対面の章
初めてその姿を見たとき、すぐに気がついた。 もう三百年ほども昔の、おぼろげな記憶がクリアになる。 彼に、出会ったことがある。 生と死の紋章を宿した彼に、三百年も前に。 ああ、この右手の紋章は、彼に託されるのだ。 初めて出会ったときに感じた、それは確信だった。 「レイさーん」 遠くから響く元気のいい声に、レイ・マクドールは面(おもて)をそちらへと向けた。草原に風が吹き、緑の草頭を揺らすと共に、彼の漆黒の髪に乗せられた緑色のバンダナもまた揺れていた。結び目の先のさり気なく色違いにされた紫が、青い空の上に鮮やかに写る。 陽光(ようこう)がきらきらと反射する中で、レイの視線の先には声から予測された期待を裏切らない元気な姿が、片手を高く掲げ振りながら駆けてきていた。 その姿にレイは瞳を眇める。日の光りの眩しさ以上に、駆けてくる彼の輝きを眩しく感じた。 「どうしたんだい、ホノカ」 よほど急いで駆けてきたのだろうか。まだ息を弾ませている少年に、レイは声を掛ける。共に赤い衣装に身を包んだその姿は、遠目にすれば兄弟に見えたかもしれない。 実際は生まれも、育ちもまったく異にする赤の他人である。しかし、二人はそんなものはまったく些細としてしまう大きな星の下(もと)に運命付けられた者同士であった。 「はぁ、はぁ…。…いえ、特に用事はないんです。ただ、レイさんが訊ねてきてくれてるって聞いたので」 ホノカは息を整えてから、微かに笑みを作り云った。日に焼けた健康的な肌に、朝露のように形の美しい汗が浮いている。初夏の陽気を涼しい風が駆け抜け、火照った彼の頬を撫でていた。 まだ幼くあどけなさの残るこの少年こそが、現在ハイランド皇国と戦争状態にある都市同盟軍のリーダーを勤めている。彼の手袋の下に隠れた右手には、輝く盾の紋章が白い光を放っているはずだった。 ホノカよりも背の高いレイは、そんなホノカにやはり笑みを向けてその頭を撫でてやる。茶色の髪がふわりとしたやわらかな感触をレイに与えてきた。 「このままだと体が冷えてしまうよ」 「大丈夫ですよ。少し前は、いつも鍛錬をして汗をかいていましたから」 「それでも、今の君は人の上に立ち、率いる立場にいるんだから。あまり、誰かに心配を掛ける行為は褒められたものではないよ」 「……はい」 しゅん、と。まるで子犬が叱られて耳を垂れてしまったような姿に、レイは小さく笑いを零しながら、その背を押してやる。 ホノカは捨て子で正確な年齢はわからなかったが、おそらくまだ14、15歳ほどだろうと考えられている。外見年齢でいえば、真の27の紋章の一つ、生と死の紋章――ソウルイーターを継承した頃より歳を取ることのなくなったレイとは二、三歳の差となるが、実年齢でいえばすでに七つから八つの歳の差が生じる。レイからすれば本当に子供と感じられるホノカだが、レイはその少年に心を救われた。 おそらくホノカの方はそんなこと思っていもいないだろう。むしろデュナンの南に位置するトラン共和国建国の英雄であるレイが自分に力を貸してくれることに、心苦しいまでの感謝を感じているはずだ。 それを知っていて、けれどレイは言葉を尽くして何を説明しようとは思わなかった。 一度、彼はホノカへ対して感謝の言葉を述べたことがある。そのときにほんの少しだけ話はしたが、レイとホノカの考え方はその点についてのみは決して重なることも、譲歩することもないとはっきりしたから、別にお互いがお互いのことを大切に、優しく思うことさえ分かっていられればそれでいいと思っている。 もっとも、それでさえ実は微妙なところであるのだが。あとはもう態度を貫き通すしかないと感じている。 ホノカがレイの協力を「なぜ」と疑問に思っていることは、きっと、ホノカには理解できないことだとレイは悟ってしまったし、だからといって、レイがホノカに感謝の気持ちを抱いていて、好意を持ってその助けになりたいと思う気持ちを覆すことなどできないのだから。赤月帝国建国以来将軍職を排出し続けた名門、マクドール家の嫡子として生を受け、何不自由なく生活してきた彼は、基本的に自分の行動が制限されることを好まないし、ホノカに何もしてあげることができないのではレイ自信の気が治まらない。 「あれ、あの人、誰でしょう?」 ホノカが指で示した。アサキ城へ向けての道を二人で歩いていると、その前方に見慣れぬ人影が現れ、行く手を塞いでいたのだ。 見た感じからすればレイよりも年下でホノカよりも年上といった感じだろうか。頭からすっぽりと旅用の外套を被りその全身を覆ってしまっているため、性別さえ定かではない。ただ腰の辺りから僅かに覗く剣の鞘は、間違いなく長く使い込まれていることだけが、自らもまたすぐれた武術家である二人には明らかであるだけだった。 