黒い風
深い森。その出口が視界に入る。 濃緑色の世界の先に写るそこは薄水色の世界。それは空の色だろうか。 進みゆくと、やがていくつかの屋根と木製の柵。その向こうには小さな畑や家畜小屋がぽつぽつと見え始める。 村だ。 小さな村が、この森の先に存在している。 テッドは、一度だけ歩みを止めた。暫し立ち尽くす。 何を考えていただろう。彼は無言だった。 何を見据えていただろう。彼の視界には白い曇り空と、ゆるやかに流れる村の風景。そして森の肥えた大地の黒さ。 彼は面(おもて)上げた。 その瞳には何が宿っているだろう。ただまっすぐで力強かった。 彼は一歩を踏み出した。 そしてもう、立ち止まらなかった。 森を抜けるまで。 |
「坊や、こんなところで何をしているの? 一人なのかい?」 まだ森の入り口。話し掛けられ、テッドはただ頷いた。口を開いて言葉にして説明しようとすれば、そのことごとくは嘘でなければならなかったからだ。 彼は本能的に嘘をつくことができなかった。 彼の見た目の姿は五つか六つといった幼子の態(てい)だ。しかし彼の生きた年数は目の前の婦人よりもずっと長い。 もはやとうの昔に数えるのをやめてしまったその数の正確なところは知りようもなかったが、概ね百年は経過していただろう。 ここがどこであるのか。自分の故郷はどちらの方角にあるのかさえ、少年にはわからなかった。 「親御さんはどうしたの? まさか一人で旅をしているわけではないでしょうに…」 婦人は右頬に手を添えて首を傾げた。村によくいる主婦の典型のような女性だった。おっとりとした物言いと仕草ではあるが、それでもてきぱきとした働き者である様子が見て取れた。 肩口の僅かに膨らんだ、くるぶしまで隠すほどのワンピース――色はレッドブラウンだ――の上に、白の前掛け。やわらかそうな薄茶の髪は丸みを帯びて結わえられ、手には籐(とう)で編まれた籠を持っている。これもまた、妻であり、親である村女(むらおんな)の典型的なスタイルであった。 「死んだ。だから一人でいる」 テッドは真実だけを答えた。いつだってそれ以上の説明が不要の用物であることを、テッドは長年の経験から知っていた。 死んだのは両親だけではなかったし、一人でいる理由も両親が死んだからだけではない。そうであるからこそテッドは一人でいるのだが、それを語ることはテッドにとって有利にはならなかった。 相手はテッドがどこか沈んだ様子で語る姿――テッドはいつだって愉快な気分でそれに答えたことはないから、その姿は決して嘘ではなかった――に勝手に全貌を推察する。そして自分が導き出した背景や事情に納得をし、同情をする。 この婦人も数多(あまた)の例にもれることなく同じような反応を見せた。 「ああ、そうなのね。…それで、これから行くあてはあるの?」 テッドは今度は首を横に振った。それも本当だった。 長い旅の途中。幾度か永久に留(とど)まろうかとの考えが思考を過(よ)ぎることも決して少なくはなかった。旅の初期――自分が放浪せねばならない理由を正確につかんでいなかった頃だ――には特にそうだった。 しかし今はそれだけではない。 「でも、ずっとこうしてきたから」 「泊まるところは決まっているの?」 テッドはまた首を横に振った。 それを見て、婦人はやわらかな微笑を形作った。そして俄かに膝を折り屈むと、テッドの肩にそっと手を置き優しく告げた。 「だったらうちにいらっしゃいな。この村には宿屋なんてものはないのだし」 小さな村だった。彼の右手に宿る生と死を司る紋章――別名をソウルイーターという――の力を持ってすれば、一瞬ですべての魂を食い尽くしてしまえるほどにしか、人口はないだろう。 家畜ものんびりと草を食(は)み、それほど土地も豊かではないらしい。冬場というせいもあるだろうが、土は乾いていたし、所々に生える木も痩せ枯れて小さなものばかりだった。 ぐにゃりと曲がった歪(いびつ)な形をしたそれらの木々は、決して裁断などされていないだろう。そのせいで余計に成長が悪いのだ。 婦人の家へと案内される道すがらに見たその村は、そういう村だった。 「ああ、気にしなくていいのよ。この子の父親は今、一番近い都へ土木作業の仕事をしに行っているの。冬は畑仕事ができなくなるから、この村の男たちはみんなそうするのよ。だから、ベットは一つあいているの」 本当に小さな家だった。小屋と呼ぶにもまだ小さいとテッドには感じられた。 扉を潜(くぐ)るとすぐ横に炊事場があり、使い込まれたテーブルと、椅子が四脚。それだけでいっぱいになる居間の奥に扉が一つあり、テッドと同じ年頃に見える婦人の息子――ジョンだと紹介された。