序章
「お前も一緒に…!」 ――バルバロッサ・ルーグナー。赤月帝国最後の皇帝。宮廷魔術師にして、門の紋章、表の相の継承者であるウィンディを連れ、塔の上から墜落死した。 その遺体も、覇王の紋章を宿らせたとされる竜王剣も魔女とその紋章と共に行方知れずとなる。 暗闇に一人の青年が姿を表した。外套に隠れてその姿は窺えず、闇に隠れてその面立ちもまた明確ではない。ただ青い瞳の色だけがかろうじて窺い知ることができた。 青年――あるいは少年は視線だけを下げて見下ろしていた。 それは男女の遺体だ。高いところから落ちてきたのだろう。男の腕は女の首をしっかりと捉えており、女はその腕に手を掛けたまま絶命している。 不思議なことに、女の遺体からは黒い霧のようなものが立ち上っているように見えた。 少年――あるいは青年はしばらく見下ろし続け、それからおもむろに膝を折り屈み込んだ。再び膝を伸ばし状態を起き上げた彼の右手には、淡く光る二つの球体。この世界ではあまりにもあたりまえに存在する紋章。それを封じ込めた「封印球」にも似ている。 女の遺体はそのすぐ後に、塵のようになって消えた。風に乗って流れていく黒い塵たち。 しかし少年はそれを目にしてもまったく驚くこともなく、隣に残された男の遺体を、握り締められた剣ごと川の底へ沈める。少年は踵を返した。 上流へと迎えばトラン湖に辿りつく。その中州にはトランの古城とも呼ばれる城があり、現在はトラン解放軍と名乗る集団の本拠地となっていた。 下流へと向かえば赤月帝国とは古くから敵対関係にあるジョウストン都市同盟とその北、ハイランド王国に入る海へと出る。赤月帝国とは現在交流はなく、ジョウストン都市同盟とハイランド王国は常に緊張状態にあるらしかった。 道は限りなく伸び、方向は無限に存在する。しかし青年は伸びる道のいずれも選び取らなかったようだ。 不思議な光が少年を包み込む。淡く発光するその光に照らされて、空間に溶け込むかのように少年の姿が消える。 少年が背を向けたそこには、かつて栄華を極めた赤月帝国の象徴。グレッグミンスター城の高い城壁が聳え、遥か頭上からは激しい崩壊の序曲が轟き始めている。 それらすべてを意に介さず、少年は何処(いずこ)かへと足を向け、姿を消したのだった。 赤月帝国の首都グレッグミンスターの北東、トラン湖から流れて出ている川の終着点と、海の始まりの交じり合う境付近に、魔術師の島と呼ばれる小さな孤島が存在してる。赤月帝国側からは船が出ておらず、魔術師の島の西――ジョウストン都市同盟への入り口の東であり、ハイランド王国の南には、険しい山脈が連なり、空を飛ぶすべでもなければ辿りつけぬ孤島だ。 そこには魔術師の塔と通称される建物が一つ聳え立ち、盲目の魔女がただ一人、息を潜めて隠棲生活を送っていた。占星術を操る彼女への取次ぎ役として、まだ若い少年を見たという噂もあるが、定かではない。 青いクリスタルが輝いているような外観のその塔の前に、一人の少年が突如として現れたのは、トラン解放軍が赤月帝国を打ち破って最初に迎えた朝のことだった。時刻はまだ早朝。島一帯を覆いつくしているかのように濃い霧が立ち込めていた。 少年は声をかけることも、躊躇うこともなく、無遠慮に塔の内部へと足を運んでいく。塔の頂上付近まで迷うことなく上り、大きな扉の前でさえ足を止めなかった。 腕を前に押し出し扉を開く。広く開かれたホールのような空間に、一人の女性が佇んでいた。 少年が漸く足を止めたのは、女性と向かい合う位置に立ってからだ。少年と女性との距離は、遠くはあっても決して近いとはいえなかないものだった。 「久しぶりだな、レックナート」 少年の声が響いた。思いのほか張りのあるその声は堂々とした風格を備えている。少年が外套を頭上から取り去ると、そこには薄い金色に輝く髪と、強い意思を湛えた水色の瞳が現れた。 美しい面立ちのその少年はどこか中世的な雰囲気をまとわせているのに、その表情は動く気配を見せない。ただ微かに、怒りと憎悪がその瞳の奥底に見て取れた。 「サツナ…」 どこかぼやけた、かくそくのない声音が女性の口の動きにあわせて響く。彼女こそが、この塔の主――レックナートだ。 「覚えていたのか。『彼』のことも、覚えている?」 