聖ニコライは十年後に再び 

-帰郷の女-


一滴(いってき)の血は世界を救うか否か。誰が問いかけようか。




 群島諸国の北。長い歴史と広大な領土、煌びやかで高い文明を誇る、かの有名な赤月帝国はそこにこそ栄えていた。そこに、金貨一枚で娼婦にされようとしていた娘の救われる話がある。サツナは今、そこで彼女が運命の男と信じて疑わぬ青年と生活を共にしている。
 ある冬の日のことだ。赤月帝国は南に位置する群島諸国とは異なり、雪がちらつくことなど珍しくもない。その日も、夜から静かに粉雪が舞い降り始めていた。

「群島諸国にクールークが侵攻してるらしい」

 顔を顰め、彼女の運命の人は云った。己の同居人――彼はサツナことを恋人とは思ってくれている。しかしそれ以上にただただ「大切な人」であることが先んじているらしかった。どちらであろうとも、彼女にとっては喜ばしいことに変わりない――の故郷がそのような憂き目にあっていることに、純粋に心を痛めているのだ。
 それは彼女の心情を慮ってのことである。彼女の心は喜びに温かさを感じ、しかし彼女の心は己の故郷の現状については何らの感慨も引き起こしはしなかった。
 サツナにとって、故郷は己の生まれ、ある一定期間を過ごした場所にしか過ぎず、知り合いは悉く顔見知りでしかなかった。思い入れのあるものは何一つしてない。――否、一つだけあった。今、前の前にいる「彼」との出会いの地であることだ。
 今でもはっきりを思い出すことができる。しかし、彼女にとってそれはどこだって良かった。

「そう。危なそう?」

 サツナは尋ねた。彼との会話は彼女にとってとても尊いものであった。会話に限らず、彼とのすべてが彼女にとってすべて尊い。
 サツナの問いかけに、テッドは目にしている新聞から得た情報を要点をまとめて伝える。突然のクールークの進行に、群島諸国は各個撃破の様相で、落ちるのも時間問題だと云うのが、客観的な見方のようだった。
 オベルを中心とした一部の島が連合軍としてどうにか奮闘しているようだが、それも戦力でいえば圧倒的に乏しく、烏合の衆としての評価が否めない――とは、何のだかわからないが「専門家」の見解である。
 彼のために淹れた紅茶をテーブルの上に置く。テッドが礼を述べ、それに口をつける。サツナはその「当たり前になった」光景が好きだった。
 ふむと顎に手を当てる。それからおもむろに口を開いた。

「それなら、一度、戻ってみようかな」

 彼女は小首を傾げてみせる。気掛かりに思う存在など何一つありはしなかった。しかし、ほんの少しだけ興味がわいたのだ。
 あの、何に対してものんきで馬鹿ななかりの平和ボケした下、豊かなばかりの島の上に胡坐をかいている人々。サツナは気掛かりに思わぬほどには、それらが嫌いだった。
 だから興味がある。
 命の、尊厳の危機にさらされ、彼らは今、何を思い、何を感じ、どうせざるを得ずにいるのか。少しはまともになっているだろうか。少なくとも、サツナが虫唾を走らせなくなる程度には。
 それは明らかに悪意からくる好奇心だった。人の不幸を嗤う趣味はサツナにはなかったが、どうしようもない者たちが少しはマシになる可能性があるのかどうかには、好奇心が刺激された。
 サツナの言葉にテッドが僅かに心配に眉を顰め、その瞳に不安の色が映る。サツナの心は歓喜と申し訳なさで張り裂けそうになる。なんとこの心の忙しないことだろうか。
 けれどテッドがサツナの決めたことに否を唱えることは滅多にないのだ。独立独尊。なんて彼女のためにあるような言葉であろうか。
 そんな彼女が、テッドにだけはすべてをささげて従うのだ。すべてを抑え込んででも、彼の期待にこたえようとするのだ。すべてを捨ててでも、彼の意に沿おうとする。だから、テッドは滅多なことでは彼女の意見に否やをすることがない。
 ただ一言。

「気をつけて行ってこい」

 彼女が一番欲しい言葉を、テッドは与えるだけのだ。





 正直にいえば、サツナはあまりの期待外れに失望していた。いや、あまりの創造の通り過ぎて失望しているのか。どちらでも構わないが、とにかく失望感にすべてを見捨てて今すぐにでも彼の元へ取って帰ってしまいたかった。彼の、テッドのあの温かな腕に抱きしめられて、この失望に冷え切った身も心も解されてしまいたかった。
 しかしそれは夢の出来事だ。群島と赤月帝国は、飛んで帰るにはあまりにもかけ離れ過ぎていた。そもそも、いかに全能に見えても彼女は飛ぶことはできない。
 彼女は不思議でならなかった。周りの期待に満ちた目もそうだが、それ以上に己に向ける信頼の視線が何より不思議でならなかった。
 だって、彼女にとって彼らは取るに足りない存在なのに。

