白百合革命
-ロータスピンクの祈り-
純白の百合のように潔癖なる処女。 |
ぱち。 突然目の前に現れた存在感に、ホノカは腹筋の要領で上半身を起き上がらせるのと腕を肩から横に振り空(くう)を切った。それらはまさしく反射であった。それら一連の動作が終わった瞬間に、漸く思考が脳へと追いついたホノカは、目玉を左右に動かして暗闇を窺う。 窓からは月も星も見ることが出来る。気配は現れたときと同じ突然さで消えていた。 ホノカは流れてもいない汗を拭った。手の甲で唇のあたりを擦り上げた。乾いている。 彼女は一国の王である以上に、卓越した武術家だった。自他共に認められている。 彼女は戦慄していた。その自分が、あれだけ至近距離に立たれるまで気配に気づかず。しかも気がつくことが出来たのは相手がそれを許したからだ。 それまで気配を消していたその何者かが、ホノカに自分の存在を――侵入者があることを――知らせるために、気配を消すことをやめ、そこで漸くホノカはその侵入者の存在に気がつくことが出来た。もし侵入者がそれを許さなければ。そしてそれが命を狙うものであったならば。 ホノカはその殺気に気づくことすら出来ず――そう。これだけの使い手だ。おそらくは、殺す瞬間にさえ、殺気を放つことなくことを成し遂げるだろう――抵抗さえ出来ぬまま、命を落としていただろう。殺されたことにすら気づかずに、馬鹿みたいに。 ホノカはギリリッと音がなるほど強く、奥歯を噛み締めていた。いつの間にか握り締められた拳。 己の不甲斐無さと悔しさに、ホノカはその身を震わせていた。 自分は慢心していた。それを強く突き尽きられた気がしていたのだ。 「安心していい。君は充分強い」 闇の中から響いた淡々とした――しかし明らかな女性の声に、ホノカははっとして顔を向けた。闇の中に目を凝らせば、やがて輪郭が顕わになっていくそれ。 一歩一歩、その『人物』がホノカへ向けて歩み寄ってくる。 「誰」 「サツナ。群島諸国の一つ、オベル王国の第二王女」 「オベルの…」 闇に目が慣れたか。或いは侵入者とホノカの距離がそれだけ近づいたのか。おそらくはその両方のために、他には声の主(ぬし)の姿までもがはっきりと分かるようになる。 それは確かに女性だった。ホノカよりも二つ、三つ年上だろう。夜の闇の中にあってさえ、かすかな月明かりに淡く光を放つ金の髪と、海の如く深い静謐さを内包した真っ直ぐな瞳。特にその瞳に真っ直ぐに見つめられる様に、ホノカは思わず嚥下していた。 まるで見つめるもののすべてを見透かすかのような強い意志。あらゆる嘘も誤魔化しも、その瞳の前にあっては、口が勝手に――それこそ意図せずに、いとも簡単に真実を吐露してしまう気がする。 まだ寝台に腰掛けたままの体制で、しかしいつでも攻撃に転じることの出来る臨戦態勢で。ホノカは誰何し、返って来た答えに目を見開く。 しかし真にホノカの胸を打つ事実は次にこそ待っていた。 サツナが口を開き続ける。 「ついでに赤月帝国六将軍の一、テオ・マクドールの子弟、レイ・マクドールの婚約者だったりする」 「!……っ」 ホノカの瞳が瞠目し、その表情が一瞬、ひどく傷付いたのをサツナは観察していた。何かを云いたげに開きかけた口は、ただ僅かに震えただけで言葉をなさずに閉じられ。 体が震えるのを抑えようとしているのだろうが、それは成功しているとは云い難い。 云いたいことがあるならはっきりと云えばいいのにと、サツナは何とはなしに思い、それが出来ない人間がいることも知っていた。その心を理解できるとは、もう既に思ってもいない。 代わりに別のことを思う。 (ふむ。レイの勝率は中々高いのかもしれない) まったく暢気に考えていたところで、耳に飛び込んできた声に、サツナは向き合った。 「それで…。オベル国のサツナ王女が、なぜ、こんなところに…?」 ホノカの声はやはり震えていた。本当に聞き出したいことは他にあるだろうに。 あらゆる葛藤を無理矢理押さえ込めてようやっと搾り出したかのその言葉は、どこまでも事務的で。