いくつもの遥かな歴史を記憶するものとして、一つ気づいたことがある。つまり、必然なんてものが初めから存在するなどということはありえない、ということだ。
必然というものは限りない偶然の積み重ねの結果でしかなく、その意味で、アレンがイノセンスに寄生されて生まれたことさえも偶然なのだと思う。なぜなら、アレンがイノセンスを持ち得なければならない理由などどこにもない。そうなるべき理由など、初めはどこにもないのだ。
だって、生まれたばかりの赤ん坊は、みんな真っ白なのだから。
イノセンス。神の意思に選ばれるそれさえ、偶然に過ぎない。まるで運命のような偶然の積み重ねが、結果的に必然であったのだと感じさせ、そう語られるに過ぎないのだ。
そういう意味で、これはまさしく運命的な出逢いだった。
アレンが偶然、エクソシストになったことも。自分が偶然、ブックマンの弟子であったことも。
そして互いがこれは運命に従うのだと決意したことも。
いくつもの偶然が重なって、いづれは訪れただろう必然の出逢いを生み。そして、まるで運命であったかのように愛し合うようになった。
なぜならアレンは偶然持ち得たイノセンスによっていくつもの必然性の強い歴史を紡ぎ上げ、自らそれに立ち向かうのだという覚悟によって運命に従うことを決めてしまっていた。生きるにあたっての支えを見つけ、それに殉ずる覚悟をしてしまっていたのだ。
そして自分はブックマンという役目を受け入れていた。それに殉じてしまうことを受け入れていた。
そしてそれこそが運命であるのなら、そうやって出会った二人が愛し合ったのは、結果的に必然だったのかもしれない。
まさに運命の二人。
決して、そんなことがあるはずもないと知りつつ。ふと思うことがある。
甘い希望ばかり夢見て、それを必死で実現させようとするアレンはそれでいてかなりのリアリストであるから、もしそのような感慨を漏らそうものなら、何を云っているのかと呆れた視線を向けることだろう。その視線のあまりの冷たさに、自分は内心で涙を零す破目になるのだ。
ああ、まさに目に見えるというこの結果こそが『必然』と呼ぶにふさわしい。なるべくしてなるとはこういうことだろう。しかしこの必然は起こりえない。
なぜなら起こした本人があまりにも悲しすぎるからだ。
そして現実として起きなければそれは必然には成り得ない。
けれどこれは机上の空論だ。現実はもっとシビアだ。本当の必然が完成させられるためには、偶然にも思惑通りに相手が動いてくれる必要があるのだから。
だからどうしたってこの世にはじめから存在する必然なんてないのだ。だから、彼がああやって運命的であるのもまた偶然の産物に過ぎない。
この世のすべての英雄は偶然の上に運命に殉じる破目に陥り、その結果として必然的なまでの英雄になり。
この世の破滅のすべては一つ一つの頼りない偶然が山積したときに、偶然にも大きな結果を生み出した結果に過ぎない。そしてさらに結果として、人はそれを運命と呼ぶ。
別に自分とアレンの出逢いが何か大きな結果を生み出すことにはならないだろうが、それでもこれは運命の出逢いではないだろうか。
なぜなら彼は『予言』された少年で、自分こそがその予言を見届け伝える唯一の存在となるべきものだからだ。互いにそうなるべき運命を受け入れたもの同士だからだ。
だからこれは運命の出逢いだ。
伝えたときの相手の反応は想像がつくから言わないが、自分は勝手にそう思っている。誰にも伝えないけれど、そう思い続けることに決めたのだ。
それくらいは許して欲しいんさ。ねぇ、アレン。
人よりもほんの少しだけ過酷な人生を歩む破目になっている中で気がついたことがある。つまり、偶然などこの世に存在しないということだ。
いつだって必然は偶然的である。だから偶然と必然の区別はとても曖昧で、判断がとても難しいと思われがちだ。しかしそれは間違いだ。この世のすべては必然で、だから必然とは偶然的である。そして偶然と必然とは判断が難しい決定的に異なる似通ったものなのではなく、偶然という片方ははじめから存在していないだけなのだ。
たとえば僕の人生だ。イノセンス――神の力をその身に宿して生まれてきた僕のことを、人は僕がエクソシストになる運命を担って生まれてきたのだという。アクマと戦う人生を、人には及びもつかない何ものかに定められているのだという。
そしてその結果として、僕は親に捨てられ、けれど人の持つ愛情をこの身に知るために養父に育てられ、千年伯爵の人間にもたらす悲劇を知るために呪いを受けて。そこに示し合わせたように、ふらふらふらふらほっつき歩いている師匠が現れて僕を拾う。