 いつ見捨てても心は痛まない。彼のもとへ帰ってしまったら、きっと思い出しもしないだろう。
 烏合の衆の一団を、そのカリスマ性でまとめ上げる彼女。類い稀なる剣技と、何に対しても動じぬ胆力。にも拘わらず驕らぬ性質。節制とは彼女のためにあるようだと、その旗のもとに集った誰もが口をそろえた。
 くだらない――と、彼女は思う。
 久方振りに帰った故郷は、人々の脳みその皴加減はそのままに、考え方が百八十度ひっくり返っていた。
 領主であるフィンガーフート家は、その保身のためにどの島よりも先んじて、クールークへと膝を折ったためだ。
 その事実を知った時、彼女は生まれて初めて、己の主であり、幼馴染であった底の嫡男――スノウ――に対して、驚きを抱いた。侮蔑によるためではない。彼女が侮りきっていたその少年は、彼は未だに知らぬことであるが、そのとき、初めて彼女に感心されるに足ることができたのである。
 売国奴――。そのレッテルを浴びせられているのが、群島におけるスノウの一般的な評価であった。しかし、群島出身者であってサツナだけが彼の行為を優れた姿勢者の判断であると評価した。だからこそ、彼が丸太で漂流しているのを発見した際には、反対する大勢を一刀両断にして仲間に引き入れたのだ。
 甘やかされて育ったボンボンである。だが、心底から腐っているわけではないと知ることができなかったならば、サツナはスノウのことを助けたかどうか怪しかっただろう。
 甘やかされて育っただけで、スノウという少年は、或いはフィンガーフート家の人間は、そこそこに施政者たる資質がある。サツナは彼らへの評価を改めるととに、自分の傲慢をほんの少しだけ反省した。
 人は、どうにもならぬ状況に立たされて、初めて己の実力を引き出せるのか。
 絶対に勝てない相手だ。クールークと群島諸国。その国力差は明らかだった。
 戦えば群島の人々は駆逐されるかもしれない。しかし戦わずに降参すれば――クールークは非情ではないし、野蛮でもない。
 降伏したフィンガーフート家の地位はどうなるかわかったものではないが、領地が焦土になる可能性も、領民に被害が出る可能性もなくなるだろう。徹底抗戦とは血の道を進む覚悟であると同時に、あらゆる犠牲を出してでも簡単には負けたくないというだけの開き直りだ。
 現実を受け止めることができないものに、施政者としての資格はない。それはサツナの自論である。けれどサツナは人の示す道に沿うような性質はなので、そうであろうとなかろうと、彼女が世を生きていくのに困難になることなどないだろう。
 彼女は傲慢であった。けれど彼女は他の人間が彼女と同じように生きていくことなどできないことを知っていた。
 誰かに傅かずには生きられない弱い人間がいる。卑屈にならざるを得ない人間がいる。だから、彼女はそう云った人間に嫌悪感を抱かない。
 彼女が嫌悪感を抱くのは、己のことしか考えられない人間だ。それは彼女のように、ではない。それは彼女のように、自分一人でしかおらぬ故になのではなく、己の判断がその他大勢の人生を左右すると知っていて、或いはそうなりゆくことを当然と考えて、己の思うままにする者に対してである。
 彼女は大嫌いだった。
 だから、彼女は敵さえ味方に勧誘した。ほんの少しだけ、クールークという国から群島に学べという思いがなかったといえば嘘になるだろう。
 彼女は考える。勧誘したヘルムートをしても、十分にその国の成熟さを知ることができた。
 血の代わりに求めているものがあり、なれど過ぎる血に飢えているわけではない。敵に対して甘くはないが、降参したものに鞭を打つような無知でもない。
 節度ある戦争――。
 ふと、彼女の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 流した血の量など、戦いの前には無意味なのかもしれない。流れた血の量も、降り積もった死灰の高さも、吹く風に紛れる腐敗の濃厚さも。そして、空気を圧するほどの熱量も。
 剣を下げる彼女の姿は、群島の人間にはさぞ軌跡をもたらす戦女神にでも映るのだろう。そして、敵に対しては海から突如として現れた悪魔にでも映っていることだろう。
 そういえば、ヘルムートが云っていた。