サツナよりも幼いその少女が、一国の王としての身分に科せられた責任の重さを誰よりも重く捉えていることを明らかにしていた。 あらゆる己の感情を、理性と責任感でねじ伏せる。 サツナは自分では決してしないだろうその行為を行う人間に対して――そうすることのできる強い意志に対して、それなりの敬意を感じていた。 自分の思うままにあることも。自分の架した責任に准じることも。どちらも強大な意思の力なくしては為し得ない。 しかしサツナのそんな感心などホノカに伝わるはずもなく。ホノカは疑心を込めた瞳でサツナを油断無く見つめるばかりだった。 サツナは自分の思いを人に伝えることに、たいした意義を見出していない。軽く小首を傾げると、さらにホノカとの距離を詰めるために数歩、前進した。 ホノカの緊張がさらに高まるのが、僅かに動いたその両肩から知ることが出来た。だが、サツナにはホノカの臨戦態勢に対して緊張する理由が無かった。 やはり小首を傾げて、歩みを止める。ただ声が届くのに充分な距離に達したからなだけだ。 「そう緊張しなくていい。僕には君に害を加える気はない。理由もない。むしろ気味がいなくなるとちょっといろいろ困る」 「困る?」 訝るホノカに、サツナはやはり淡々と頷いた。 「そう。実は、君に頼みがあってきた」 「僕に…ですか?」 「そう。これはお願いだ。見ず知らずの相手に」 「えっと…」 サツナの云いように、ホノカはなんと答えていいのかが分からず少々困惑してしまう。いつの間にか緊張も幾分か解けてしまっていた。 サツナはホノカの困惑など一切、意に介さずに言葉を続ける。 「さっきも云った通り、僕はレイの婚約者だ。でも、びっくりしたことに、僕には他にどうしても一緒にいたい人が出来てしまった」 その言葉から、何がびっくりなのかがホノカにはまったく分からなかった。だから訊ねた。 ホノカの問いに、サツナは少しだけ視線を上に向けて――おそらくホノカが問うていることの真の意味と、なんと返せばホノカが解するだろうかを逡巡したのだろう。再びアクアブルー色の瞳をぴたりとホノカに合わせて口を開く。 「僕が、誰かに執着し、僕に、執着する誰かが出来たこと。そうでなければ、僕は別段、レイに他に思う人がいて、僕と婚姻した後でそういう女性と付き合っても、別にそれはどうでもいいと思っていた。この婚約はあくまでも政治的なものであって、心のありようとは無関係だから。ただ僕はグレッグミンスターにいればいいだけ。レイが男として望むなら僕は僕の身を。女としてのそれを差し出してもいいと考えていた。僕にとって、それらはまったく価値のないものだったから。興味もないし、護る意味もない」 「……」 「でも、僕は突然出会ってしまった。僕が欲する人に。だからレイの存在が邪魔なんだ。僕は、僕の全てを、レイではなくその人に捧げたい。そして、その人の全てを僕のものにしたい。僕としては、別にレイとの婚約を破棄してしまって構わないのだけど、困ったことに、僕の欲するその人は、僕とは真逆にものすごく責任感がある。王女の僕よりも、僕の持つ立場とそれに付随する責任について重く捉えている。だから、レイと僕が納得しても、その人は眉を顰めて僕を見る」 それだけは堪えられないのだと。 語るサツナの表情に、ホノカもまた、己の中に秘めた――秘めると誓ったある思いのために。切なさを感じる。 「その人は、僕には責任があるというんだ。もちろんレイにも。だから、僕は非常に困っている」 そうでなければ、サツナとしてはレイにさっさと三行半を突きつけてもらい、故郷の群島でサツナを知る大多数が危惧してた通りに――つまりはその性格の悪さから婚約破棄を言い渡されて戻ってくる――なって、問題無く、流浪の身に転身できた――サツナの王族としての責任感が欠如していることは、おそらく誰もが認めている。その地位に固執する執着心が塵ほどすらないことと合わせて――ものを。 「レイもそれなりに責任感を持った(僕の見立てではテッドさんやホノカに比べれば塵みたないものだろうけど)人物だ」 というより、サツナより責任感というものの欠如した人間は然然(そうそう)いない。