白百合革命
-アズライトラティールの怒り-
深く、深く。尚、深く。 痛みも悲しみも、すべてが一つのところに集まってできるもの。 深い愛を、 |
ぬかった。 サツナは血の滲み出す腹に手を添えてどうにかこうにかマクドール邸に辿り着いた。そうしてここでもぬかる。 窓からこっそりと自室にと与えられた一室に戻ろうともくろんでいたのにもかかわらず、最も発見されたくない人物――すなわちテッドによって、その重症一歩手前の態を発見されてしまったのだ。 「こ、の……大馬鹿が!!」 夜中だとか、まだ家人が寝ているだとか、そんなことを一切考慮しない叫びだった。怒りだ。テッドに叱られることほど、サツナにこと耐えることはない。 けれどサツナが悲しかったのは、テッドに怒られたそれよりも尚、彼が、ともすれば泣き出してしまいそうなほどに怯えているそのことを、感じ取ってしまったからだった。 とどのつまり、意気揚々と乗り込んだ白の主は強く、サツナは返り討ちにされたのだ。真の目的である魔術師に会うこともせぬままに。 流石は黄金帝と感心するべきだろうか。 サツナは己に慢心と油断があったことを認める。負けたのだ。 しかしだからといって反省しているわけもない。負けたことも悔しくなかった。自分より強い相手がいることに怒りを覚えるはずもない。 ただ、「そうか」と一つ肯いて受け入れているだけだ。なんでもないから簡単に受け入れられる。 それなのに、これはどういうことだろう。 テッドが泣いていた。傷を負ったサツナの為に、涙を流していた。 「お前は、どうして…!」 テッドが何を言いたいのかが、サツナは全く理解できなかった。はっきりと言葉にされなければ、何も汲み取ることができない。 自分で自分のことが嫌いだなどと感じるのは、サツナにとってこれが初めてのことだった。 ただ分かることは、テッドがサツナの為に泣いていること。サツナの為だけに、その心を激しているということ。この命の失われたかもしれぬ可能性に――! 「ごめ、な、さい……」 サツナは泣いた。 バルバロッサによって負った傷はまだじくじくと痛んだが、そんなもの気にならぬほど、その背を掻き抱くようにしてサツナを腕の中に収めて涙するテッドに、サツナただ涙した。 こんなにも彼が近いのは初めてのことで。 こんなにも彼の真っ直ぐな気持ちをぶつけられたのは初めてのことで。 ああ、だからか――。 テッドに抱き締められ、涙を零しながら、サツナはそのぬくもりに頬を当てる。テッドの熱が頬から伝わり、それがどこまでも愛しかった。 サツナは思う。自分がテッドから感じられるように、テッドは触れたサツナから、ぬくもりを得ているのだろうか。この身は、彼のように暖かいのだろうか。 きっと温かいはずだ。 だからこそ、テッドは泣いてくれている。惜しんでくれている。怯えてくれている。 此の命の、この温もりの、或いは永遠に、失われたかもしれぬ可能性に。涙を流してまで。 それでも、と思うのだ。 この世で最も大切な、唯一、至上の彼に抱き締められ。その温もりに全身を満たされて。 この身を惜しんでくれる、悲しみと怒りと、そして不安に満ちたこれこそが、愛であるのだ。誰に与えられるよりも深い愛。 藍染の色合いのように、深い、深い青。 「これは驚きだ」 「サツナ?」 「バルバロッサは僕の姿を見つけ、そう云ったんだ」 突然呟いたサツナに驚きテッドがその身を話してサツナの姿に向き合おうとするのを抑えるように――その体が自分から離れていくのを抑えるために――サツナはテッドの背にまわした腕に僅かに力を込めた。 「グレッグミンスターの空中庭園から城内へ入ったんだ」 長い廊下がまず控えている。グレッグミンスター上は赤と金をベースにしたあでやかな内装がその特徴で、昼間であればそこは丸で光が溢れているかのように鮮やかに輝いていたことだろう。真夜中の今では赤も濃紺色に変わっていた。 明かりは灯されていない。不要であるから当然だ。日が昇れば光は勝手に入る。曇りや雨の日なら、城の主が起き出す前に、メイドや執事が明かりを灯していく。 「そうしていきなり城主との対面だ。驚きはしなかったけど、意外だったかな」 誰もが寝静まる時間で、まさか健康的な皇帝がうろうろと城の廊下を歩いているとは、あまり普通ではない。 「『オベルの第二王女がこんな時間に、こんなところにいるとは。しかも無断で』」 『黄金帝こそこんな時間にこんなところで何を』 『ここは私の住まいだ。