メメント 
- 歴史の寄る辺、記憶の在り処。 -











歴史に名を残す。そんなことを願ったわけじゃなかった。






 静かな夜だった。波の打ち寄せる音がざざと繰り返す。岩の、砂の、空気の擦れる音。船底(せんてい)もまた、その波の打ち寄せに静かに黙していた。
 その闇の静けさに紛れるように、微かな音を作り船を降りようとするものが一人。旅慣れた風な彼の荷物は小さく纏められている。決して逞しくはない背に背負った矢だけが、彼がこの船から黙っていただいたものだった。

「テッドさん!」

 密やかに、けれどまっすぐに届けられた声。その声が相手の耳へ届き、さらにその気を惹くことが出来たのは外(ほか)でもない。この夜の静けさと、あとはただ、その声音の主の一途さ。
 その声はどこまでもまっすぐに、まっすぐに。至福さえ足りぬ喜びを内包して、ただ一人を呼び求めていた。

「……サツナ」

 呼ばれた少年は動きを止め、肩越しに振り返る。その目にも声にも、どことなく呆れた様子が滲み込んでいたのは、気のせいではない。けれど少年を呼び止めた声の主――サツナにとっては、取るに足らぬことだった。
 歓びからくる微笑を満面に浮かべ、とたとたと小走りにテッドへと駆け寄る。小首を傾げて笑う仕草があどけなく、彼を慕う仲間が見れば、その純粋な子供らしさに目を見張っただろう。ころころとよく表情の動く、なんと人間らしい様かと。
 サツナは少々誇らしげに云った。

「僕の予測も捨てたものじゃないでしょ」
「……」
「絶対に、テッドさんは今夜出て行くと思ったんだ。ここから。だから、先回り」
「……」

 嬉しそうに告げるサツナに、テッドは言葉もない。それさえも予測の範囲内。サツナはただにこにこと笑みを浮かべて、無言のテッドと対していた。

「……ホント、お前って、バカ」

 やがてテッドが溜息と共に吐き出した。呆れをたぶんに含んだそれはどこか諦めを含んでいて、サツナの心は彼が一人で逃げ出すことを諦めたのだとの予測に浮き足立ち始めていた。
 けれど結果的に、その予測はすぐに裏切れることとなる。
 テッドが顔を上げた。正面からこんなにも真剣に、実直に向かい合ったのは、或いはこれが初めてではないかと思うほどに、サツナは緊張に身の引き締まる思いがした。

「サツナ」
「…何。テッドさん……」

 次に彼が何を云うのか。サツナは予測のつかないそれに確かに緊張していた。口の中が乾くほどの緊張。それほどの圧迫など、かつて味わったこともない。

「おまえは。……おまえは、きっと、この群島の歴史に、名を残すんだろうな…」

 徐(おもむろ)に。
 云った彼のその表情は、何かに自嘲気だった。そしてそのことに、サツナは胸が打たれる思いに駆られるのだ。

「僕は…」

 サツナの口から思わず漏れた。とにかく何かを告げねばならぬと、心が動き、体が反射した。
 続くことは考えてのことか。前々から思っていたことか。不意について出た言葉なのか。

「…僕は、歴史になんて、残らなくていい」

 それさえも、判別できないほどに、ただただ反射だった。そしてだからこそ、それは心からの言葉であるのに相違ない。

「……僕は、そんなところに、僕の何が残らなくてもいい。ただ、あなたの。…テッドさん。あなたの記憶の中に、残りたいんだ――」

 今まで笑ったいた子が、今はもう泣きそうだった。泣きそうなと思うほどに、必死の言葉だった。
 不意にテッドの表情がくにゃりと崩れた。

「ほんと…。おまえって、バカだ…――」

 笑っていた。それは確かに笑顔だった。
 それはあまりにも心地良く。泣きたいほどの切なさと喜びによるものだったのだろう。きっと。
 サツナも思わず嬉しくなって、つられて同じ笑みを浮かべた。
 泣きたいほどに切ない。そんな幸せ。それは確かに心満たされる、悦びだった。










ただあなたの記憶に私がいる。それだけでいい。それだけが、いい。












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 読めないとのご指摘を受けてこっそり白背景バージョン。これで読めるとよいのですが…。お手間をおかけしまして申し訳ありませんでした。_(c)2006/08/28_ゆうひ。
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