飛び立つ勇気をおしえて 







飛びたいなどと、私は願ったことすらないのに。あなたは入り口を開け放つ。







 生まれる前から小さな箱の中で体を丸めて生きていた。優しいぬくもりに抱かれていたあの頃。
 空を飛ぶことはおろか、陸の上を自由に駆けることさえ知らず。
 水の飛沫が四方に飛び散る煌めきさえ思い起こすこともできずに。
 私の知る人はただ一人。
 この世の至高の人。
 私にすべてを与えてくれる人。
 私の喜びも悲しみも、すべてこの人が波立たせる。
 希望の始まりで、絶望の終わり。そして、この背を押し出す優しく大きな手。
 この手に押されて、私はいつだって一歩を踏み出す。その人に云われたままに歩むために。
 すべてのきっかけ。
 私を構成するすべて。
 私のすべて。
 それ以外を知らない私は、それ以上はおろか、それ以外を求めることすらもちろんせずに。
 そもそも、それ以外を知りたいなどとさえ、思わなかったのに。





 アレンは泣いていた。教団本部の、ここはどこなのだろうか。暗がり。明り取りの窓から入る明かりも届かない角で。
 声はかろうじてあげてはいない。蹲ってもいない。地に足をつけて立ち上がり、しかし背中を丸めて俯いていた。
 頬を流れる涙が、ただ静かに流れていく。

 影が差す。
 アレンが佇むそこから先には陽光(ひかり)が差していたのに。影の支配域が広がって、そこにはしなやかな体躯を持った青年が現れていた。
 そっと、滑るように現れ、アレンの横に立つ。縋りつくには遠く、眼を背けるには近い絶妙な、奇妙な距離。彼はそういった距離をとるのがひどく上手かった。

 初めから馴れ馴れしくて。気がついたら昔からの友人のように。別に人見知りの激しい方ではないけれど、それはやはり奇妙で。
 馴れ馴れしくて、親しくて。けれど、寄り掛かろうとするとふと気づく。自分のすべてを曝け出した後に、求めようとしてふと気づく。

 その距離に。

 寄り掛かろうと手を伸ばし、その距離のあまりに離れていることに愕然とする。あまりにも遠かった二人の距離に、愕然とする。己のすべてを曝け出した後で愕然とする。自分が相手の何も知らないことに、愕然とする。親しみの、けれどしっかりと引かれた境界線を見つけて、愕然とする。

 暗闇に突き落とされる。

 突然突かれたことに驚き、ただただよろめく。よろめきながらも決して倒れることがない。倒れるほどの強さで突かれたわけではないからだ。
 ただ触れたというほどの衝撃で胸が押され、それでもなおよろめき後図去ってしまう。瞠目したままその場に立ち尽くすのは、押されても尚、信じられないからだ。
 理解できない。暗闇に取り残されていく自分の現状が、何が起きたのかが。

 そのことに気づいてしまったとき、アレンは涙を流した。

 できた影にふと視線を向け、その姿を見つければ、僅かに瞳が開かれる。けれどすぐにそれは眇められ、戦慄く感情が肉体を支配するかのように、新たな泪が溢れて頬を伝う。
 その姿を眼にとどめていたくて、けれどとどめていたくなくて。逸らすことも逃げることもできずに、その姿を視界に収めたまま、ただ泪を流すまま。

 その腕が自分の方に伸びてくるのを視界に収めたまま、けれど何が起きているのかが理解できずにいた。自分のみに何が起こるのかも予測できないし、何よりも彼が何を考えているのか。何一つ理解することができない。そしてまた、そのことに泪する。
 指先の形も、手首の骨の美しさが、伸びた腕の逞しくもしなやかな様(さま)。ゆっくりと目に写るそれら一つ一つのパーツに、自分の心が惹かれていることを感じていた。
 腕を辿って辿り着くのはまだ作られきっていない、けれど逞しさを備えた胸。首筋のすっきりとした様子は思わず瞳で辿ってしまうもので、顎先より上に視界を移せば…写るその瞳の色に、我を取り戻す。

「……」

 呟いたのは彼の名前で、けれど戦慄く唇は言葉を紡げはしなかった。否、自分には初めからその名を口にする資格はないのだと、心が痛みを上げて肉体を制止する。
 呼ぶな。呼んでしまえば痛みが繰り返されるだけなのだから。
 声をあげるな。手を伸ばすな。
 何もしなければ通り過ぎて終わるのだから。瞳の色が冷たく変わることを見ることも、腕を振り払われることもない。
 届かぬ距離に絶望を覚えていても、それを再確認させられることはないのだから。

「アレン……」

 それなのに。
 低く、耳に心地良い声が届き、しかもそれは自分の名を紡いでいる。
 頬に触れるそれがなんであるのかなど気づいてはいけない。
 涙を拭う指先。
 それが触れていることさえ、気づいてはいけないのだ。

 それなのに。

「っ…ラ…ビ、…」

 なぜ、その名を紡いでしまったのだろう。
 声を発してしまったのだろう。

 鼻先に触れるのが彼の胸であると、気づいてしまった。彼の胸に頬が触れているのは、この方が狭く締め付けられているのは、彼に抱きしめられているからだと感じてしまった。
 泪の流れるのが止まり、心が切なく痛みながらも、凪ぐ波のように安らかさに満たされていくのを感じる。

「あのさ、アレン」
「……」
「アレンにとって、「マナ」ってのがどんだけ大切か知らないけどさ」
「……」

 それはアレンにぬくもりを教えてくれた人。
 それはアレンに空を教えてくれた人。
 けれど、アレンは空を飛ぶよりも、ただ小さな箱の中でいいから。
 その人と一緒にいたかった。
 ずっと、ずっと。
 一緒にいたかった。

