辛さと、ラビが抱く辛さの内容は重なってはいない。 互いを思いやっているのに。否、互いを思いやっているからこそ、その感情の起こる動機が端から異なる。そうであれば、どうして同じものを感じることができようか。 ラビの感じる悲しみはアレンを思ってのことで。 アレンの感じる痛みはラビを思ってのことで。 痛みを、悲しみを感じ、嘆く。 その辛さと淋しさの、どうして同じものになり得るというのか。 アレンは、ラビが己のために心を痛めていることに、辛さを感じていた。 「…最近です。でも、一晩したら治ってたし。――別に、たいしたことじゃないですよ」 「根拠なんてないんだろ」 ラビの眉間の皺が深まり、口調が僅かにきつくなる。 アレンは胸中で苦笑した。ラビが自分の身を大切に感じて心配してくれるその心は、純粋に嬉しくて、ラビの思いを感じるたびに、アレンの心は暖かく満たされる。 けれど、同時に脳裏を過ぎるのは凍りつくような寒さだ。アレンは自分の身を、ラビが大切にしてくれるほどには大切に思うことができない。 誰だって、愛しい者の身の方が、時に自らの命よりも大切に感じる場合がある。アレンにとってのラビがそうであるように、ラビにとってのアレンもまた同様であるとは、アレンにも理解できるのだ。 けれど、アレンはそこで心が冷える。 ラビが大切に思ってくれるほど、自らに価値を見出せないからだ。 それは、彼の心の底に沈んで尚息づき、じんわりと侵食し続ける闇。 深層心理から彼を支配するトラウマ。 この世でもっとも価値のないもの。 この世のすべてのものに、順番に価値をつけていったときに、一番下に来るもの。 一番最後。 もっとも価値の低いもの。 (それが、僕) 生まれ落ちた瞬間に、己が身のすべてを拒絶された。 一番愛して、無条件で愛してくれて、悠久に愛してくれる。 そういう存在から、否定された存在。 作り手から、必要ないと棄てられた。 それを、理解してしまったがために澱む。胸の奥の、暗い泉の底に、澱む。 ラビが愛してくれる。そのたびに、アレンの心の奥の泉に波が立つ。 小さく揺れ動くその波こそが、胸の中心から生まれて広がろうとする優しさに満ちた暖かい思いを打ち消して、氷のように冷えた闇を全身に送る。 まるで、心臓から血液が行き渡るように。 まるで、洞窟の中を疾風(かぜ)が駆け抜けていくかのように。 アレンは己の左腕に視線を落とした。相変わらず、朱く醜いその腕の姿は変わらない。 ラビがそっとそれを手にとっている。赤い左の腕と比べると、彼の男性として成長された手は、なおさら美しく写る。長い指。子供や女性のように丸くない手の形は、洗練された彫刻のよう。 力を込めずに、手のひらに乗せるようにアレンの腕を取っているのは、そのまま力を込めて崩れてしまうことを恐れているからだ。 「きっと、ちょっと疲れてるだけですよ。誰だって、たくさん動けば疲れるでしょう?」 全力疾走すれば息が切れる。無理に重いものを持とうすれば、筋肉が疲弊する。筋肉痛が起こり、全身に痛みが走る。 けれど、しばらくすれば元通り。 寝る間も惜しんで活動すれば、思考能力も鈍る。体調も崩れる。視界が霞む。頭が痛くなり、耳も聞こえなくなる。食事さえ咽を通らなくなる。 けれど、ちょっと休めば元通り。 「大丈夫です。ちゃんと、戦えます」 アレンが笑い、ラビは表情を歪めてアレンの体を抱きしめた。 ぎゅっと、力強く抱きしめるラビが、涙を流さずに泣いていることを知っていた。気づいていた。 アレンが自分の身を顧(かえり)みないことに、ラビは気がついていて、どうしようもない無力さを感じていることを、アレンは知っていた。ラビは言葉にはしないが、大好きな人のことだから。 その心を、理解することはできる。 ラビが、アレンの心を理解するように。アレンもまた、ラビの思いを感じ取る。 そして、互いに互いを思って眉根を寄せるのだ。 大切な人がひどく傷ついているという現実に。 傷ついたそれに対して、癒す術のないことに。 己では、それを癒すことのできない無力さに。 心が悲鳴を上げ、涙を流したくて、顔を歪ませる。 ラビがアレンを強く抱きしめるのは、言葉に力がないことを痛感しているからだ。何を伝えたところで、どれほどの愛を語ったところで、アレンが己が身を大切に感じることはできない。 それは、言葉や理屈を越えて刷り込まれたものだから。愛を理解することができても、それにはなんの意味もない。深い深い、それは固定概念のようなものだ。 あるいは信念。哲学。基準。 それが間違いであることを理解することと、納得することとは、実はかなりの隔たりがある。 ラビがどれほどアレンの尊さを語り聞かせたところで、アレンがそれを理解したところで、実感できたところで。それを納得して受け入れられるかといえば、できないのだ。 