「……ソウルイーターは継承されました。彼の親友――トラン解放軍のリーダー、レイ・マクドールへと」 「そんなことは知っている。あなたがそれ以前から彼らのことを知っていたことも。ウィンディが宮廷魔術師としてバルバロッサ・ルーグナーの隣にいることを知っていたことも。彼はあの女から隠れていた。あの女は彼を――彼の紋章を狙っていた。憎悪に狂っていた。レックナート、あなたはすべて知っていた。そして、このままでは彼とあの女が出会うことも、あなたは知っていたはずだ」 「知っていて、私に何ができましたか」 「そうだな。あなたにはできない。怒りに狂った妹を諭すことも、止めることも。あなたには何もできない。けれど、僕は知っている。あなたの命が、僕にとって、彼とは比べようもなく軽いことを」 「……」 「あなたは何もできないんじゃない。何も、しないだけだ」 「…私に、何をしろというのですか」 レックナートが云い、少年は右腕を差し出した。その手には二つの封印球が収められている。少年が魔術師の塔へ来る以前に、男と女の痛いから回収した封印球だ。 「それは?」 「覇王の紋章と…あなたにならわかるでしょう。あなたが宿す紋章の、もう一つの相」 「ウィンディの…門の紋章、ですね。けれど、それで何ができますか。真の紋章が万能ではないことを、あなたは誰よりも知っているはずです」 「そうだな。確かに、こんなものがあったところで、何もできはしない。この紋章は僕にどうにかできるものではない」 「真の紋章が自ら動き出すまで、私が預ってもかまいません」 「おまえに委ねるくらいなら、ハルモニアに渡した方がマシだ。今の僕の心は、かつて、あの強大な大海でただ一人、無謀にも鉄の左腕を振るっていた男のそれに酷似している」 「ではどうしますか。あなたの宿す紋章は、あなたが新たに手にしたその二つの紋章よりも、ずっと容易く世界を焦土に変える力を持っています」 「世界の焦土など意味がない。彼がいない世界が燃え尽きたところで、僕には何の意味もない」 少年の瞳がゆるく付せられる。長い睫が影を作り、表情のない彼の顔に憂いを描き出していた。 「あの日、僕がラズリルに戻り、彼は旅立った」 それは古く、そして何よりも鮮明な記憶だった。まだ海上で揺れる船の上、少年は彼と一緒にいたいと必死に頼み込んだのだ。つい先方(さきがた)ばかりに沈められたクールーク艦の残骸が、ところどころに浮いていた。空には星がきらめきを発し、船内から聞こえてくるざわめきにはやがて離れていく仲間たち各々の寂寥が紛れ込んでいた。 すでにこの船を人知れず後にしたものもいるだろう。止める必要などないし、むしろそういった者たちの心情の方こそが少年には近しく感じられるものだった。 暗い影が寄り添っているだけと成り果てた彼らはの声を聞くものは、互い以外には誰もいない。船は元の持ち主――もっとも、初めから最後までそのものの持ち物であり続けたのが事実であはあるが――へと返却され、暗い海上を一路、南へと進路をとって進んでいる。 そこはこの巨大船が生まれ、胎動した腹だ。そこへ帰り着けば、本当に、何もかもが終わるのだ。 残された時間はあまりにも短く、彼は滅多に移ろうことのない顔を歪めて縋る少年に、無常にも首を振り続ける。何故と問う少年に、彼は静かに一言、伝えたのだった。 「彼は僕に云った。おまえはこの戦争を最後まで見届けろと。けれど僕は彼がそれまでこの地にいてくれる保証などないことを知っていた」 少年は面(おもて)を上げた。その瞳は未だ、懐かしく切ない遠い日の過去の情景を見つめているかのようだった。 「そうしたら、彼は待っていると。そう、云ってくれたんだ。あの彼が、僕が追いついてくるのを、いつまでも待っていてくれるって…」 もはやそれはレックナートに聞かせる言葉などではなかった。ただ少年が自らのあふれる思い出に浸っているだけのものだ。咲き誇る華よりも甘い夢に浸っている。 「僕はちゃんと見届けた。あのどうでもいい日々を終わらせるために。彼を思う150年は幸福だった。そして、彼が僕の一歩手前で亡くなっていくのを見たあの日の絶望は、決して忘れない」 少年がレックナート見据える瞳は、ひたすらにまっすぐで、強い力を宿しているようだった。