しかしサツナと出会って一時間と経っていないホノカに、そんなことが分かりようはずもなかった。 責任感が無くともやることはやるサツナだ。人のいいホノカであれば、永遠にそのことに気づかない可能性もあったが、今は関係ない。 「まあ、そんなこんなで、僕は困っている。そこで君だ」 「はあ…」 「君の役目はただ一つ。レイを誘惑しろ!」 「え?……えぇ!!」 びしっと、指差す勢いで告げられたサツナの言葉。その予想外さに、ホノカは瞬時には理解することが出来ず。しかし漸く脳に達して理解すれば、大声を出して仰け反ってしまう。 慌てて両手で口を塞ぐが、解き既に遅し。階下から慌てて階段を上ってくる複数の足音を、闇の中で研ぎ澄まされた耳は正確に捉えていた。 それはサツナも同じだろう。僅かに下方に視線を向け、しかし特に気に留める必要を感じなかったのだろう。再びホノカに面(おもて)を向けて口を開く。 「レイの理性を壊せれば万事オーケーだ。君が特に何かをする必要はない。君はそのことを念頭に置き、レイが君を求めてきたときに受け入れる心構えだけ持っていてくれていればいい。あとは僕がどうにかする。じゃ!」 サツナは一歩的に捲し上げると窓に足を掛け飛び出した。 ホノカが止める暇(いとま)もない。あっと思ったときには解き既に遅く、サツナの姿はどこにも見つけることが出来なかった。 それに一瞬遅れるようなタイミングで、警備兵達がホノカの部屋にあわただしく足を踏み入れる。何事かと問うそれらに、ホノカは申し訳なさそうな微笑で答えた。 「いえ…。すみません。少し、怖い夢を見ました」 まだ十代も前半の少女だ。その意志の強さと武術家として一流の腕前を知っている兵達であっても、穏やかで優しい女王のその言葉を疑いもしない。これも日頃の人徳というものだろう。 それどころか安心したとばかり、一様に胸を撫で下ろすその姿に、ホノカの方こそが罪悪感に些か胸の苛まれる思いに襲われる。ずきりと痛む胸の訴えを無理矢理やり込めて、ホノカはやはり穏やかな表情と声音で謝意を伝え、それとなく兵達の退出を促した。 それに逆らうものはない。 扉がぱたりと閉じられ、部屋には再びの静寂。窓が開けられていることを見咎めたものは、誰一人としていなかった。 風がカーテンを揺らし、月と星が瞬く。 ホノカは膝の上に乗せられた両の拳を見つめながら、眉間の皺を深くした。 オベルの女王を名乗る侵入者が現れてから数日。以来、音沙汰はない。 胸には相変わらずしこりのようなものが残り、その理由も解決策もないまま。義姉のナナミに心配を掛けさせるも、大丈夫だよと空笑いを返すばかりの日々が続いたある日のこと。 大切な幼馴染との久しぶりの再会に、ホノカの心は僅かなりとも浮かれていた。 「久しぶり、ホノカ」 「お久しぶりです。ホノカ」 穏やかな声音で掛けられる声に、ホノカの胸は温かな思いで満たされる。自然と浮かぶ笑顔は心からのものだった。 「うん。ジョウイもジルも変わりない?」 「ええ。おかげさまで」 「…僕等は大丈夫だ。それよりホノカ。僕は君のほうが心配だよ。何か悩みでもあるのかい?」 「えっ?」 驚き瞠目するホノカに、ジョウイはその人差し指の先でホノカの眉間を示した。 「君が笑顔で。僕がその眉間の皺を見逃すとでも思うのかい?」 告げるジョウイの面に乗る苦笑は、心配を滲ませた慈しみに溢れた兄のようなそれだった。 そうであればこそ、ホノカはしゅんとして肩を落とす。誰にも――特に大切な人であれば尚のこと、――心配を掛けさせたくなくてしたことは、こうして悉く逆の結果を生み出してしまう。 どうしてこうなんだろうと、泣き出してしまいたい胸の高鳴りをぐっと堪(こら)える。何もかもが、なんだかどうしようもなく不甲斐無くて悔しかった。 ハイランド王国の国王夫妻。ジョウイ・ブライトと、ジル・ブライト。 デュナン湖を挟み、ホノカの治めるデュナン国とハイランド王国は長年に渡り領土を争ってきた。