ラプンツェルは逃げ出さない。 




「あの時、逃げていれば良かったんでしょうか」
「逃げる?」
 思いもよらぬ台詞を耳にし、サツナは、彼にしては非常に珍しいことに、驚きに目を瞬かせた。
 目の前のこの少年が責任を放棄して逃げるなどという言葉を――仮令それが冗談だとしても――口にしない真面目な性質であることを、出会ってから数日しか経ていないながらも、かなり正確に認めていた。
「…前に一度だけ、ナナミが云ったことがあったんです」
 ――ナナミ。
 それは遂先日、彼らを敵の白刃から庇って命を落とした彼の義姉(あね)の名であった。天真爛漫で、何事にも挫けない明るさを持った少女だと、サツナは認めていた。ついでに少々天然気味かなとの感想を口にしたところ、彼の古い友人――或いは恋人は、それをお前が云うのかと何とも言えない様子で顔を顰めた。
 新都市同盟軍のリーダー。軍主という役割も、仲間も何もかもすべて投げ出して逃げていれば。或いは、ナナミという、掛け替えのない、最も大切なそれを失うことはなかったかもしれない。
「でも、レイとは二度と会えなくなっていたよ」
 すでにトラン共和国と同盟を結んだ後であった。ホノカが責任を投げ出してナナミと逃げていれば、レイとホノカの人生が交わることなど、二度とはないだろう。
「でも、それでも…」
 ホノカが唇を噛み締めた。苦悩する彼の様子を見つめながら、サツナは、さっきのセリフは少々意地悪だったかと珍しくも反省めいたことを考える。同時にレイに対してどうにも気に食わない思いを抱いているものだから、レイの預かり知らぬところでとはいえ――彼に対してちょっとした意趣返しが叶った時にほくそ笑むあたりは、実にサツナらしい。
 知っていて掛けた言葉だった。ホノカの中で、まだ、レイよりもナナミやジョウイの方が優先する事実。
 目の当たりにして、確実なものとして表面化させて、サツナは暗くほくそ笑む。どうしても、止められない。
 そうやって胸の内に渦巻く黒い感情は、かつての――テッドと出会う以前のサツナには存在しなかったものだ。
 愛しい人を得て。掛け替えのない人を得て、彼はどんどん穢れていく。そうして、それでも尚、幸せだった。後悔も、嘆きも、怒りもない。むしろすべてに感謝している。
 溢れるほどの幸せを知ってしまった。
 満たされた喜びを味わってしまった。
 齎されたそれについてなら、神を信じて感謝しても構わない。掴み取ったそのことになら、自分を手放しで褒めてやりたい。
 サツナはホノカに視線を送った。そこにはいまだ悩み続ける彼。悔恨に打ちひしがれてだろうか。その身は僅かに、震えている。
 サツナはじっと、そんなホノカの様子を見つめていた。
 ホノカという子供は、小動物のように愛らしく表情をくるくると変える。優しくて容易い。一見害が無さそうで、事実、サツナにとってその子供は全く害がなかった。わかり易く、かと思えば想像だにしない強靭で柔軟な精神をしている子供。
 基本的に、サツナは後悔するということが無意味なことであると思っている。だから、口を開いた。
「ラプンツェルは、果たして逃げ出したんだろうか」
「は?」
 ホノカにしては珍しく、目も口もぽっかりと開けた驚愕の表情だった。
「ラプンツェル。童話だよ、知らない?」
 サツナは首を傾げた。デュナン地方には伝わっていないのだろうかと問う。
 もちろんホノカはその物語を知っている。幼少のころ、それでも女の子らしさに憧れてたナナミがせがむのに、ジョウイが家からほとんど日替わりで持ち込んでは読んで――正確にはナナミに読むようにせがまれて――いた絵本の中にあったからだ。
 高い塔の上で、育ての魔女だけを世界の中心として生きることを強制された娘の話。ある日王子が訪れて、塔から逃げ出そうとするも失敗し、荒れ地に放り出される。
 しかし、それがどうしたというのだろう。
 今度はホノカが首を傾げた。
 感情の窺がえない顔で、サツナは語り続ける。ホノカの疑問に答えているつもりなのだろうが、まったく答えになっていないあたり、実にサツナらしいと、テッドやレイなら苦笑しただろうか。幸か不幸か、この場にはホノカしかいなかった。
「例えば僕がラプンツェルの立場だとして、魔女がテッドさんなら、きっと、僕にとって、その塔は楽園に他ならない。如何に多くの制約があろうとも」
 それはもう百年以上も前の話だ。群島諸国を纏め、クールークに立ち向かった連合軍の軍主という面倒極まりない役職を投げ出さずにこなすことができた理由の大半は、きっと、そういうことだったのではないだろうかと思う。
「王子なんてね、邪魔なだけだよ。広い世界なんていらないんだ」
 笑って手を差し伸べる正義の道標(みちしるべ)なんていらない。欲しいのは、たった一つの愛。自分だけを求めてくれること。そして、自分を離さずにいたいと狂ったほどの独占欲。
 けれど彼女は初めからそれを与えられていたから、きっと、そんな自分の幸せを、そうとは気付けずにいたのだろう。ちょっと興味本位に手を伸ばしエデンの林檎を口にしたエヴァのように、在らぬ疑いをかけれらて、とうとうラプンツェルは楽園を追放されてしまった。
 サツナは云う、そう思えばいいのだと。
「君にとってその楽園は、無限に広がる自由という名の世界よりも、ずっと魅力的だっただけのことだ」
 外に出たいのならただ待てばいい。唯一と決めた魔女が、そういう気持ちになるまで。
「決着がつけば戦争は終わるよ」
 終わらない戦争もあるけれど、デュナン一帯で展開されているこの戦争は、そうやって終わる類の戦争だから。