すべては運命なのだという。すべては必然なのだという。
では偶然などないではないか。
あらゆるすべての人々が、超自然的な何ものかの力によって、それぞれの役割を与えられており、すべての人々の人生はあらかじめ描かれた脚本を演じさせられるように回っていく。そうでなくてどうして、たった一つの『運命』など築くことができよう。
主人公も脇役も、モブも、すべてが必然。何も知らずに終わるように定められた人生も、すべてを知って立ち向かう人生も、あるいは投げ出す人生も。逃げることさえ必然だ。
そして千年前の滅亡でさえ。
必然はあまりにも偶然的だが、たった一つの必然が存在することによって運命が成立するならば、この世のすべてが必然でなければおかしい。主人公の運命を成立するための運命を、すべてのものが負わされている劇にすぎない。
その主人公が誰かなどということは知らない。せめて自分であることを祈るだけだ。
だって、私のための歯車である方が、誰かのための私の歯車よりも、役どころが上であるような気がするではないか。私が主人公であるならば、私に直接係わったすべての人は準主役だ。けれど主人公は他にいて、私はそのための準主役で、では私にかかわった他の人々は脇役か。
だから私はあらゆる運命のその中心が自分であることを祈るばかりだ。
そしてこのことが正しいのであれば、それこそ必然的にこの世のすべての愛は運命だということになる。
運命的な出逢いなどではない。あらゆる出逢いが運命で、さらに相思相愛になる運命。
ある一人の運命の中に無限に並び立てられた必然の中にあって、特に置かれた数の少ない『運命』の一つだ。それが今まさに訪れた。
僕がエクソシストとなるべき運命によって辿り着く終着点がここでも構わないとさえ思うほどに、それはすばらしい演出だ。もちろん出会った当初はそんなことに気づくはずもない。
あれは運命の出逢いだったんですよと伝えれば、彼はどうのような反応を返すのだろうか。
僕がエクソシストとなり、彼はエクソシストであった。やがて彼はブックマンとなる。
矛盾に満ちた哀れな存在に。
誰の味方でもないと語る彼らは、それでも人間以上にはなれない。だから、都合がいいなどと言い訳しても無駄だ。無意味だ。
どちらに転ぼうと、その使命を――歴史の裏を紡ぎ続けるのだと彼らは自らの役割に誇りを持っている――果たすためには人間の味方でなければならないのだ。もっと正確に言えば、アクマと戦う側の人間の味方だ。
ブックマンが人間であるそれさえも、あるいは必然だったのだ。
なぜならそれで僕はもう今度こそ本当に負けるわけにはいかなくなった。誰にも負けるわけにはいかなくなった。
ブックマンは勝者の味方になるからで、僕は決して千年伯爵の側には立てないからだ。
だって僕の命はイノセンスに――千年公の敵に握られている。まさに心臓鷲掴み状態だ。今すぐにでも殺されそうだ。
だから僕は永遠に人間の味方で、そのために彼は――ラビは、人間の味方だ。
もっとも、それがイコール黒の教団の味方であるかどうかまでは知らない。だって、必然は常に偶然的だから。
それはつまり、いつ何が起きて、自分が――あるいは他人がどう転ぶのかがさっぱりわからないということだから。
だから、運命というのはすべてが終わってからそうだと気づくと思われがちなんだ。
もちろん、本当のところは何も分からないけれど。ただ分かっていることは、僕がそう考えるということと、自分がどこでどう転ぶかなんて、本当に分からないということ。
アクマという殺戮兵器に囚われた魂を救済しようと、そのためにこの人生を奉げようと運命を受け入れたと思った矢先に、まさかそれを覆させられるとは。本当に、思いもしない出来事だ。
それでも結果は何も変わらず、むしろ嵌まった沼はより陰湿だ。抜け出せる確立がさらに低くなった。
ねぇ、ラビ。
君が永遠に僕の味方にあるために、僕が永遠に人間の味方であることを決意して、君にも永遠に人間の味方であることを強要させようと決意したと知ったら、どう思いますか。
笑うかな。それはどんな笑いかな。
呆れた笑いかな。嘲笑かな。
できれば喜びのために笑顔になって欲しいな。
だってそれなら今度こそ本物だ。本当に、この運命の主役は僕だった。そういうことに、なるでしょう。
ねぇ、ラビ。
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