白百合革命
-ローゼズレッドの葛藤-
血液(ちえき)に黒の垂れ流されたように妖しく。 それは弱く無防備なおまえを囲う檻である。 漸(ようよ)うおまえが生きていく為の。 |
「サツナ。ホノカに会いに行っただろう」 一応訊ねる形を取りながら、それはほぼ断定口調だった。 サツナは驚愕に瞠目する。しかしまったく悪びれた様子の窺えない――きょとんとでも可愛らしい効果音の鳴りそうな仕草で首を傾げるその様子に、レイは怒鳴りだしたいのをぐっと堪えるのに、相当の理性を必要とした。 「どうして分かったんだ? ホノカに聞いた?」 「…テッドが腹抱えて笑いながら教えてくれたよ。ご丁寧に目には涙までたたえてね」 「テッドさんが? …流石。やっぱり彼はすごいな。絶対に誰にもばれないと思ってたのに」 サツナの瞳はますます大きく見開かれ、しかしそれだけだ。驚愕とテッドへの感心は窺えるが、一向に窺えない謝罪に、とうとうレイの堪忍袋の尾がぷちっと軽く切れた。 「いったい君は何を考えているんだ?!」 これは実は歴史的な瞬間だった。少なくともレイという人間の人生をなぞる上では欠かせない出来事だ。 この日、この瞬間。 レイ・マクドールは初めて女性に声を荒(あら)げて詰問した。 サツナは二、三度瞬きをした。怯えたのではない。何にレイがそんなに怒りを表しにしているのかが不思議だったのだ。 しかしレイという人間に興味のないサツナでは、そんな一瞬に浮かんだ疑問などすぐに霧散してしまう。考えても無駄である上に自分の役に立たないのであれば尚更に、放棄するのも早い。 そしてサツナはさらりと返した。レイの怒りになどまったく怖れた様子はない。怯みも淀みもないその答えは至極完結で、レイの怒りをますます煽るものだったけれど。 「自分の幸せだ。決まっている」 けれど別に他人が不幸になることを積極的に望んでいるわけじゃない。自分の幸せが最優先だから、その為にはどうしても不幸にならなければならないものがいる場合は仕方がないが、そうでなければ周りの他人もそれなりに幸せになればいいと思ってる。 サツナはまた首を傾げた。純粋な疑問だけを張り付かせた顔は小動物的でどこまで愛らしく、けれどどこまでもレイの心を苛つかせた。 「自分が幸せなら、他人はどうでもいいのか?」 他人はどうなってもいいのかと、サツナの行動に憤るレイが追求する。 サツナは答えるのに一拍を要した。レイの憤りなど、たとえそれがサツナへ向けられているものだとして、サツナにはまったく痛痒を齎さない。それこそ、サツナにとっては『他人』の感情だ。たとえそれが自分に対して向けれたものであったとしても。だからこそ、正直に言えば『他人などどうでもいい』が彼女の答えだが、珍しいことに、彼女は別の答えを用意したのだ。 「自分が幸せでないのに、どうして他人のことを思える?」 「……人を思いやるのは当然のことだ」 「それは偽善だ」 首を傾げて訊ねるサツナに、レイが搾り出すように返し。サツナは間髪入れずに切って捨てた。 人に優しく。 それは素敵なことだが、無理にすることではない。心からしてこそ価値があるものだ。 「偽善も『善行』だ!!」 サツナはあくまでも淡々と告げ、とうとうレイは声を荒げた。 荒い息を繰り返すレイを、やはりサツナは淡々と眺め、それから告げた。その瞳は相変わらずあまりにも真っ直ぐ、レイを見つめている。 「そうだ。偽善だろうがなんだろうが、人を思い、それに即した行為を行うことは悪くなんてない。僕には偽善の何が悪いのか分からない。むしろそれがよくないと知っているのはレイの方だ」 レイは呆然と目を見開く。サツナの言葉はいちいち他人の核心ばかりを付いているようで、自分本位な彼女の観察眼に改めて思い至ったが為の驚きだった。 「自分が幸せで、だから他人を哀れみ助けてやろうと考える。上から見たものの考え方と行動は傲慢だ。だがそれでも、本当に苦しいときに手を助けられて、人は救われる。ならばその傲慢は悪なのか。それさえ、僕よりもレイ――君の方が答えを知っていることの筈だ」 レイにはサツナの瞳の力が強まったように感じられた。まるでそれまで目を逸らし続けてきたあらゆる倫理を、その矛盾についてを糾弾されてさえいるような錯覚に襲われる。 気圧されている。 サツナの思惑が何であれ、レイがサツナ圧倒されていることだけは間違いのない事実として起こっていることであった。 「さっきレイは僕に声を荒げた。レイはホノカを愛していて、だから僕を心から愛せない。その代わりに、僕のことを大切にしようと決めていた。そうだろう? その君が。そうやって自分を律していた君が、僕に対して、声を荒げた。