出会った頃からテッドのことに興味を持ち、テッドにあれこれを聞く傍ら、母親にも一生懸命に話しかけ、よく駆け、実に忙(せわ)しなく忙しそうだった――がバタバタと駆けて行き躊躇うことなく引き開けた。 全開になった扉からベットが覗き、なんとはなしにじっと見つめていたテッドの様子を勝手に解釈したのだろう。婦人が先の台詞を吐いたのだった。 テッドはその小屋で数日を過ごした。与えられるパンは固く、けれど向けられる好意がひどく暖かかった。 ジョンが同じ年頃の新しい友人を見出したと感じてテッドの手を引くのには辟易させられたが、しかし悪い気はしなかった。まだ幼い弟分の面倒を見てやる心持ちで――彼は面倒見のいい方であるらしかった。それが元来のものであるのか、それとも長い年月を生きたもの特有のものなのかはこの時点では断ずることができないように思われたが、仕方がないとか煩わしいと態度で示しつつも、彼は自分と多少でも関わりのある人間を放っておくことができなずに手を差し出してしまう――遊びに付き合ってやったりもした。 その日はいつもより風の強い日だった。冷たい風が音を立てて吹き抜けていく。 一人の飢えた男が刃の欠けた粗末な刀を振り上げながら村へと入り込んできた。型もなく滅多矢鱈に刀を振り回して走り回るだけだが、武器も持たない善良な村人たちにとっては充分すぎるほどの脅威だ。 悲鳴を上げて逃げ惑う。 ある女性が運悪くも男と向き合う形になって足を止められた。男は狂いと愉悦の宿った恍惚に輝く濁った瞳で女を見据えながら刀を背中が反るほどに振り上げた。 振り下ろそうとしたまさにその時だ。少年は弓弦(ゆんづる)を引いた。 ぴんと張られた弦(つる)の音が空高く響き、婦人の目の前にいた男は息絶えていた。 テッドは構えていた弓を下ろし、絶命した男を視線を向けるだけで見下ろした。 その死はどこまでも醜かった。 明日(あす)、ここを出て行こう。少年は決めていた。 それが今日になっただけのことだった。 降ろしていた荷物を手に拾い上げ、無言のままに婦人の横を通り過ぎる。驚愕に声も出ずに立ち竦むその女性を、テッドは一切振り返らなかった。 必要はないと思った。 振り返る必要も、言葉を交わす必要も。 もはや、感謝の言葉さえ必要ないと思われたし、事実、それは正しかっただろう。 そうしてテッドは、その村の名さえ知らぬまま、その村を後にした。 漸く動きを取り戻した女性が振り返ったときには、すでに深く不思議な暗さを瞳に宿した幼子の姿はなく。 低く吹く木枯らしが村の乾いた砂を吹き上げて、土煙を巻き起こすばかりであった。 |
「こらこら。待ちな、坊主(ぼうず)」 濁(だみ)声に足を止めて振り向けば、粗末な防具をつけた体ばかりが大きな粗野そうな男たちが数人。にやにやと下品な笑いを顔に張り付かせて佇んでいた。 テッドは胸中でため息をつき、無視をして歩き去ろうと歩みを再開しようとするも、男の一人が再び制止の声を掛け、体全体でテッドを止めようとするかのように立ちはだかった。 今度は本当に息を吐き出して、テッドはため息をついた。そして徐(おもむろ)に右手を持ち上げ、一言。 「冥府」 男たちは己の身に何が起きたのかなどわかりもしなかっただろう。テッドに目には紫紺色の闇が男たちを包み込み、その魂を掠め取る死神の鎌の手招きが見えた。 上着の下に隠し持った短剣でも充分に対応できただろうが、なんだかそれさえ億劫だったのだ。 疼いていた右手も随分と落ち着いたように感じられた。 男たちの魂が喰われる――ソウルイーターの餌食となる――ことにまったく心が痛まないわけではなかったが、ほとんど心は痛まなかった。 振り返ったところで森の入り口はすでに見えることもなく。かといって、その視線の先に出口が写ることもない。 今はまだ、ただ歩き続けるしかないのだ。 |
talk |
何かを書かねば。とにかく更新せねばと、とりとめもなくいろいろ妄想。いくつものひらめきを没にして、この話を拾い上げました。 霧の船に乗る以前の、テッドを描きたいと思いまして。でもちょっと急ぎ足で書き過ぎたかな〜と反省。ちょっと予定が立て込んでいてゆっくりと長い文章を書き上げる時間がとれなかったのです。勝手な物言いで本当にごめんなさい。いつかリベンジカマスさ。多分。タイトルは内容に関連がないと思いつつも、これしかないと思いました。背景は白がいいと思いました。光ってるのがいいなと。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)ゆうひ 2006/05/19・20 |
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