封印師 




 テッドさんが倒れた。とても苦しそうに右手の甲を押さえ込んで蹲るその姿に、僕は取り乱して彼を抱きしめた。
 ただ彼を包み込んで、その背を撫でて。気休めにもなりはしない。そんなことしかできない。
 ただただ心配と不安に眉を顰めて。それでなんになる?
 いつも僕は何にもなりはしないのにただ不安を表情に出すものを見るたびに、労力の無駄だと感じて素通りしてきた。何も出来ないのに、その表情で人の心をさらに不安にさせて。役に立たない余計なことばかり。口だけ。邪魔ばかり。
 けれど今の僕は、そうして僕自身が嫌悪してきたそれらと同じ。

 そんな彼が絶え絶えの息からどうにか搾り出した『人の名』。呼んでこいというそれを、僕は幾つもの感情の対立をどうにか押し込めて実行した。

 彼に助けを求められる人間が自分ではないことに。
 彼を助けることが出来る人間が自分ではないことに。

 彼を助けたいと思う心と、そうできない自分への苛立ちと、それが許されているらしい見知らぬ誰かへの烈しい嫉妬に。
 僕の心は焼き切れてしまいそうで。

 激しく渦巻き、吹き荒れる嵐のようなそれを胸の中に無理矢理閉じ込めて。
 船を最高速度で駆け抜ける。

 これは私事だ。
 それは分かっていた。
 だからリノにもエレノアにも、他の上層部の全員にそう告げた。
 たった一人の戦闘員のためだけに、綿密に組まれた日程を覆すことなんてできない。軍主とて同じことだ。
 それでも僕は行く。
 それを知っているの全員が、呆れや諦めに溜息だとか苦笑だとかを織り交ぜて答えたのは、了承の返事だった。

『テッドは大事な仲間だしね』
 云ったのはフレアやケネスあたりだったろうか。
『あれだけ有能な魔法兵に倒れられたんじゃ、作戦に支障をきたしかねないからね』
 エレノアやリノなら云いそうだ。
 どちらの言葉も大して記憶に残っていなかった。
 そんな問答する時間さえ惜しい。できることならすぐにでも船を飛び出して、海の上を最高速度で駆けて行くものを。
 この軍の首魁は僕だけど、この船の主は僕じゃない。
 ああ、まったく。
 こんなことなら船の一つや二つ、ぶん取っておくんだった。





 彼が僕に指し示した場所には、一岩が尖塔のように佇んでいた。





 その尖りが黙々と指し示す上空。素人の僕にさえ、空間が円を描いて歪むのが見て取れた。
 ビッキーの移転魔法とも違う。霧の船の出現方法とも異なる。
 まるでむりやり空間を抉じ開けて中空に現れたのは、チシャ猫のように瞳と口端を歪めた、一人の少女だった。

「ハロー。ご機嫌如何?」

 笑う少女がに憎悪が沸いて、名前すら訊ねなかった。

「テッドのやつが倒れたんだって? 知ってるよ。蛇の道は蛇。こういうのはさ、狭い業界の中ではあっという間に噂になるのさ」

 少女はよく喋る。聞かれてもいないのにべらべら喋り、逆にこちらにも何も訊ねてはこなかった。
 勝手に船に上がりこみ、真っ直ぐに彼の部屋へ歩みを進める。それこそずかずかと。
 もしかして僕ってこんなふうなのか?
 少しだけ自己嫌悪した。でもきっと治らない。だからこの女の態度も、僕は堪えなければならないのだ。
 だって、彼女のを呼んだのは他ならぬ彼で。
 誰にも頼ることを由としない彼が救いの手を求めたということは、相当苦しいということで。
 そこで手を差し伸べられたこの女は、今の僕より遥かに彼のためになる存在なのだ。
 それが一番腹立たしいことに。

「やあ、久しぶりだね。テッド」

 彼女は朗らかに云った。ご丁寧に片手まで上げて。
 僕は慌てた。確かに彼をベットに寝かせたのに、彼はそこから降りて床に直接座り込んで蹲っていたから。
 慌てて彼に走り寄ろうとした僕を、出会った時から変わらぬにやけた顔のままで、女が片腕で僕の行く手を阻んで制した。
 女の目が彼を見下していた。僕の目は彼女を横目に、憎悪で殺人でも犯しそうだったのではないだろうか。


 おまえはいったいなんなんだ!!


 ぎりぎりと噛み締めた歯が痛んだが、そんなことでは治まりそうもなかった。しかも。しかも。
 僕等が扉を開けて室内に入り込んだことに気づいたテッドさんが彼女を見た瞬間に浮かべたその目!!
 苦々しそうな表情で、その瞳は明らかに救いを求めていた。その目は彼女に縋っていた。
 そんなのは本当に僅かだ。微かに覗く程度だ。救いよりも忌々しさのほうがずっと上回っている。
 けれど充分だ。けれどそれで充分だ。
 僅かにでもある。
 微かであろうとも、彼女は彼に『求められる』存在である。
 憎悪も怒りも何もかも越えて、いっそ泣きたくなった。
 そんな僕を置き去りにして、彼と彼女は再会を交わす。

「無様だね。だからさっさと捨てればよかったんだ。そんなもの」

 辛いかと彼女は彼に訊ね、彼は答えずにただ唸り声を上げる。
 彼女は一歩ずつ彼に近づき、僕はとめたいのにそうすることが出来なかった。

「君が僕を助けたときみたいには、僕は君を助けられないよ。力が違いすぎるから。閉じ込めるべき紋章の力も桁違い。…ああ、格の違いの方が正しい?」

 もはやその後姿しか見ることが出来ない。けれど僕の横をすり抜ける瞬間の彼女の顔は、もう哂ってはいなかった。
 彼女が彼の元へ辿りつく。膝を折り、両手で彼の右手を包み込んだ。そしてそのからだ全体を持って、彼の蹲る背を包み込む。覆い被さるように。
 まるで、母が子を抱くように。
 僕がしたいことを、そして許されないことを、彼女は全て許されて、行なっている。僕はそこに介入することさえ許されない。
 悔しかった。