その理由を、レイ自身で理解するべきだ」 それを語ったときのサツナの声音は、幾分か和らいだようにも感じられた。まるで自分の気持ちを理解しきれずに惑う幼子に助言をするような温かささえ持っているかのようなそれは、母として、姉として、或いは教師として。 決して彼女はレイにとって恋人にはならない。なぜなら彼女はレイを甘やかさない。 だからこそ、最後の言葉には力が込められていた。 己を知るべきだと。騙すことをやめるべきだと。 「欺瞞を悪いことだとは言わない。人は自分を騙さなければ立てないこともあると、僕は知ってるから。ただ、僕は自分を偽れない」 サツナはレイの横をすり抜けて去る。まるで風が吹き抜けたように、レイは気が抜けていくのを感じた。 何を偽っているのか。 何を欺いているのか。 そんなことは分かりきっているのだと、彼の心の奥底から叫ぶ声がする。けれど頑なに耳を塞ぎ、それを聞くまいと首を横に振り続ける自分がいる。 いつからこんな風になったというのだろう。 きっと、人は大切なものが出来るたびに。誰かの傷ついた顔を見る都度に。そうやって、遠慮と嘘笑いを覚え。最後には、それを納得させるために自分を騙すようになるのだ。 だってどうして、自分で自分を納得させる以外で、それらを享受して生きていけるというのだろう。 レイは呆然と佇み続ける。 敷き詰められた真紅のじゅうたんばかりが、視界を覆い、逃げ出したい心が一番に手を伸ばした記憶は、今は彼の聖域で柔らかな微笑を湛える、彼女との出会いだった。 彼女――ホノカとの、出会い。 レイがホノカと初めて出会ったのは、赤月帝国とデュナン国の境界の――壊滅に追い込まれるほどに激しい襲撃を受けたあとの町でだった。 デュナン国に壊滅させられた小さな町へ、国の要請に従って調査に赴き、そこで、王自ら実態を確認に来たホノカと鉢合わせしたのだ。 誰何したのはレイからだった。まかりなりにも赤月帝国の領土。そしてレイはその場を検分するための役人として訪れている。当然だ。 現れたホノカの瞳に、只者ではないことはすぐに知れた。まさか国王だとは思わなかったが。 油断なく棍を構えれば、相手も自分の得物を構えた。女性――しかも明らかに年下の少女――だとは見た目ですぐに知れたが、その所作に油断など出来るはずもない。 得物を交えては手加減も出来ないと見解を改めた。 トンファー。珍しい得物だ。 強い。 互いに心血削ってぶつかり合った。こんなに集中したのはどれほど振りだろうか。こんなに思考がクリアになったのは初めてだった。まるで青空の下で二人きり。円舞でも交わしているような錯覚。 闘い終わって、強いなと声を掛けた。互いに息が切れていた。 ホノカは切らした息を僅かに落ち着けて微笑した。狩りと戦の女神――アルテミスのように凛々しく、聖母のような清々しい強さに満ちた微笑だった。 僅かに見惚れる。 彼女の声が耳に届き我に返った。 『棍と遣り合うのは慣れてるんです』 義姉と幼馴染である兄弟弟子の得物が、揃って棍なのだそうだ。もっとも、義姉のそれは三節棍であるとのことだが。 手を交し合う。すっかり打ち解けていた。彼女が――その国が、こんな惨劇を生み出したとはとうてい思えなかった。 少なくとも彼女は関係がないなどと――馬鹿なことを真剣に言い募っていた。 『ジョウイは幼馴染なんです』 その名は聞いたことがある。ありふれた名だが、ハイランド王国の皇子の名でもある。 自然、追求するような目で見つめていたのだろう。真っ直ぐに見つめるレイの視線に、ホノカは小さな笑みを作って見せた。ほんの少しだけ物悲しげに写ったのは、レイの気のせいだったろうか。 ホノカは語った。 ハイランド王国の皇子である彼と、デュナン国の王女であった彼女の出会い。それは意外なものであった。 慢性的に敵対し合っている国同士だ。レイの感じ方は当然だといえよう。 そのままの感想をホノカに告げれば、彼女は嬉しさを滲ませて擽ったそうにはにかんだ笑みで答えた。 『ジョウイは戦争を…人と人が憎しみ合うことを、悲しんでいました』 どうにかそれを止める術はないのか。答えを探すため、単身で敵国へ潜り込んだ幼い彼を見つけたのは、ホノカの義姉だったという。隠れるようにこっそりと彼女らを窺う彼を見つけた途端に駆けて行き、その手を引いて仲間にしたのだと、ホノカは当時を思い出してか愉しそうに瞳を眇めた。 『ナナミは強引なんです』 困ったように笑った彼女の優しい瞳の色が、それが彼女の義姉の美点なのだと何よりも雄弁に語っていた。 どうやら義姉の『ナナミ』とやらは、ハイランドの皇子のことを、仲間に入りたくて、でも声を掛けられずにいるいたいけな年下の男の子という認識のもとに行動したらしい。 