「……はじめまして」 男とも女ともつかない声だった。陽射しを避けるためだろう。頭から被っていた外套を背中へと払って現れたのは、意志の強さを深奥に宿した空の色とも、湖の蒼さとも似つかぬ色をした瞳と、流れるように揺れる淡い色の髪の――少年だ。 外套を避ける僅かな動作にさえ隙のないそれに、レイとホノカの警戒は強まる。 「どっちが、レイ・マクドール?」 少年の言葉に二人は素早く武器を構えた。油断なく少年を見つめる二人に、けれど少年は動じた様子もない。 感情の読み取れない表情で、淡々と語る。 「レイ…マクドールであってたと思うんだけど……。名前が間違っているなら…――ソウルイーターの所有者。こう云えば、確実だと思うんだけど…」 この言葉により反応したのはレイの方だった。緑の草を蹴り上げて少年の首元に漆黒の棍をあてる。目にも止まらぬ速さとはこのことをいうのだろうという速度だ。その勢いで生まれた風で少年の髪が微かだが揺れた。 しかし少年はやはり動じる気配も見せず、彼自身の得物であるだろう剣を抜く気配はもちろん、手に掛ける素振りすら見せない。 しばらくレイと少年の無言の睨み合いが続いた。ホノカは二人の間に入り込むこともできずに、ただ武器を構えたまま二人の様子を見守るしかない。 先に口を開いたのはレイだった。 「何者だ。なぜ紋章のことを知っている」 普段の彼からは想像もつかない、低く、重々しい声だった。 しばらくの間をおいて、少年は口を開いた。逡巡したとは思えない。何を考えているのかがまったく読み取れないその少年は、臆することなくレイの視線を真正面から受け止め、また少年自信もレイのことをしっかりと見据えていた。 レイの棍は相変わらず少年の首元に定められており、いつでもその骨を砕く用意ができている。 しかし――これはもう予想に違わぬことではあったが――少年の声に動揺は欠片も見えなかった。 「……名前はサツナ。僕もまた、真の紋章を持っている」 「「!」」 サツカと名乗った少年の言葉に、レイとホノカの二人は身をふるわせた。二人の注目が自らに向いているのを感じながら、サツカは気負いもなく両手を持ち上げる。右手で左手のグローブを取ると、そこには黒曜に輝く渦を描いた紋章が鎮座していた。 「それは…?」 レイが眉を顰めて訊ねる。紋章から滲み出る雰囲気は誰よりも感じ取ることができる。間違いなくそれが真の紋章であることを、二人にそれぞれ宿った真の紋章が教えていた。 不思議なのは、そうと見せられるまでそれを感じることができなかったことだ。特にホノカの輝く盾の紋章は創世の物語にもなぞらえられる始まりの紋章の片割れで、二つの相に割れても尚、他の紋章の――特に真の紋章の気配には敏感だ。 「これは罰の紋章。27の真の紋章の一つで…償いと許しを司る――呪いの紋章だ」 「呪いの?」 「そう。この紋章は、宿主に強大な力を与える代わりに、その力を使うたびにその命を削っていく。やがて宿主が死ぬと、付近にいる人間に無差別に取り付き、宿主を変えていく。だから…紋章の継承者は自然、孤独へと向かっていく……」 「孤独…」 レイは呟いた。真の紋章は宿主に不老の呪いをかける故に、孤独をもたらす。しかしそれ以上に継承者を孤独へと誘う性質を持った、まさに「呪いの」紋章と呼ばれる紋章を、レイもまた、親友から継承していた。 それはサツナの語ったのとは似て異にする、まるで対のような紋章だ。彼のソウルイーターは、強大な力の代償として、宿主の身近なものに呪いをかけその命を喰らっていく。 「あなたが真の紋章を持っていることは疑いません。けれど、あなたがなぜ僕たちに接触してきたのか。その理由が明らかになるまでは、あなたを信用することはできません」 考え込むように黙ってしまったレイに代わって口を開いたのはホノカだった。凛とした清涼な声はよく響き、子供らしい幾分高めの声にもかかわらず威厳をまとわせている。さすがは都市同盟軍のリーダーとして、数多の猛者どもをまとめあげているだけのことはあると、彼が決して飾りだけのリーダーであることを認めざるを得ないその姿。 サツナはそれでもやはり臆した様子は見せず、かといって気分を害した様子も見せずに口を開いた。相変わらず表情は動かず、その声も淡々と、言葉は義務のように響いていた。 「別に、ハルモニア神聖国のように真の紋章を集めてるわけじゃない」 「ではなぜ、僕たちに接触を図ってきたんですか」 「用があったのはソウルイーターの所持者だけ。かつて、……かつて、テッドさんからその紋章を継承した……」 「テッドを知っているのか?!」 レイが口を挟んだ。