それが、そらくは少年の胸の奥に燻ぶる激情の一端なのだろう。 いくつもの国をまわり、いくつもの都市を訊ねた日々。森で野宿をした日々でさえ、彼が自分を思ってくれていることを心に描くだけで幸せに浸ることができた。 優しく抱く腕を思い出し、それが一日でも早く現実になることを夢見て眠る日々。いくつもの夜といくつもの朝、流れる雲を越えて、少年がグレッグミンスターへ辿り着いたのは、少年から見れば、つい先日のことだった。 グレッグミンスターに足を踏み入れて感じたのは、懐かしき、優しい彼の魔力と、あの禍々しい『彼の』紋章の発動する力だ。かつて少年自身が幾度助けられた、強大な呪いの力。 「けれどそこに別の魔力があった。そして消えていく彼の魔力。人々の話を聞き、やがてトラン湖に佇む古城へと辿り着いた」 その城は腐った赤月帝国からトランを解放しようと戦うものたちが集っていた。そして、そのリーダーの右手には『真の紋章』が宿っていると。 そこで聞いたことは、少年にはとうてい信じれるものではなかった。 「だって、彼の魔力は数多(あまた)の紋章を支配する強大なものだったから。それが、あんなにも脆弱な魔力の持ち主へと委譲されるなんて…」 その瞬間から、再び世界は少年とって意味を持たないものへと帰参した。 少年は糾弾する。かつて、己に死刑宣告を下した濡れ衣――嘆きと怒りに目を晦まし、愚かにも冷静さを失った眼(まなこ)で下された裁き――へさえ、一抹の感情さえ見せなかった彼が。 「レックナート、何もしなかったおまえの罪は、いったいどれほどのものなのだろう」 「私には自らの罪の深さを測る術(すべ)はありません。それを償う術も同じこと……」 「ならばただ力を貸せ」 「…何をするというのですか」 「三年後にまた訊ねる。三年後、二つの紋章は僕に従う。あなたはただ扉を開けばいい。そして、覇王の紋章は彼を選ぶ。彼にはその器があるから」 彼のことを語る少年の表情は、実に多彩だ。喜びも怒りも憎しみも、少年が感情を見せるときはすべて『彼』について口にするときに限られている。 けれどレックナートにはそれを正しく受け止める術はない。永遠に瞳を閉ざし続ける彼女には、永久に、少年の――世界さえ凌駕する――強さを正確にとらえることはできない。 少年は踵を返した。もう話すことはないとでも云うかのように。 事実、少年はこの場にも、レックナートにも、もはや用はなかった。 「それが可能だと、本当に、思っているのですか」 少年の背中へと、盲目の魔女は声を届かせる。 閉ざされた扉を開き、今まさに足を踏み出そうとしていた少年はただ一度足を止めて振り返った。 「もちろんだ」 やわらかな、春の陽射しのようなその微笑を、盲目の魔女は知らない。その瞳に宿る決意の力強さも切なさも。そして、いづれそれが甘く幸福に満たされる日が来たとしても。絶望に染まったその暗さすら、彼女は知ることがない。永遠に。 少年は今度こそ足を踏み出した。扉の閉まる音が響く。 運命が自らの手によって生み出せることを、少年は知っている。ただそれを傍観するのみの魔女には、永久にわからないことだけれど。 紋章の意思さえ、少年はその手に握りこめようとしていた。 |
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邂逅の章からの三部作でなぜサツナが現れたのか。なぜ覇王の紋章と門の紋章を持っていたのか、その辺の詳しいことを補完的に。あとは…どうして坊に会うまで3年も掛かったのか、とか。元々は復活の序章でした。 どうにかこうにか文章を作ろうとしたら無駄に不必要っぽい描写が増えてしまいました。地理の説明なんかいらないですよねぇ…。補足の補足を足しますと、4主は三年で二つの真の紋章を操れるようにすると豪語して去っていったということなのです。「三年後に訊ねる」というのは、「三年で」という4主の決意の決意表明です。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/10/10・11_ゆうひ |
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