『今もきっと、同じ認識です』と苦笑する彼女の声はどこまでも温かかった。きっと、これが家族を思いやる『愛』というものだろう。その美しさに目眩が起きそうだっだ。 『二人で誓ったんです。デュナン一帯を平和な土地にしようって』 ホノカの瞳の奥に宿る、力強い決意の光。そう遠くない未来、デュナン国とハイランド王国は和解し、平和共存の道を辿ることになるだろう。 共に歩むことの出来る同盟国。真の意味でのそれを得ている国の、なんと少ないことだろうか。なんと、夢物語のような理想。それが実現されることだろう。 ホノカは告げた。 だから、この国境へ来たのだと。 『赤月帝国。僕の国と、その国との『現実』を、実感として、知りたかったんです』 知らねばならないことだから。 告げるホノカの、なんと強いことだろう。 レイは自分の心のありようを、未来への大望を省みて、その矮小さと薄さに恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。まさしくそんな気持ちだ。 そんなレイの気持ちなどそ知らぬまま。ホノカは楽しそうに語った。 ジョウイのこと。ナナミのこと。 それから悲しげに告げた。 『ジョウイは力を欲していました。その力に憧れて、僕等は兄弟弟子になったんです』 門徒を叩いたジョウイと、ナナミとは話さない様々なことを話した。 歳を重ねるに連れ、彼はより力を欲するようになっていった。護るべき力を、平穏を齎す力を欲した。 その力があれば。 『その力があれば、戦争を止められる。そう信じて、僕等はそれぞれに王位に着きました』 ジョウイは奪う形で。ホノカは継承する形で。 詳細は知らなかったが、レイとてその大まかな経緯は噂に聞いている。 共に同じ目的に向かって。選んだ道は、異なっていたけれど。 話すホノカの瞳に、僅かに影が射した。 『それでも、僕らには誓いがありました。きっと、あの頃の僕らはそれだけを支えに、別々の道を一人で駆け抜けるしかなかったんだと思います』 大切な近いは果たされ、もうすぐに二国間での和平条約が結べるのだと、最後にホノカは締め括った。そうして、次に目を向けるべき場所へ赴いたのだと。 ホノカの瞳には、レイではなく別の男との誓いがある。それが、彼女の清楚なまでの行動を生み出している。 レイは歯噛みした。 ホノカの根幹を成す、名前だけを知る『ジョウイ』への嫉妬に。そして、これほど美しい思いと行動を見せ付けられ、そんな浅ましい思いを抱くばかりの自分へ。 それでも優しい笑顔を向けて。爽やかに手を振り分かれたあの日。 思い起こしたそれは、あまりにも嘘で塗り固めたばかりのものだった。 『その行動の理由を、自身で理解するべきだ』 サツナの言葉がリフレインする。まるで木霊のように耳を着いて離れないそれから逃れたくて、レイは瞳を閉じた。 天に向けられた面は、何かに祈りでも捧げているかのようで、反り返る首はしかし、祈りの言葉を口にした気配も見せない。寄せられた眉間の皺に、彼の苦悩が見て取れるだけだった。 彼女の願い幸せも。自分の矜持も規則も。何もかも捨てて。彼女を攫っていってしまいたい。 その思いが脳裏を過(よ)ぎるたび、やはりそれを止めるのは、自身の矜持であり規律であるのだと、レイは自身に向けて嘲笑した。 自分の幸せが一番大事なのだと。そうはっきりと断じてしまえるサツナが、本当はただ羨ましいだけなのかもしれない。 決して悪びれることもなく。開き直りでもなく。 彼女は自分の信念に忠実にあるだけだ。 それがとても難しいことを、やはり自分で自分に課した信念の為に二の足を踏むばかりのレイは良く知っている。 窓から射した日差しがその面を照らし、仄明るい影の上を涙が滑る。何に対しての涙であるのか。分からぬままに、今はただ只管に。強く強く目蓋を閉じるばかり。 目蓋の裏に焼きついた彼女の柔らかな眼差しに、無性に会いたかった。 |
理性。倫理。常識。節度。良心。謙虚。敬虔。 幾重にも覆う花びらの中で迷っているがいい。 どうせそれらを失ったおまえの本章が醜い棘の茎であるなど。 いくら惑おうと、何も変わりはしないのだから。 |
talk |
うちの坊はモラリストだったのだと初めて知りました…。いろいろと語りたいエピソードが満載で、上手く入りきれずにぶつ切りのような構成になってしまったのが悔やまれます。最近はなんかもう言葉が出てこなくて出てこなくて…。単語がどんどん忘れ去れていく恐怖をこれでもかというほど味わっています…。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/01/28・0204〜11_ゆうひ。 |
back |