 ラビが言葉を紡ぐ。
 アレンはそれがなんであるかを知っていた。

「俺と一緒にいて欲しいんさ。今度は、ずっと、俺と一緒にいよっ」

 ずっと聞きたくて、絶対に聞きたくない言葉。
 アレンはずっとマナと一緒にいたかった。そこから飛び立つことなどしたくなかった。
 空を見上げて、その蒼さに引き寄せられて、魅せられながら、それでもふと振り返ればそこにいる大切な人の幻影から離れることことができずに。離れたくなどなくて。
 ずっと、その闇色の幻影と一緒に歩いていこうと思っていた。それで幸せだと本気で思っていた。感じていたから、心からの喜びの笑み。そんな泉に浸り続けていられた。

 それが触れることすらできぬ幻影であると突きつけながら、それに変わるぬくもりに似たものを教えて。けれど、本当のそれは与えてくれないくせに。
 だって、彼はいつだって、誰とでも親しくて。けれど、誰とも深く触れ合わないから。
 そのことに、ある日突然気がついていしまったから。

 だから、ずっと泪を流していたのに。

 アレンは伏せていた面を上げた。泪に滲む視界に、優しくて切ないラビの瞳が写り、アレンは僅かに瞠目した。
 だって、その痛みは自分が彼に抱えている痛みとまったく同じものではないか。
 ラビの深いところに触れることが適わぬと泣く、アレンの胸の痛みとまったく同じ切なさを、ラビはアレンに対して抱えている。

 どうして、こんなに近いところにいるのだろう。

 アレンは二人が共に闇の中で途方に暮れていることを知り、そのことに瞠目する。なぜ一緒に支え合いながら、互いの姿が見えていないのだろうかと。
 ラビは涙に濡れたアレンの頬に、そっと指を滑らせた。その表情は未だ切ないままで。
 アレンはそれまでとは別の切なさに胸を振るわせる。
 ラビの言葉で、アレンはラビの姿を見つけることができた。けれどラビはまだ、アレンの姿を見つけられずに不安を抱えて途方に暮れてたままなのだ。

「ラビ…」

 掴んだのはすでに手に馴染んで久しい、教団の特製団服だった。
 アレンはラビの瞳をまっすぐに見据える。
 ラビがアレンの姿を捉える。その輪郭に気づき、必死に瞳を眇めて全体像を捉えようと努力しているのが分かる。
 だから、アレンも必死で勇気を振り絞った。掌を握り締めて、躯の震えを抑えるから。

「ラビ…僕は、あなたと一緒に、いたいんです」

 ずっと、あなたの側にいたい。
 あなたに手を引かれ、その横に並んで歩き続けたい。

「ラビ、僕は……」

 震える唇に、ラビの人差し指が触れた。感情が高ぶりすぎて、再び泪が溢れ出しそうだったその身が、ふいの出来事に治まりをみせる。
 アレンがきょとんとラビを見上げると、ラビの嬉しそうな顔がそこにあって、アレンはラビが自分の姿を見つけることができたのだと気づく。

「アレン」
「は、い…」

 ラビの頭が傾き、アレンは緊張で身動きが取れない。ラビの手がアレンの肩に置かれている。それだけを全身で感じていた。

「愛してる」

 耳を掠めた風に、アレンは大きく瞠目するのだった。





 何も知らなければ、それ以上を求めずにすんだのに。
 空の眩いばかりの蒼さにも、それを見上げて満足していたのに。
 あなたが私にむりやり触れる。
 私があなたから得るのは不安ばかりで。
 ある日ふと気づく。
 あなたの不安は私以上で、それでもなお前進を続けるあなたの勇気。
 あなたの勇気を見て、私は不安を上回る胸の痛みがあることを知る。切なさを覚えさせられる。
 ずっと、小さな箱庭の中にいて構わなかった。
 そこには小さな棘と寄り添う、黄昏色の幸福が私を包み込んで優しく眠らせてくれていたから。
 私は幸せだったの。
 その人に囲われて、私は幸せだった。
 あなたが私にもたらしたのは、箱庭には納まらない圧倒的な質量の痛みと幸福。
 この世のあらゆる痛みも幸福も、あなたはきっと私に教えてくれるのでしょう。
 切ない胸の痛みも、燃え尽きるような幸せも、優しく満たしてくれるぬくもりも。他のすべてを。
 けれど知っていて。
 あなたがいなければ、私はそれまで知らなかった小さな胸の痛み一つを抱えて、それでも生きていけたこと。
 もう、あなたなしではきっと生きていけない私に。
 あなたは大きな責任を感じていて。
 空の上にいた私を、大地に引き摺り落としたのはあなたの我侭なのだから。
 飛び立った後、私の手を引いてくれるのは、あなたしかいないのだから。
 そして、私が触れたいのは、あなたしかいないのだから。







籠の中の幸せに酔い続け、私はそれ以上を求めてなどいなかったのに。









talk
 どうにか更新をしなければ!!と、捻り出しました。朝起きて、あ、これ書こうって、ぱっと浮かんで4時間くらい掛けて書き上げました。今まで考えてもなんかしっくり来るのが浮かばなくて、寝ぼけ頭で浮かんで形をはっきりとさせないまま執筆に取り掛かった割にはけっこう気に入ったものに仕上がりましたが、もう少しアレン→マナの部分を出したかったかな、と、そこだけ心残り。というか、私はキャラクターの心情を書き出すのが苦手なので、ラビとアレンのお互いの気持ち――ラビがアレンをマナから解き放ち、アレンもまたラビによって新しい一歩を踏み出す〜みたいなのがもうちょっと書きたかったです。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/08/07_ゆうひ
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