向日葵に恋して。
泣かない幼子だった。 それは朧気に記憶している。母や父のいうような赤ん坊の頃のことなどが、記憶にあるわけもなかったが。 とにかく泣かない赤子だったそうだ。 人がいない心細さに泣くこともないし、人見知りをして恐怖に泣くこともない。少々のけがでも平然としていて、この子はどこか神経に異常があるのではないかと、両親は本気で心配した時期があったらしい。 因みに神経に異常はない。頗る正常だ。痛いものは痛い。 異常があったのは情緒だ。脳に異常があるからは分からない。少なくとも、現代科学においてそこに異常は見られなかったから。 けれど明らかに異常だった。 だって、この心は何ものにも揺さぶられない。ただじっと見つめているばかり。 大地を踏みしめても、隣人の遊ぶ声も、砂場で虫の生きずく様にも、風が頬を掠めて吹き去ることにも。 この心は動かない。 「こんなところで何してるの」 陽光を遮るように覗き込めば、顔を顰めて彼が眸を開ける。僕の体では屋上一面に爛々と降り注ぐ完全に陽光を遮りぎることは当然できず、今まで瞳を閉じていた彼には、影のような光さえも眩しいに違いない。 眠りの邪魔をしてしまったかな。思わないでもないけれど、彼が邪険にする素振りを見せないから、それに甘えて気づかない振りをする。 「ん〜、昼寝、だ」 答える彼の声は言葉の通り、寝起きのそれだった。ああ、そんなに強く目を擦っては赤くなってしまう。 「屋上で?」 日に焼けてしまうよ、と首を傾げるけれど、彼がそんなことを気にしていないことなど知っていた。 「空を見ながらぼーっとしてたら、寝てただけだ」 「テッドさんは青が好きだものね」 憮然と答える彼に、笑って返した。彼が空を眺めているので、始めは空好きなのだと思った。けれど、そうではなくて「青」が好きなのだと知ったのは、いつだっただろう。この街にはすぐ近くに海を望めるような場所がないから、彼は最も近くにある青――すなわち、空を眺める。 川では青というよりは水色で、川底まで見える透明な煌めきはそれはそれで美しかったが、彼の好きな青とは違うものだった。 陽の光に反射して、煌々と輝くような、青。 「僕、だから自分の瞳の色は割と好きだよ。できれば、もっと空に近い青が良かったけど」 そうしたら、もっと、あなたの焦がれる自分になれるから。 僅かの落胆を胸に秘めたまま告げれば、彼は特に心を動かした様子もなく返した。 「確かに、お前の瞳の藍は空とは言い難いよな」 抜けるような青色ではない。何ものをも顧みることのない、けれど何ものも拒まず受け入れるそれとは違う。けれど、青。 「おまえの藍は、海の青だ」 深く、不気味で。柔らかく、あまりの安心感に、身も心も預けてしまいたくなる、母なる漆黒。表面の光と、奥底の闇と。どちらも内包して揺れる、青。 彼がこの瞳を称する。彼が好きな蒼とは違うけれど、彼が美しいという、色。 彼はまた瞳を閉じた。どうやらまだ寝足りないらしい。昼休みはもう終わるけれど、だからこそ、これからが一番心地よい眠気をもたらしてくれる時間であるということでもあるから。 「僕、ここにいてもいい?」 首を傾げつつそう訊ねれば、彼は首を一度だけ上下させて肯定の返事をくれる。 『好きにしろ』 それが彼の言葉であることは知っていたけれど、彼からの許しをもらえた事に心が喜びに弾む。それは自分ではどうしようもないことだし、そうして心が弾むその状態は、とにかく幸せだ。思わず満面の笑みを浮かべた表情のままで、彼の隣に腰を下ろした。 折り曲げた膝を両腕で抱え込み、その間に顔を埋めた。眸を閉じた彼を見ているだけだ。それだけで、こんなにも心が安らぐ。 ああ、やっぱり。僕の情緒は、壊れていた。 あなたとの出会い。それは私が七つのことだった。 忘れもしないあの日。小学校から帰る道。 土手になっているそこを降りれば、広く大きな川が流れていた。 川上からゆっくりと流れてくる茶色い段ボール箱が視界に入り、けれど私は何も感じなかった。ただぼんやりと、視界に入ったそれの流れて行く様を目で追っていた。 顔の横をすごい速さで影がすりぬけて行った。 私は驚いて横を振り返るが、そこにはもう何もありはしない。ゆっくりと首を巡らせて、再び川のある方へと視線を移せば、そこには私とそう歳の変わらない少年がひとり、黒いランドセルを河原へ投げ捨て、躊躇いもなく川へ歩いて行くのが見えた。 ランドセルがどさりと落ち、砂利とぶつかった音が耳に入った佐野がしか。それとも少年が水の中へと足を踏み入れたのが先か。川の流れる音が、急に轟々と唸りを上げているように激しく耳に鳴り響いて聞こえてくるようだった。 ああ、何を馬鹿なことしているのだろうか。この少年は。 それがはじめの感想。 だって、この川は小学生の身の丈ほどの推進もある個所もあり、流れは見た目以上に速く激しい。決して大人の目がないところで川遊びをするなと、家でも学校でも耳にたこができるほどしつこく云われているのに。 ……段ボールが流れていく。少年の手は全く届かない。切なく、そして恐怖に慄く子犬の鳴き声が遠ざかって行く。 少年を見た。膝まで川に浸しながら、佇んでいた。 きつく閉じられた芽も、軋むほどに噛み締められた刃も、震えるほどに固く握りしめられた拳も。すべて、涙を流さぬようにするための我慢なのだと悟った。 気がつけば、私の頬を幾筋もの涙が辿っていた。 私は泣いていた。 それが、私がはじめて、肉体的な痛みではなく、生理的な本能的なものでもなく。徒々胸が痛んで流した、初めての涙であったのだ。 命の。あんなにも軽い命の為に、ここまで必死になれる人がいる。涙を堪えねば立てぬほどに強い痛みと、激しい憤りを感じる人がいる。 明日から夏休みだった。今日は終業式だったのだ。 夏の太陽はこれからさらに烈しさを増す。 青い空が心地好いと思えるぎりぎりの頃だった。これを境に、あとは徒ウザくなるばかりなのだから。 太陽が光を注ぎ、少年の髪が金色に煌めく。 まるで向日葵の様に。 その日、私ははじめての涙と、初めての、そして唯一の恋を知った。 |
こめんと |
ちょいと短い。でもいいや。長いと読むの疲れるし(爆)。サツナがテッドのことを大好き大好き云ってる話を書くのが好きです。 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです...2007/09/25-10/20 |
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