サツナの肩を勢いをつけて掴むと、揺すらんばかりに詰め寄る。 「テッド」の名を出したその瞬間だけ、僅かにサツナと名乗った少年の表情が崩れたのに気がついたのは、ホノカだけだった。それも、レイが普段は見せないほどに慌てた姿を晒したことへの驚きに、何を思う前に忘れ去られてしまったが。 サツナは一応、レイへと視線を向けて答えた。 「知ってる。今からおよそ150年前に、彼に助けてもらった」 「150年…」 「まだ赤月帝国が健在で…、そのさらに南、クールーク皇国と群島諸国との間に諍いが起こったときのことだ。僕は群島諸国連合を率い、彼は僕らの勢力に力を貸してくれた。戦争が終わって、僕の都合で僕と彼は別の道をいって、でも、彼は僕が追いついてくるのを待っててくれるって云ってくれた。だから、追いかけた。追いついたと思ったら、君に、ソウルイーターが継承されていた」 「……」 決して感情の読み取れないその表情に、その瞳に、あるいは強い憎しみが浮かんだかもしれない。 レイは始めて耳にする今は亡き親友の思い出に、言葉もなく佇むばかりだ。サツナの肩に置かれた両の手はそのまま。ホノカから見えたレイの背中は、微かに震えたようにも感じられた。 しかしそのことには一切言及せずに、サツナは自分の用件だけを語る。ただ正面を見て、まっすぐに。そこにはレイの姿も、ホノカの姿も写ってはいない。ただ空の先にある覚悟と決意だけを、見据えている。 「だから、テッドさんをソウルイーターから連れ戻す」 サツナの口から放たれたそれは、耳を疑うものだった。あまりにも意外すぎて、言葉の意味が飲み込めない。 どう返していいのかもわからず、どう返すこともできずにいるレイの手を、サツナはそっと手を添えることで自分の方から外させた。腰の方に手をやり、何かをその手に握り締めて、レイとホノカの方へと差し出す。 ホノカは慌ててそれを覗き込んだ。そこから、彼の右手を疼かせる気配が立ち上ってきたからだ。 「これは…」 それは二つの封印球だった。一つはレックナートが宿していたものと同じ。門の紋章だ。もう一つは……。 「覇王の紋章。バルバロッサの遺体のが握っていた竜王剣に封印されていたのを拾った。門の紋章も同じだ」 「どうして…。だって、バルバロッサもウィンディも、遺体も見つからずに行方知れずだったのに」 「遺体は湖の底に沈めた。必要なら探せばいい」 「……いや、その必要はない」 レイは静かに首を横に振った。バルバロッサもウィンディも、生きていてはトラン共和国にとって仇為す油断のならない存在だからこそ、その身を確保する必要があった抱けだのことだ。その死が確実であるのならば、それ以上その存在を追う必要はない。 「あの…」 ホノカが遠慮がちに口を挟んだ。どうやらことは彼とは関係のないところにあることが明らかになり始めたため、自分が関わってもいいのかと考えたのだろう。 もとよりそんなこと気にしていない――なぜなら彼にとってレイもホノカも同じようなものだ――サツナは無言で言葉の続きを促した。 「テッド…さんって、レイさんの親友だった方、なんですよね。ソウルイーターの前の所有者で、ソウルイーターに自らを喰わせたと、聞きました」 「……」 「その覇王の紋章と門の紋章で、どうやって……。本当に、そんなことが可能なんですか?」 あくまでも訊ねられたことにしか答えないつもりなのだろうか。じっと無言で促してくるサツカの視線を受けながらホノカは訊ねた。 レイとホノカの視線がサツナに集中する中で、サツナは頷いた。その動作にもやはり迷いは見受けられない。 「覇王の紋章は僕を継承者とは認めなかった。門の紋章も同じだ。それでも、今は野放しにあるこの二つを利用するくらいならできる。幸い、この門の紋章は表――出口の相だ。覇王の紋章で一時的にソウルイーターを封じ込めて、門の紋章で外への出口を作る」 サツカの声は自信に満ちていた。ホノカの隣で――緊張のためだろう――レイが咽をならす音が響き、ホノカは視線だけをそちらへと向けた。 レイが緊張している。いつもなら決して起こりえぬことだが、今のレイからはホノカの存在がすっぽりと抜けてしまっているかのようだ。 別にホノカはレイがいつも自分のことを気に掛けてくれているという自惚れはなかったが、それでも今までにない経験に、微かに胸に痛みを感じる。無意識は常に、大好きなレイが自分のことを優しく見守ってくれているその視線に確実に気づいていたからだろうか。 「本当に、可能なのか。そんなことが、本当に…?」 レイの声は明らかに震えていた。レイは自分の口の中から水分が減り、べたつくのを感じていた。 それは本当に可能なのか。