ときに感情が、合理的判断を疎ましく感じるように。 一番正しいことが最適であるとは限らないように。 アレンにとって、自分が愛されていることを感じることと、愛されているから価値があるのだと納得することは、別の次元に存在するもので。 愛するものを守りたいと願う感情を理解できたとしても。愛することを慈しむことを知っていたとしても。 自分を他の何かよりも尊いものであるということが、まったく理解できない。感じられない。 「もっと、自分を大切にして欲しいんさ」 ほんの少しだけ、かすれた声。 アレンを抱きしめるラビの腕の拘束が強まった。 骨が軋むほどの力強さで抱きしめられて、けれど、アレンには痛みも息苦しさもない。むしろまだ足らない、満たされない何かを埋めるために、掴み取るために、瞳を閉じて闇の中へ身を投じる。 漆黒の世界で。 無音の彼方で。 ラビのことだけを、感じていられたらいいのにと。 自分の空っぽの身が、彼によって侵食されつくしてしまえばいいのに。 愛しすぎる貴い彼によって、この価値のない身が埋め尽くされれば。 あるいは、ほんの少しだけ、自分を貴く大切に感じられるのだろうか。 彼を愛しているように。 「でもね、ラビ」 アレンは少しだけ目を眇めた。皮肉な気分だった。もし今、その口角が笑みを形作るように持ち上げられていたのであれば、それは自分で自分を嘲笑しているからだろう。 かつて、ほんの短い間だけ、自分にもほんの少し、価値があるように感じられた頃があった。 自分を愛してくれる人がいることで、自分に、ほんの少しだけ、価値を見出した。 愛しいその人の貴さは別格で、その貴い人が愛してくれる自分だから、世界に存在することに、ほんの少しだけ、意味があるのではないだろうかと。 その存在に意味があるということは、その存在に、価値があるということ。 価値があるということは、大切だということ。掛け替えのないものであるということ。 けれど、愛する人を地獄に貶めた私―――。 「たとえこの腕が崩れ去ったとしても、…――結果的に、世界からアクマが消えていれば、なんの問題もないと思うんです」 アレンは微笑んで云った。 その笑みに、迷いや躊躇いを見出すことはできず。 ただ、僅かな痛みだけが、ラビの瞳に映って溶けた。 「大切なのは、世界であなたが笑っていることですから」 微笑むアレンに、 ラビが表情を歪ませて。 けれど涙は零れなかった。 何もかも持っていくがいい。 この身が泡と消えてしまい。 その世界で、大切なあなたが笑っているのであれば。 それで、私の命は満たされる。 初めて私のこの身に価値が生まれる。 |
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46夜ネタバレ。むしろそれを踏まえてというべきでしょうか。文章中でアレンの腕が崩れたっていうのを明確に表現する機会に恵まれませんでした。 これはけっこう難産でした。眠り姫は伝えたいことが漠然としてるがために難産でしたが、こちらでは伝えたいことが明確であるにもかかわらず、それを表現する最適の言葉がまったく見つからずに筆が止まってしまうという事態に。実の親に捨てられたということは、アレンにとってそうとうのトラウマになっているんじゃないかな?と思いました。もちろん、アレンにはマナという愛すべき養父がおり、マナがアレンを愛し、アレンがマナを愛したことで、アレンは前向さ、ひたむきさを持つことができたのではないかと思います。けれど、「実の親」というのは、それとはまったく異なる特別のものなのではないでしょうか。それは自分のルーツ、根源であるからです。「生み出した存在」による「全否定」は、他の誰にそれ以上の愛情を貰っても、容易に埋められるものではないのだと思います。 アレンはマナに愛されることで、きっと自分のことも、世界も愛せる、優しい子に育ったのではないでしょうか。そして、マナをアクマにしてしまったことで、再び自分の価値を消失してしまったのではないかなと。きっと、アレンの中では自分が傷つくよりも、自分以外の優しくて愛すべき世界が傷つく方が「疎まれるべきこと」という位置づけが成立しているのではないだろうかとか。ロードと戦ったときにもそう感じたんですよ。自分の身を顧みないあたりで、リナリーに叱られて。 気がついたらお題作品の形式ができてきた気がします。冒頭文は物語の「事実」を第三者視点で。末尾はお姫様の「思い」。はじめはあんまり意識してなかったのですが、読み返してみたらそうなってました。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/05/21_ゆうひ |
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