おかしいかね』 『ああ。なるほど、おかしくない』 サツナは一度肩を竦めた。対峙したバルバロッサは武装していたが、彼は武の王でもあったので、それが常だった。不思議なことは何もない。 「確かに、僕がここにいる方がおかしい」 サツナは薄っすらと笑って見せた。彼女が意図せずに微笑うのはある特定の人物の前でだけであるから、これは意図してのことだった。 「やっぱりあなたは傑物だ。黄金帝と呼ばれるに相応しい」 人格者としても、政治家としても、武将としても。 「ありがとう、とでも云うべきかな。お嬢さん」 「いらない。それは王として当たり前のことだから、むしろその他の――つまりは貴方の過去の血筋を侮っている発言だから、怒っても構わない」 「私もまた侮っている。――ふむ、なるほど。オベルには侮り難い傑物がいるようだ」 バルバロッサが僅かに瞳を眇めたようだった。サツナを通してオベル国王を見たつもりになったようだった。 「否。いないよ、そんな人物は」 サツナは軽く返した。バルバロッサがサツナの父であるオベル国王リノ・エン・クルデスを思い浮かべてのことだと正確に見抜いたからこその態度だった。その周囲――例えば姉のフレアにまで話が言及したのであれば、サツナの先のセリフも今少し思案を必要としたかもしれない。 「少なくとも、貴方に匹敵するほどの人物はいない」 バルバロッサは少し意外そうな表情をした。サツナはそれを無視した。 「だからこそ意外だな」 「ほう。何がかね」 「不法侵入者の僕――しかも政略結婚の為に訪れた他国の姫――を見て取り乱すこともない。或いは、貴方は何か悟るところがあるのかもしれない。そうしていながら、あの魔女を寵愛していることが」 宮廷魔術師ウェンディが心美しい聖女のような女性とはほど遠い強かな――たとえ根っからの悪人出ないとして――女であることは誰もが一目見てそうと知れる。その身目に性格がまさしく表れているからだ。 それほどあからさまな女性でありながら、人格者としてもすぐれた評価を与えられている――サツナもそれを認めた――この男が、寵愛を施し、あまつさえある程度の――それはサツナから見れば過ぎるほどの――権力まで与えている。 どうにも解せない気分を、サツナを以ってしてもさせるのだ。 「亡くなった王妃に容姿が似ているとは聞いたけど……、彼女は王妃ではない。所詮は別人だ」 姿が似ている分、余計に虚しいだけではないか。 「君はレイをとても愛しているようだ。この間のパーティーで君達を見た。互いに愛し合っている。昔の――そう、まだ私が君らほどの年頃だった。王妃と初めて出会ったときのことを思い出したものだ」 「そう」 サツナは無感動に相槌だけを返した。バルバロッサにしてみれば、それは決して色褪せることのない青春の一ページといったところであるのだろう。運命の女性と出会った日の、淡く、輝かしい、宝物のような思い出。 サツナはバルバロッサの青春の日に興味などなかったし、そう云ったことを思う人間に対して感傷を抱くような可愛げもなかった。しかもレイに対して愛情を抱いたこともない。他人を思いやる気持ちが極端に薄いサツナであればこそ、無感動に返す以外に労力を掛ける気も起きなかったのだ。 「その相手が失われた時の私の絶望を、君らが共に味わうことがないといいと願ったものだ」 語るバルバロッサは僅かに肩から力を抜いたようだった。深い、過去からの重りを下ろすように。 「……ウェンディの写し身に、失われた幸福の面影を見つけ、微かな希望でも見つけたと?」 サツナは嫌そうに顔を顰めた。 仮にテッドを失い、けれどその似た姿をした誰かに希望を抱くことなど、サツナには到底不可能に思われたからだ。むしろ、与えられるのは失われた絶対の存在が二度と戻らぬという更なる絶望に違いない。 「人間というものは、絶望の淵からでも尚立ち上がれる生き物だ」 「知ってる。先達としての言葉ならいらない。僕がこうしてここにいるのは、絶望の淵に佇みそれでも尚足掻き続けて漸く見つけた微かな希望を広げるためだ」 生まれて初めての恋。 生まれて初めて執着した人。 生まれて初めて欲した者。 それが自分のことを見ないと知った瞬間の絶望。それでも諦めきれず、見つけた微かな希望。彼の――テッドの為にできること。彼が自分を選んでくれる方策があるのなら、その可能性が僅かでもあるのなら、どれほど不可能に近くとも、どれほどの危険が伴うものだとしても、実行するに躊躇いは微塵もない。 