 テッドさんの苦しみが治まっていくのが分かる。
 荒い息も、歪んだ表情も。何もかもが解されていき、やがて彼は眠った。
 安らかな表情で。





 彼をベットに運び上げ、部屋には僕と彼女と彼だけ。
 そうなるまでにも、今も、これからまだ暫らくも。彼女は彼の手を――彼が触れられることを極端に拒絶する右手を――握り締め続けている。
 また、僕には許されないこと。できないことが、積み重ねられていく。
 彼の呼吸は安定していて、それを齎したのは僕ではない。それを与え続けることが出来ているのも、僕ではない。
 僕はただ彼の横に佇んでいるだけで。許しもないのに勝手に佇み続けているだけで。
 不意に、彼女が話しかけてきた。

「君はテッドとは違って、その真の紋章の『主(あるじ)』なんだね」
「…どういうことだ」

 語る目の前の少女に、僕はその目に殺意さえ込めて詰問した。
 まるで彼のことを蔑むかのようなその言い草に、理性が焼き切れそうな怒りを感じている。
 少女は首を傾げた。

「そのままの意味だよ。テッドはソウルイーターの主じゃない。ただの仮宿――もっと適確に云うなら移動手段に過ぎないって感じ? ソウルイーターが自らの『主』と定める人物に会うための…。だからソウルイーターはテッドの制御が利かない。彼の膨大な魔力を持って封じているけど意思に反して暴走することがある。それだって、真の紋章をたった一人の魔力で無理矢理封印して従わせてるんだから、まったく、いったいどんな化物なのかって、テッドに初めて会ったときはびっくりしたけどね」

 彼女は思い出し笑いをした。くすくすと肩を揺らして微笑うその姿が、初めて僕等の見た目の年齢が同じくらいなのだということに思い至らせた。
 僕は何も口を開かない。
 代わりにただ睨み付けた。
 自分の表情など分からないけれど、ただこれだけは断言できる。好意など欠片もない。
 けれどそれで充分だろう。僕はよく、口よりも瞳で者を語ると評されることがある。
 彼女は勝手にも僕の意思を汲み取って、勝手に語り続ける。――どうやら黙ってじっとしていられない性分のようだ。僕とは正反対。
 ……でも、テッドさんとは少しだけ、近い。

「あたしが何者かって? あたしは『封印師』。テッドの同類だね。もっとも、テッドと比べられたらあたしの力なんて三下みたいなものだけどぉ〜。封印師っていうのは、紋章の力を魔力によって無理矢理封印することのできる使い手のこと。けっこう貴重なスキルなんだよねぇ。テッドと比べらたら三流だけど、比べなきゃ一流なんだから。一応云っておくけどさ。…そりゃ、仕方ないよ。真の紋章をたった一人で封印するなんて芸当、あたしにはとうてい無理だもの」

 肩を竦める彼女を、僕はただ見つめていた。

「テッドの生まれた村はそういう村で、あたしはイレギュラー。偶然テッドに出会った。一人ぼっちだったあたしに、テッドはたくさんのものをくれた。力の使い方を教えてくれ、知識も与えてもらった。そうしてあたしは時空を渡って好き勝手やってる。魔女の一族の残党みたいに何かに干渉するつもりもないし、法王のように支配したいわけでもない。テッドみたいに自分に何かを科してるわけでもない。力を持っていても、なんにもしようとなんて思わない。あんたと同じ」

 初めて彼女が僕に笑い掛けた。その笑顔の意味は知らない。少なくとも、好意だけではありえないし、だからといって嫌悪でもないようだった。どちらかといえば自嘲ではないかと僕は結論する。
 僕はまったく嬉しくなかったので笑い返さなかった。表情を動かすのにだって労力なのだ。僕は無駄な労力は嫌いだ。
 だから僕は彼女から視線を外し、あとはもうずっと、テッドさんの姿に――その表情に、視線を置いていた。
 彼女は呟いた。本当にただ、呟いた。誰にともない呟きであると、僕にさえ理解できた。

「テッドは真の紋章を持たない。君は持っている。あたしは持っていない。あたしはテッドと同じ能力を持っていて、けれどあんたは持っていない」

 彼女の声の調子は当初からは考えられないほど変わっていた。
 けれど僕は彼女に視線を向けようとはしなかった。最後の彼女の呟きにさえも。
 だって、僕の彼女へ抱く思いは唯一つ。ただ一つなんだ。
 彼女がどんなに何を語ろうと、目の前にいるテッドさんは昏々と眠り続け、何も語ってはくれない。今の僕にはだからテッドさんの気持ちなんて分からない。
 だから彼女の最後の呟きにさえ、僕はただ怒りを覚えるだけだった。

「それでもテッドを救えるのは、あたしじゃなくて、あんたなんだ」

 だってそんな言葉。僕にはとうてい信じられなかい。
 相変わらず。彼の手を握り締めるのは、僕ではないおまえなのに!
 僕ではない、誰かの手なのに――。





talk
 裏の『白百合革命』と同時進行で書いているお遊び小説。むしろこれこそ裏に送れといわんばかりなパラレル。ネタだけを書き出して終わりにするつもりなのでくだくだ感が否めない。最近週一更新も厳しくなってきた感じ。すべてはギアス小説を読み耽って夜更かししている為のぐだぐだな日常生活の為。…人生って文章に出るから凄いよね。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/01/23・0204_ゆうひ。
back