人々は疲弊し、国力は衰えるばかり。 数年前、先のデュナン国王が崩御。ホノカが女王として立ち、それと時を同じくしてハイランド王国でクーデーターが勃発。ホノカの幼馴染であるジョウイが王座に付き、終戦が告げられた。 ジョウイとジルが婚姻したのも同じ頃のことだ。 ハイランド王国の王政と同様、デュナン国は王政を取りながらも共和制の色が強い。独立したいくつかの都市の代表による議会があり、王はそれを無視した政治を行うことは出来ない。どちらかというと、議会が政治の中枢を担い、王は議会の取り決めを承認するだけの立場とも云える。 ハイランド王国との和睦は議会の全代表が賛成をしてのことではない。ただ今回は穏健派の方が数を増したというだけの話だ。いつ強硬派が盛り返すか分からない。 議会の意向によっては、王が挿げ替えられる可能性も否めない。今のところホノカには子供もなく、王家の血筋としての正当性を担えるものはいなかったが、それとてどうとでもなる話なのだ。 きわめて不安定な仮初めの平和。 ジョウイを疑うことは欠片もなかったが、苦慮することはあまりにも多い。 だからホノカは憂いの理由はその為だと告げた。 ジョウイはそうかと頷き、しかし納得していないことはその表情が語っていた。 ホノカは視線を落とす。嘘をついているという罪悪感と、心配を掛けているという思いのために、正面からジョウイと相対することが出来なかった。 どうすればいいというのだろう。 願うのは、ただみんなの幸せであるだけなのに。 それだけで、いいのに。 なぜ、それを許してくれないのか。なぜ、こんな風に心をかき乱すのか。 大好きな人たちと一緒にいられるのであればそれでいいと。ずっと、そう思っていたのに。 大切な人たちが手の届く場所にいて。ずっと、一緒に笑いあって生きていけたら最高に幸せだと。そう、信じていたのに。 なぜ、こんなことを考えてしまうのか。 なぜ、こんなにも胸が締め付けられる思いがするのか。 あなたと一緒にいたい。 あなたの傍にいたい。 ただ、あなたの微笑う顔が見たい。 こんなにも誰かを思って切なくなるのは初めてで。 こんなにも誰かを思って泣きたくなるのは初めてで。 こんなにも、ただ一人を思い、そのただ一人のために子の小さな胸がいっぱいになってしまうのなんて初めてで。 もう、どうしていいのかわからなくて――。 ホノカは涙を堪(た)えるために、ぎゅっと、唇を噛み締め目を閉じた。 |
恋も愛も欲望も。知らずにいる清廉なる乙女。 桜色の唇を艶かし、肌をミルキーピンクに高潮させよ。 白百合の乙女は恋をして、その心に革命を得る。 |
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あれ? またオチが付かなかった。書き始めたときは素直に全後編でよかったじゃん〜(笑)とか思ってたのに…。長い割には何も話が進みませんでした。次はレイ編です。基本的に責任感無し男の回です。たぶん。タイトル未定。 本当は27日に更新する予定でいしたが、いろいろと力尽きて書き上げられませんでした。どうでもいいことですか? 「アクアブルーの失望」ではテッドと4主がくっつくどころか、ホノカを登場させることさえ出来ずに…。前回のアクアブルーの失望は4主をイメージ。今回のロータスピンクの祈りは2主(ホノカ)をイメージしてつけました。総タイトルの白百合革命は、恋や愛なんていう感情とは無縁の4主の心のありように、まるで革命のような劇的な変化――テッドへの愛が生まれることを考えてつけたものです。前回はそこまで説明することさえ出来なかったことが悔やんでも悔やみきれないものです。ロータスピンクは仏教では『聖なる華』とされる蓮の花の色なんだそうです。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/01/14・26〜28_ゆうひ。 |
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