パッション・ブルー・プロローグ
何もなさずに消えていく。 それは赦されぬと知っているから、せめて。 |
当時、既にアロニア王国の姿を実際に知る者は、限り無くいなくなっていた。ハルモニア神聖国は唯一と錯覚されるほど巨大であり、けれど――或いはだから、であろうか――貧困層は悲劇的なほどであった。 吹き曝しの家。濁った水。固いパン。大人も子供も生気を失い、皮膚は乾き、頬から肉の丸みが失われていた。 畑を耕しても耕しても良くならない生活。実ったものはすべて徴収され、手元に残るのはカスのような僅か。来る日も来る日も、私たちは飢えていた。 だから人減らしは当然のようにあり続けた。老いたものと幼いものが次々に捨てられていった。どちらも労働力にはならないのに食べる。そしてどちらも生きていくのに他人の世話を必要とした。 私もそうやって捨てられ、捨てられたそこは森の中だった。少しでも食べ物に恵まれ、死なぬように。けれど、迷い込み、決して戻ってはこれぬように。 そうして。幼く、そして女であった私は、かの村に招き入れられたのだ。 門の紋章の村。私の第二の故郷(ふるさと)。女だけの村。 村の全てのものが、血の繋がりを持たなかった。ここで女は誰とも交わらず、誰も生み出さず、ただ老いて死ぬだけの村。 村を囲む森に迷い込んだ人間が女であれば受け入れ、施し、取り込み。男であれば知らぬ存ぜずで見向きもしない。そんな人々の村。 そこで生きる全てのものは姉妹と呼び合い、私の一つ上の姉はレックナートといった。 姉妹は年齢ではない。村に来た順序の問題だ。初めて私がその村に拾われた時、末妹はレックナートであり、それから私になった。私の後に初めて拾われた女は私の初めての妹であり、その日、私は初めて姉になった。 レックナートと私は偶然にも年が近く、私たちは他のどの姉妹よりも互いに仲良くなった。 優しく大人しいレックナート。元気に走り回る私のことを心配そうな顔で、いつも見守ってくれていた。 掃除に洗濯、食事の支度。ここで生きるために与えられる責務を、一つ一つ教えてくれた。 花の名前、果実の効能、床の汚れの落とし方、衣服の繕い方、火のおこし方。いつも隣で教えてくれた。 そこに生きる女は能力によってやがてその役割を分けれる。 門の紋章を安置した神殿で、その管理を行う巫女になることがもっとも狭い門。特技がなければ一生を雑用係として過ごす。畑を耕しても感謝もされない。 私とレックナートは幸か不幸か――共にそうであったことは確かに幸であったはずだ。その当時は――魔力に優れ、神殿の巫女となる道を歩くこととなった。いずれは教師となり、新しくこの村に訪れたものへ思想を説くのだろう。 日々が穏やかに過ぎていく。 神殿の床も壁も、陽光を反射するほどぴかぴかに磨き上げる。それに費やされて終わる日常さえ、姉妹達と笑い合って行えば何よりの平和だと心が満たされてしまう。覚めれば虚しいばかりのそれ。 いつの間に、私はそうなっていたのだろう。そのことを自覚した頃にはもう、思い出せなくなっていた。 ここは世界から隔離されていて。永遠に平和で。新しい妹は日々訪れ増え続ける。 飢えた女に食事という名の施しの手を差し伸べて、心を開かせ、姉妹という名の秩序で洗脳していく。逃げることは決して許さず、この村の誰もが監視をし、この村の誰もがその監視から逃れる術を知らず。 小さな村の、隔離された花園の、人口は増え続ける。――そう、増え続けたのだ。攫ってきているわけでもないに。 普通だったらこんな生産性のない村、やがて人がいなくなり、絶えてしまいそうなものを。いつだったか、私は遠からずそんな時代が来るのだと思っていた。後継者がいなくなり、近隣から娘を攫ってくる破目になるのだと。 親から引き離されて連れてこられて泣く少女に、私はきっと優しく微笑みかけて甘い言葉で騙していくのだ。そんな日が来るのだと、頭の片隅でぼんやりと思っていた。 だから、当初の私は妹が増える度に、哀しみに襲われた。ああ、まだかの国の人々は飢えているのかと。 そして妹が増える度に、私の心は郷愁に揺れた。ああ、かの国の人々は、今、どうしているのだろう。どうやって生きているのだろう。 そうして増す、私の憎しみ。ああ、こんな村、抜け出してしまいたい――。 本気なんかじゃなかった。たとえ本気だったとしても、この村が滅んでしまえばいいだとは、欠片だって思ったことはない。 ただほんの少しだけ、故郷の――本当の故郷の様子が知りたくてどうしようもない衝動に駆られることがあるだけだったのに。 今なら分かる。あの劫火は、きっと、魔法によるものだった。お粗末なことに、私たちは巨大な魔力を有する人間を得ていても、知識を有する人間はほとんどいなかった。訪れたのはまだ幼い頃のもの大半で、当然知識を持っているものなどいない。外に出ないから知識は増えない。探求しないから深まらない。魔法など、初歩の――それこそ紋章術の初期魔法をやっと――使用できるくらいだった。 けれど変わらない日常が続いていたとしても、確かに妹たちが増えて続けていたとしても。それが、外の世界でも何の変化もないことだということになどならないのだと、ああ、どうして、あの頃は考えも及びつかなかったのだろうか。 