「レイの望みか」 「違う」 愛する男の為であるのは間違っていないが、レイはこんなことは望んではいない。そこだけはきちんと否定しておくべきだろう。そもそも、サツナはレイを愛していない。 しかし、サツナの否定は本当に否定の言葉だけで、言い訳も何もないものだったから、それが正しくバルバロッサに伝わったかといえば、希望は持たない方がいいだろう。 サツナは剣を構えた。彼女は双剣を得意としていた。 バルバロッサもまた剣を抜く。噂に名高い名剣――竜王剣――。 「それで、腹のあたりに一撃貰って逃げ帰ってきた」 サツナがテッドに語り聞かせる話は、そこで一度途切れた。 テッドが無言のまま、それでもきちんと話を聞いてくれていることを正しく感じて、サツナは言葉を紡ぐ。瞳閉じたその暗闇に、逃げ帰る自分の情景を思い浮かべた。 背を向けたサツナを、バルバロッサは追い掛けてはこなかった。誰を呼ぶこともしなかった。 何を考えているのか、今一掴めないと告げれば、テッドが「お前にだけは云われたくないだろうな」と笑った。まだ少し泣き跡が残っているような笑い声だった。 「バルバロッサは僕を逃がした。そして、未だにマクドール家には何のお咎めも来ない」 今来ないのだから、今後、少なくとも今夜の件に関してバルバロッサが言及してくることはないと云うことだ。お咎め無しを言い渡されたも同様だった。 「――ねぇ、テッドさん」 「……なんだ」 「ウェンディが、あなたの大切なものを奪ったって、本当?」 テッドは答えなかった。無言のそれが肯定を示していることを、サツナは悟った。今はそれ以上を追求する時ではないことも。 「今日、バルバロッサと対面して感じたことがあるんだ」 「ああ」 「彼は、ウェンディの罪も、その心の闇も、すべて、知っているのかもしれない」 知った上で、先の王妃とはまた違った――そして等しいまでの――愛をもっているのではないか。確かに、その切っ掛けは失った妻に似た面影であったかもしれないけれど――。 「僕には、考えもつかないけれど」 これ以上の深い愛なんて。それが失われて、それでも自分がこの地上でその時間を紡ぎ続けていることなんて。 まったく、信じられもしない。 「お前だけじゃないさ」 テッドがぽつりと零すようにサツナに伝えた。 それは誰もが多かれ少なかれ抱いている不安だ。その対象は恋人に限らない。愛を向ける全てのものに向けられるもの。たとえば家族に、友人に、知人にさえ。 誰もが、突然に、愛する者が奪われる恐怖を内包して生きている。その恐怖を、普段は頭の隅に追いやり、あるいは無意識に見つめることを避けながら。 それなのに。 「お前は、いつも平気で無茶をするから――」 それ以上、テッドは言葉を重ねはしなかった。サツナも、今夜はもう、話そうとは思わなかった。 ただ、思ったことがある。それは人の持つ感情の中でも、根本的で単純なものの一つ。 とくりとくりと脈打つ心音が伝わる。愛する人のそこにある証。その温もりの実感。ひどく安心できるもの。 それが失われるかもしれない不安を与えたのかと思う。 ああ、そうか。だから――。 |
だから、人は怒るのか。 |
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アズライトは群青色のことです。濃い青ならなんでもよかったのですが、響きが気に入って。青には精神を落ち着ける効果があるとかないとか。ラティールは鼓動という意味があります(たぶんスペイン語だったはず)。鼓動の音もまた安心感を与えてくれて気持ちを落ち着かせるものではないかと思います。テッドの怒りはサツナの心を穏やかにすると妄想しています(笑)。本当はバルバロッサとの対峙なので黄金をイメージしようとしてたのですが。次に送るつもりです。というか、予定が大幅にずれました。列島を襲う蒸し暑さの為に筆が進まないこと限りなし。サウナみたいな部屋でパソコンつけてるから暑さは倍増です。パソコンが壊れないか怖いくらい。因みに冒頭は書き忘れとかではないですよ。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/08/01・05_ゆうひ。 |
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