朝靄 




 カーテンの隙間から洩れる朝日。光の梯子が部屋の中に薄っすらと姿を見せ始めた。
 サツナの閉ざされていた瞳がゆっくりと開かれる。未だ昨夜の情事の跡の残る気だるい身を起こした。
 目覚めの訪れはいつだって、自然の成り行きに任せるままにしていた。
 ゆっくりと身体を休めることはサツナの信条でもある。無理や負担は嫌いなのだ。小間使いとして使われる見であった頃や、かつて軍のリーダーを請け負っていた頃はある程度の責任もあったからともかく、それを離れてからは一切許していない。
 肩でも揺すってこの眠りを妨げるものあれば、一睨みの元に沈黙させている。そして満足のゆくまで睡眠を貪るのだ。
 けれど、何にだって例外は存在する。サツナの場合も同じこと。あるときを境にして、目覚めてまずベットの中に一人でいる状況に惜別にも似た淋しさを感じることを止められずにいる。
 眠りに着く前は確かに寝所を共にしたのに。何度も何度も繋がり合って、今度こそ離れぬようにと、しっかりを抱きしめて眠ったはずなのに。
 いつも、目覚めたときに彼の姿はない。
 目覚め、目の前にないそれに、何度失望したことだろう。部屋を見渡しても、どこにもいない。
 ふと気づけば階下から聞こえる求める彼(か)の人の声。楽しげに笑う合う、自分ではないものとの語らいの証(あかし)。
 起こさずに部屋を出るのは彼の優しさだ。それでも、遠く響くその声を聞く度に、涙さえ流してしまいそうになる。
 それがどうしたことか。
 今日、この日。
 目覚めてそこに、彼の姿がある。

 サツナは驚きに目を開いた。彼の生まれた故郷(ふるさと)の海と同じグラデーションを誇るアクアマリンの瞳が、こんなにも表に現れることは珍しい。
 身を起こしたサツナの隣で、健やかに眠るテッドの姿が、そこにはあった。

 サツナはそっと手を伸ばした。躊躇いながら触れた彼の頬はやわらかく、微かに触れるだけ――もちろん眠るテッドの眠りを妨げるのを怖れてだ――の指先にさえ、午睡(ひるね)の微睡みのようなぬくもりが伝わってくる。
 思わず、サツナはほっと息を吐き出していた。肩から、からだ全体から、篭もっていた力が解けていくのが分かる。
 触れているだけの今よりほんの少しだけ力を込めて、指先で彼の頬を押してみた。ふにふにとやわらかな弾力に指先の跳ね返されるのが、なんだか妙に心を弾ませた。
 そっと指先で顔の輪郭をなぞり、今度は睫毛に触れてみた。起きてしまわないだろうかという不安と、そうなればいいのにと思う心。
 少しだけ、サツナの心はわくわくしていた。いつばれてしまうとも知れない悪戯に心弾む子供のように。少しの緊張とそれに伴う楽しさに、心が躍っている。

 形の良い鼻先を滑り、唇へ。暖かな息吹が規則的に吐き出されていくのを、暫らくはぼんやりと見つめていた。
 ふと、その唇に触れたくなったのはなぜだろう。まるで灯りに引き寄せられる蝶(羽虫)のように、サツナはその面を下げ、テッドの唇に触れた。額に眠る彼の髪がちくりと触れた。
 身を起こし閉じていた瞳を開くと、テッドが僅かに呻き声を上げた。
 起きてしまうだろうかとぼんやりと考え見守っていたが、意に反して彼が目覚めることはなかった。
 僅かに身を捩り、再び規則正しい寝息を繰り返し始めた。
 落胆か安堵か。サツナは自分が感じたそれがどちらであるのかわからなかった。
 ただ目の前には眠るテッドがあり、空間を包む穏やかさは健在だった。

 そっと、テッドの髪に触れた。ふわりとしたそれを優しく撫でる。
 その感触も、そこに訪れている空気も、そうしているこの感情も。何もかもが穏やかだ。

 不意に、サツナは始めて彼と結ばれた日のことを思い出した。それはもう遠い日の記憶だ。
 まだ彼は紋章に怯え、人の命の儚いことに恐れ、固く心を閉ざしていた。そしてサツナ自身はといえば。己の命を喰らう紋章と、それによって齎された――或いは其れを得るべくして得た己の――運命さえ感謝していた頃。―――感謝しているのは、今も変わらなかったが。
 まだ片想いだった。本当の片想いだった。
 彼は拒絶していた。僕をではなく、全ての人を。人との関わりを。深い関係を。
 それでも我慢できずにひたすらに彼の後を追い駆けていた。うざがられながら。眉間の縦皺は、当時の彼の常備装備品だった。