ハルモニア神聖国。そこでは相変わらず貧しい人が生まれ、捨てられるものが生まれ、けれど、だから変化がないことにはならないのに。 ここにいる女たちの大半がその国の生まれであり、この村の女たちの大半は、その国の為に故郷を追われたのであった。それは今も尚、この瞬間でさえ、途切れることなく続いていたから。 なんと無様なことだろう。なんと滑稽なことだろう。そんなこと、すっかりと忘れ去ってしまっていたなんて。 なんという皮肉だろう。ハルモニア神聖国の、あの、巨大な集合体の頂点に立つヒクサク。あの新刊兆から最も遠い生まれの私。ハルモニア神聖国の最下層域に生まれ、そこに縋りついていることもできずに振り落とされたもの。 そんな私が! あの建国の英雄と、同列に立つ日が来るだなんて! 同じ、真の紋章の宿主という、異端の存在に――!! それは偶然に過ぎず、やがてそれは運命を紡ぎ出したのだ。所詮、私たちは紋章に踊らされる。あの紋章は、世に出て力を奮いたかったのだ。ただ置いておかれるばかりの日々に、厭いていたのだろう。 私と姉は紋章の安置されている台座の掃除当番で、そんなのは珍しいことでもない。明日の当番は別の人間だが、一週間もすればまた私たちに回ってくる。もう何年も、そうやってきた。 私たちが紋章を持って逃げたのは、他にどうする術も持たなかったからだ。紋章を守ること。それだけが、私たちの中の絶対の戒律として頭の中で木霊していた。 炎に飲まれ焼かれていく村と姉妹たちの悲鳴。逃げる途中で煙に巻かれて視力を失った姉とは異なり、私には目を曝すことも許されない。 嗚咽もなく、ただ何かに涙していた。 あの紋章が私たちを宿主としたのは、他に誰もいなかったからだ。あれらはどこかに行きたがっていた。厭いていた。現状からの脱却を望んでいた。そして、そのためには宿主が必要だった。 結果として、紋章の取った判断は正しい。私も姉も、一つところにはとどまることもできずに、各地を様よ続ける事となる。平穏とはほど遠い。常に、暗く淀んだ諍いが、私の隣に在り続ける。或いはそれさえも、この、真なる紋章という存在の操る結果なのだろうか。 そうかもしれないし、そうであったとしても、構わないと思う。少なくとも私は、自分にこの紋章の真の主になるような器などないこと知っている。 真の紋章を制するとは。真の紋章の真の主となる人間とは、一体、どんなものなのだろう。 そう時をおかず、私と姉は袂を分かった。姉は隠棲を決め、私は未だに彷徨っている。 手を伸ばしても届かぬ、あの真白き光の向こう。 失われた姉妹たちの笑顔。私と血の繋がりのある者たちの姿。平和。 そんなものを、夢に見ながら。彷徨い続けている。――まるで、夢遊病者のように。 「陛下」 私は彼を呼ぶ。私を抱きしめてくれる逞しい男。 もう、忘れてしまおうか。あの悲しみも、この憎しみも、嘆きも、郷愁も、全て――。 けれどそれは無理なことだと知っている。否、許されないことなのだ。 だって、私はもう、幾つもの村を焼き、幾人もの憎しみを受け止めてきた。その憎しみの為にも、彼らの私を見据える瞳の為にも、私には決して、この復讐への歩みを止めることなど、許されはしないのだ。 最後まで悪人出いなくて、どうして、彼らに報いてやれるだろう。少しでも私が善人でいれば、私を憎み、私へ復讐する者たちが、悪役になってしまうのに――。 「陛下」 私は呼ぶ。彼の名を呼ぶ。 謝ることも、愛を囁くこともしない。そんなものなら、この男の名を呼ぶその時に、すべて詰め込んでいるから。 さあ、潰していきなさい。跡形もなく。 かつて、ハルモニア神聖国がアロニア王国を打倒したように。私の村を焼き滅ぼしたように。 そして、私がいくつもの村を焼き滅ぼしたように。 私の愛した何もかもが失われ、けれど、そのために私が生まれたのであれば。こうして、滅ぼす私が生まれたことで、もっと大きな何かが生まれることになったのであれば。 失われたそれらの苦痛も、悲鳴も、何もかも。無駄なことではなかったと、些細なことではなかったのだと、慰められる気がするから。 だから、立ち向かってきなさい。この私に、すべての憎しみを向けて。 そこから、全てを終わらせ、そうして、新しい何かを始めなさい。私にはもう、始めることは不可能だから――。 |
せめて最期には。 何かが生まれるための、何かを担いたかった。 |
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これを書きいて気がついたことがある。私はどうやらウィンディがそんなに嫌いじゃないらしい。むしろ同情してるのかもしれない。だから余計にレックナートが嫌いなのかもしれない。ところでこれ、実は白百合革命の幕間話でした。書いてるうちにだんだんと白百合革命の設定からずれてきたので単一の話として軌道修正。白百合書いてないな〜…。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/10/13_ゆうひ。 |
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