疑いながらも、今すぐにでも試してくれと詰め寄りそうになっている自分自身を、必死の思いで抑えつけていた。 「可能だ。出口を開いただけでは、テッドさんが見つけられない可能性もあるから、レックナートにも協力させる。彼女にソウルイーターへの入り口を開かせて、僕が直接テッドさんを探しに行く。そして、出口まで導く」 「レックナートさんが協力を?」 よく協力を申し出たものだ。そんなニュアンスと共に思わず声にしたのはホノカだった。 レックナート。彼女は赤月帝国宮廷魔術師ウィンディの実の妹に当たる。しかし、ウィンディとは逆に争いを避け、魔術師の島の塔に引き篭もり、真の紋章の動向を見守っているという。 真の紋章がこの世に現れ、世界のバランスを崩したときに、その渦中にいる人間を導く彼女は、バランスの執行者、あるいは傍観者として知る人ぞ知る存在であった。 ただの傍観者であることに徹底する彼女が直接力を貸すと聞き、本当に、何を意図することもなく思わず漏れてしまっただけのホノカの台詞であったが、その台詞は予想以上の効力を相手にもたらしたらしい。それまで感情らしい感情をはっきりと見せることのなかったサツナが、初めてそれらしい「怒り」を見せたのだ。 サツカは拳を握り締める。その手の動きに導かれるように視線を移したレイとホノカは、サツカの全身が小刻みに震えているのを確認した。 「…当たり前だ。レックナート、あの女、…あの女にも、責任の一端はあるんだから。ただ見届けるだけしかしないというのなら、初めから姿など表さなければいいものを…。中途半端に姿を表し、手を貸すくらいなら、あの女はウィンディを止めるべきだったんだ!」 彼女は星を通して過去も未来も見つめている。 「あの女の妹がテッドさんの村を襲ったのにっ。テッドさんがどれほどの苦しみと嘆きを抱えて、あの霧の船に身を寄せたか見ていたくせに!……何も知らない振りをして、けっきょく彼の最後まで手を出さないで…。手を出さないくせに…――偉そうに、役にも立たない言葉を云うために姿を表して……」 高みを見物を決め込むなんて、何様のつもりだと。レックナートをそうなじるサツナの言葉は、最後には項垂れていた。 どんなに憤ったところでどうにもならないことを、彼こそがもっともよく知っていたのだ。 彼は一度だけ、何かを諦めたように、あるいは高ぶった己の感情を鎮めるために、息をついた。 「ふぅ…。別に、それはもうどうでもいいんだ。僕が今日、君達の前に現れたのは、準備が整ったから。別に協力してくれなくてもいい。協力なんてしてくれなくても、ソウルイーターの所有者は力づくでも連れて行くから」 サツナはレイとホノカをまっすぐに見据えた。それまでも充分に力強い眼差しであったが、今度のそれはそれまでの比ではない。 まるで蛇に蛙が睨まれているようだ。それまでおとなしくしていた狼が、狩りのために立ち上がったのだ。 けれどレイとホノカとて同じくらいの鋭い視線を持っている。まして、彼らには――レイには、サツナに協力しない理由こそがない。 今度はレイが、臆することなくサツナに向かい合う番だった。元より切望していたのはレイとて同じことだ。そのための覚悟ならばすぐにでも決まる。 対面しあった彼らの間には無言の応酬が交わされ、レイが肯定の返事をした。 「ならば行こう」 「…行き先は?」 「決まっている」 そして、彼の出した答えもまた、簡潔な一言だった。 「魔術師の島――レックナートの元だ」 サツナは踵を返す。青い空と緑の草原に鼠色の外套が広がり、歩き出した彼が口にしたとき、その声はもう完全にまったくの感情を消し去った、淡々としたそれに戻っていた。 |
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テッド復活こじつけ話第一話です。元々は三部作になどならず、次の「復活の章」が一話のみで完結したものになる予定でした…。何があってこんなに伸びたのか…。4以降の世界でテッドを扱うにあたってまずは基本だろうと思われたのでここから。この話は時間が掛かりました。この章だけで12時間は軽く越えてます。丸一日以上掛けてます。特に最後の4〜5行部分は試行錯誤の繰り返し。それでもいつもよりは全然納得のいくものになったので…ちょっと長いのですが読んでいただけたら嬉しいです。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/10/04_ゆうひ 2005/11/03...修正(あまりにもサツナがテッドのことを呼び捨てにしている場面が目立ったので…)。 |
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