「まさか、群島のリヴァイアタンが、実はティアマトだったとはな」

 ――勝てないわけだ。
 それは嘲りでも驚きでもなく、ただ思ったことをふと零したという風であった。

 彼女の剣技は優れていた。卓越している。これは彼女の才能であった。
 彼女のそれは裏通りでまず培われた。そして運命の男を探す道すがらでさらに磨かれた。彼女の容姿は優れていたが、彼女自身がそれに頓着することはなかった。彼女は常に少女の身で一人旅を続けていたが、暗い夜道も森の中であっても。獣道や、獣さえ避けるような盗賊道にさえも平気で足を踏み入れた。だから、善からぬ考えを持つ集団に襲われるのに事欠かなかった。
 だから、戦禍に見舞われた故郷へ帰郷することにも苦はなかった。恐怖も困難も。それは彼の元へと変えるにしても同様のことがいえた。
 存亡、或いは生死の極限状況に追い込まれ、それでも尚進歩のかけらも見せない故郷の底抜けの浅さを目の当たりにし、サツナは確かに失望したのだから。さっさと帰って、彼女はそんなことを抱いたことさえ忘れて交付を味わいたかったし、そうすればよかったのだ。
 スパイ容疑で石牢に捕らわれたところで、彼女はとっとと道を開いて歩むことができたのだから。それだけ、彼女は何に対しても強い存在であった。
 心も、思考も、能力も。
 一つだけ、彼女が弱いものが、彼女の運命の男。
 だから、本来であれば、こんなふうに船団を率いて故郷のために戦う必要などないのだ。スパイ容疑を晴らすため――そんな機会など、彼女には不要だった。
 けれどそんな彼女の脳裏に閃いたものが一つ。
 それは群島にとっては幸いで、クールークにとっては不幸を齎した。
 もしかして、彼女の故郷が酷いことになったら、彼女の愛する彼は悲しむかもしれない。心を痛めるかもしれない。
 彼の心が苛まれる。
 サツナにとって、それは何よりも許しがたいことであった。
 しかしここで彼女にとっての困難が生じた。ひとつ、彼女には故郷を助ける気が皆無であること。ひとつ、彼女が戦争に巻き込まれたと知れれば、彼の心はまた苛まれるだろうこと。ひとつ、群島には彼女を除けばクールークに勝てそうな要因が全く見当たらないこと。
 そこで彼女は己の素性と身分を徹底的に隠してクールークを倒さねばならくなった。
 結果。数年後、群島とクールークの間に起こったこの戦争に纏わる神話が生まれるが、彼女がそれを知ることは生涯なかった。
 目的を達し、彼女が故郷を去り、二度とそれらを思い出す機会に恵まれなかったからだった。知ることがあったなら、彼女は彼女にはありえぬほどに、爆笑したか、嘲りの極致に至ったか、あるいは今度は彼女が群島を滅ぼす存在になっただろう。
 彼女がそれを知らずに生涯を送る。それが彼女にとっての幸か不幸かはさておき、少なくとも、群島に生きる人々の未来を繋げたことは確かであった。





 その女神はあまりに慈悲深く、わずかに一滴の血を流させて敵を退けた。振り上げた双振りの剣(つるぎ)で切られたものは傷を負うことはなく、瞳より流れる一滴の己が血を感じてただその罪深さを自覚し許しを乞うために膝を屈し、頭(こうべ)を下げた。
 償いを求めるものには許しを与え、女神の一軍へと参加することを許された。
 女神は海神の直系であり、海とともに生きる群島の人々を守り、海神の申し子を偽る敵の頭領を叩くために海神より直々に使わされた。その証拠に、女神の双眸は海底のもっとも深いところにある、海神の宮殿の青であった。
 女神は海より立ち上る嵐の中より現れ、群島の敵を滅ぼした後は、群島でもっとも偉大な一人の男に王冠を授け去って行った。それが、群島諸国連合の始まりである。





 周囲は剣戟と雄叫びと悲鳴に囲まれていた。ここをなんと云ったか。――イルヤ島。
 一滴(ひとしずく)の血が彼女の頬に跳ねた。砂利ででもあれば跳ね返ってくれただろうに――。
 彼女は僅かに眉を顰める。血は一筋、一本の縦線を描いて彼女の頬を流れ、彼女はその頃にはすっかりそんな返り血のことなど意識の外へ追いやっていた。
 これで漸く、彼のもとへ帰れるのだ。そのことにばかり意識が向き、心が僅かに浮き足立つのがはっきりと自覚できた。



受けた返り血は一滴(ひとしずく)。血の海に佇む私を見て、誰かが救世主(メシア)と祈りを捧げた。





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 一年振り。十年振りよりは早いよ。サイト更新自体も一ヶ月振り。超スローペースでごめんなさい。ただでさえ忙しいのに父が年賀状印刷してくれとかぬかしやがった(怒)。二日間の合計睡眠時間が3時間て、私は何をやっていんだろう。記憶がない。そんな感じの日々を過ごしています。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2008/12/24_ゆうひ。
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