 ある晩のこと。相変わらず、嫌がられながらも無理矢理、彼に与えられた一室に居座っていたときのことだ。
 やはり相変わらず、彼の寝台へ無理矢理その身を滑り込ませて身体を密着させていた。
 そしてあることに気づく。触れた彼の身体が仄かに熱を持っていた。
 サツナは小首を傾げて訊ねる。
「僕に欲情を覚えてくれているの?」
 小首を傾げたサツナの、その真っ直ぐに見つめる瞳からテッドは視線を逸らした。
 沈黙する固い表情。生真面目な、生来彼が持つその姿。
 迷いも躊躇いも、すべて、自分を愛していてくれているからだと思いたい。自分を大切にしてくれているからなのだと信じたい。
 たとえそこに、常識と道徳と倫理が多分に含まれ。その絶対性に攻められているのだと知っていても。

「嬉しい……」
 サツナはふわりと笑った。それは華綻ぶような微笑。誘惑の天使の吐息。
 固く握り締められたテッドの手に、サツナは優しく手を添えた。顔を近づけて、柔らかく唇に触れる。
 唇が触れ合ったのは一瞬だった。
 テッドが驚きに目を丸くして振り返ったからだ。サツナは特に痛痒を感じるでもなく、動きに合わせるようにそれを離した。
 それは別に拒絶ではなかったからだ。ただ純粋な驚き。そこには嫌悪の色は見られない。
 その人生柄か、サツナは人の顔色を伺うのに長けていた。だからといって其れに振り回されるかといえば、まったく意に返さないあたり可愛げがなく、しかしそれこそが、サツナのサツナたる所以であったろう。
 あとは誘うまま。そして、誘われるまま。
 初めて結ばれた日。
 漸く、難攻不落の彼を、陥落させた日。











「ん……」

 過去の記憶に耽っていたサツナの耳に届いたテッドの呻き声に、サツナははっとして我に返った。
 そこには片腕を上げて入り込む陽射しの眩しさを防ごうとするテッドの姿。まだ片足くらいは夢の世界に置いたままであろう様子だったが、漸く覚醒した愛しい人の様子に、サツナの唇は知らず綻ぶ。
 まるで母が子を見守る如き、春の微笑。
 サツナは覚醒を始めたテッドの顔に己の其れを近づけて囁いた。

「おはよう。テッドさん」
「ん…。サツナ……?」
「うん。珍しいね。テッドさんがこんなにのんびり寝ているだなんて」
「……そうか?」
「うん。僕が起きたとき、あなたはいつも、もうこの部屋にはいないもの」

 まだ寝ぼけた眼差しはそのまま。テッドはその身を起こした。
 がしがしと髪を掻きながらの大きな欠伸。テッドは呻き声と共に身体を伸ばした。
 漸く少しだけ、その目がしっかりと開かれたように見えた。少なくとも、彼の琥珀の瞳が覗いているのは間違いない。
 掻き混ぜられた向日葵色の髪が、ぼさぼさとあちらこちらに撥ねているのに手を伸ばしながら、サツナは可笑しそうに――その中にほんの少しだけ、憂いを潜ませて――言葉を紡いだ。

「それとも僕が早起きだったのかな? あなたがいつ頃目覚めてるのかさえ、知らないもの」
「……どうだったかな。けっこうバラバラだぜ」
「そうなの?」
「ああ。朝食も、取れたり取れなかったりだし」
「そうなんだ」

 新たな発見。
 そんな些細なことでさえ、なぜこんなにもこの心を暖かく包み込んでしまうえるのか。

「じゃあ、今日はどうかな。朝食にはもう遅い?」

 サツナが首を傾げるのに、テッドはベッド脇の台に置かれた置時計に視線をやった。
 暫らくの沈黙。テッドがその腕でサツナの体を抱き込み、巻き込むようにしてベッドへダイブ。勢いをつけて、再び寝る体制に逆戻りをした。

「どうするの?」
「もう一度寝る」

 やはり首を傾げて訊ねるサツナに、テッドの答えは端的だった。サツナの体を抱き寄せて、その頭を己の胸の中に抱き込むようにして音に入る体制を整えてしまう。
 頭上から聞こえてくる吐息。それに合わせて律動する彼の身体を身近に感じながら、サツナは喜びに笑みを零した。見るものがいれば、それは大好物の飴玉を口に含んだ子供のそれと同じ無邪気さを感じただろう。

 サツナは自らもまた腕を伸ばし、テッドの背中へその手を置いた。ぎゅっと握り締めて、よりいっそうその身体をテッドの身体へと密着させる。
 温かかった。
 彼がいるだけで、この世界はどこまでも優しく。暖かい。





talk
 同じコンセプトで邪馬台幻想記もやろうと思っています。本当はもうちょっと短くして、二作品同時アップなどを目論んでいたのですが、ちょっと無理でした。自分の遅筆さが憎い。もし無事に邪馬台幻想記側もアップできたら、タイトルは『朝露』になる予定。
 『僕に欲情してくれてる〜』云々のあたりはコードギアスのスザルルネタで思いついたものでした。ギアスではまだそれだけの話を書ける自信がなかったので、幻水で遣っちゃったvv 同じようなもので邪馬台幻想記へ転用しようと目論んでいるものもあります。
 ……ギアスのスザルルも書きたいな〜。もうちょっと書くスピード速くならないかなぁ…。やりたいことも堪ってるし、忙しい!!
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/01/05〜06_ゆうひ。
back