 サツナの言葉に、ホノカはぐっと、肩に力を入れて俯いてしまった。サツナから逸らされたその眸で、何を見ているのだろうか。
「でも、そんなの…っ」
 ホノカの口から洩れたのは、苦渋に満ちた呻き。
 握り締める拳。噛み締めた唇。苦悩に満ちた表情が表に現れるほどの葛藤。
 どれも、サツナには経験がある。
 サツナは暫らくの間、黙ってそんなホノカの表情を――或いはその葛藤を――見つめていた。ただじっと黙ってそうし続ける彼の心に、実際どのような感情が巡ったのか。それは、動かないその表情からは何一つ窺い知ることができない。
 ただ彼はそれと知れぬほどに小さく息を吐き出すと、仕方ないといった風情で口を開いた。
「だったらこう思えばいい。君が逃げようが逃げまいが、結果は変わらなかった。なら、逃げ出さなかっただけ、マシな選択をした、と」
 サツナは己の左腕を軽い仕草で持ち上げて見せた。その手の甲、グローブの下には、真の紋章が渦を巻いている筈であった。
「償いと許しを司る紋章。行使する度に宿主の命を奪うその性質から、罰の紋章とも呼ばれている」
「サツナ、さん…?」
「使えば命を落とす。ならば使用せずに静かに、平穏に過ごせばいい」
 不老の力を得て、永遠に生きていける。
 けれど、過去、その紋章を手にしてそれが叶ったものは、このサツナを除いて外にいない。誰もがそれを忌避しようとし、そうすることのできぬ事態に直面し、選択を迫られる。
 選択肢のない直面に立たされ、自ら選びとるのだ。
「君の手にした紋章もまた、同じ筈だ」
 世界の創世。その根源に最も近しい業を持つその紋章の名を、始まりの紋章と呼ぶ。輝く盾の相と、黒き刃の相に分かたれているとき、それはいっそ求め合うかのように強く呼び合い、相争う宿業を負うという。
 これまでに幾人のものが、そうして争う宿命を帯びてきたのだろうか。サツナには興味すらない。
 しかし、ホノカとジョウイ然り。対(つい)となるその紋章は、最も親しく、そして戦い抜く胆力を持った人間を、その宿主に選んでいるように感じられる。
「テッドさんのソウルイーターが魂を求めるように。僕の罰の紋章が宿主の命を削り取るように、君達のその紋章は、互いに求め合い、争い合う業を負っているんだろ」
 ひとつであったときに戻りたいのか。互いに砕け、降り注ぎたいのか。ただとにかく決着をつけることだけしかその記憶にはない哀れな存在なのか。
 わからないけれど。
「君がどこへ逃げようと、君がどんなに争いを望まなくとも、君がその紋章を宿し続ける限り、その対となる黒き刃の紋章を宿したその子とは、必ず向かい合うことになったはずだ」
 そしてかなり高い確率を持って、その場には彼の義姉――ナナミが共にあっただろう。
「まして君達の紋章は、その状態で使用すれば宿主の命を削ると聞いた」
 サツナには幾つかの紋章の気配がはっきりと知れていた。それは彼の才能というよりは、長い年月のうちに培われた経験によるところが大きい。
 まだ気配を消す術に優れていない年若い紋章の所有者たちが、この地には何と溢れていることだろう。
 ホノカ然り。レイも同様だし、ルックという魔術師もそうだ。シエラの場合は隠す気がないようだ。
 ハイランド皇国方面には少なくとも三つの真の紋章がある。真なる土の紋章と、黒き刃の紋章。そして、獣の紋章。目覚める直前までに溢れ返っていたその力が突然封印されたのは、どうやらルカ・ブライトが斃れ、ジョウイ・ブライトが皇王の座に収まってからのようだった。
 黒き刃の紋章を駆使し、その命を削り。彼が、獣の紋章を封印したのだろうと思ったが、サツナはそれを口にはしなかった。
 興味が無かったこともあるが、あくまでも徒の推論でしかったなかったからだ。
 ジョウイの、或いはホノカの命があと幾許であろうと、そうと決めたのは、それでもやはり、本人たちなのだし。サツナはそう思っている。
「真の紋章の呪いってのは、本当に、性質(たち)が悪い」
 だから、きっと。その時逃げる選択肢を選んでいたところで、そうそう今ある結果が変わることはなかっただろう。似たような――またはもっと悪い形の未来が、そこに出現していただけだ。
 サツナは己の手の甲を――そのグローブの向こうにある真の紋章を透かし見るように、皮肉気に目を細めた。
 性質の悪い、その歪んだ人生の上にあるおかげで、至福に出会えてしまった。それこそ至上の歓び。まるで魂の祝福。
「本当に、性質が悪い」
「サツナさん?」
 珍しく感情豊かなサツナに、ホノカは不思議そうに。――それまでの憂いさえ忘れて小首を傾げる。円らな瞳が栗鼠のようにまん丸で、思わず、サツナは笑っていた。





 ほら、こんな事実があるのだから。やっぱり、無理だったんだ。ダメなんじゃなくて、無理、だったんだよ。
 ――――ねぇ、ナナミ。





 目的が、或いはすり替わってしまったのだろうか。少なくともいまだ、この戦争は続いていた。





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 残業さえなければ…!! 始終そんな感じで書き上げた話。すっごい眠かった。っていうかオチてなくね? この話。
 ところでラプンチツェル? ラプンチェル? どっちから分からない。誰か教えて下さい(それくらい自分で調べろ)。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/09/19-21_ゆうひ。
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