立春の章
約束は冬の終わり。川の水も冷たい、夜明けにはまだ早い時間のことだった。 季節が巡り、春が過ぎ、再び冬が訪れ。 そして今、ふたたび約束の地へと立つ。 春の始まりを告げるように、木々には花の蕾が芽吹いていた。 ハイランド王国は事実上終焉を向かえ、すでにそこをどのように呼べばいいのか、ホノカには見当もつかなかった。 かつて、ハイランド王国ユニコーン少年隊の駐屯地のあったそこで、あの日分かれた日と同じ、見慣れた青い服に青い棍を手にした親友の姿をみとめ、ホノカは足を止める。立ち止まることなく駆けてきたために上がっている息を整える彼の肩は上下に揺れ、しかし目の前に立つ親友――ジョウイは何も語ろうとはしなかった。 彼の背後には巨大な岸壁が悠然と聳え立ち、行く手を塞いでいる。戻る道は閉ざされ、二人が遥か下方に流れる川に希望を託し飛び込んだあの日のことが、まるで昨日のことのように思い出されて、ホノカはそっと瞳を眇める。 あの日に交わした約束だけが、再び彼と会う最後の希望であり、その願いは叶えられたのに。ホノカの胸には遣り切れなさばかりが去来して、その胸を締め付けるかのようだった。 小さく、あまりにも無力なナイフで。その無敵にも思える岸壁に印(しるし)をつけた。決して、この場所を見失わぬように。決して、その約束を違(たが)えぬように。誓約の証を刻んだ。 「ジョウイ…」 ホノカは親友の名を呟き、一歩、歩みを進める。ホノカの動きをきっかけとして、ジョウイは静かに棍を構えた。 眼前に突き出された棍の先端――ジョウイのそれは、まるで竜が迫りくるような意匠が施されている――を見つめ、ホノカはその信じられぬ光景に瞳を丸くする。なぜジョウイが自分へと獲物を構えるのか。その理由を理性の片隅で理解しながらも、信じられずにいた。 言葉もないホノカの耳に、ジョウイの静かな声が響く。 「ホノカ。最後の戦いだ……」 ジョウイの言葉に、叫びに、ホノカはただ首を横に振り続けた。親友の優しさが今も変わらずあることが嬉しく、その優しさのために親友が苦しんでいることが悲しかった。 理性はジョウイの言葉を理解している。いつもいろいろなことを教えてくれた、兄のような親友だった。頭がよくて、ナナミと一緒になって騒げば、それを諌めながらも、最後にはいつも『仕方がないな』と笑って付き合ってくれた。 その彼が、これしかないのだと慟哭する。苦しみに顔を歪ませて、滅多にしない『願い』を口にする。いつだって、『願い』と称してわがままを言うのは義姉だったのに。 右手の紋章もまた、ホノカに『剣』との戦いをけしかける。元は一つだった兄弟同士が憎しみ合う――紋章さえ抗えぬ本能――その奔流に飲み込まれそうになりながら、ホノカは必死に首を振り続けた。あふれる涙が飛沫となって、飛び散っていた。 なぜそんなにも。 なぜ、そんなにも。 その強さがあれば、すべてを守れると思った。 けれど、現実はその真逆。その強さが争いを広げ、気がつけば自らがすべてを壊そうとしていた。 ホノカは思う。『輝く盾』は何ものをも撥ね返すといいながら、その盾が何を守ってくれただろう。その盾で何を守ることができただろう。 その身をまさに『盾』として守ってくれたのは義姉だ。彼女こそ、何ものにも貫くことのできぬ『盾』だった。 大切でかけがえなのないものを。自分が守ると決めたものを。自分の意思を決して曲げることなく貫き、守りきった彼女。その意志の強さこそが、最強の『盾』だ。 その盾に守られて、自分も、彼も、今、ここにこうして、約束を果たそうと向かう会うことができた。 そして目の前にいる親友――彼自身それこそが、自分の意思を貫き通す、何もにも折られることのない『剣(つるぎ)』だ。あらゆるすべてを守ろうと、その優しい心を抑えつけて、今なお、守るべきすべてのもののために、立ち止まることをしない。 最硬の盾も、最強の剣も、すでにホノカの隣にあった。ホノカは常にその二つに守られていた。すでに盾は失われ、剣もまた命を失おうとしている。 ならば自分はなんなのだ。ホノカ自身は、その盾と剣にとってなんだというのだ。 盾も剣も、その意志を曲げない。決して崩れない。折れない。 ならば、ホノカ自身もまた、何も曲げるわけにはいかない。折れるわけにはいかない。 負けるわけにはいかない。 最硬の盾と最強の剣を持ち、それで誰に負けることが許されるというのか。 たとえそれが真の紋章だろうとも。運命だろうが宿命だろうが。何にだろうが。 だから。 だから。 「絶対に、嫌だ」 「ホノカ…」 「君を攻撃するなんて、絶対に、嫌だ!!」 ホノカが叫び、ジョウイの顔が歪む。 ホノカは涙を流し、ジョウイには泣くことすら許されなかった。 もはや立ち上がることもできなくなったのか、ジョウイは地面に片膝をつき、涙を流して耐えるホノカを見つめていた。すでに息も乱れているジョウイを、ホノカもまた、まっすぐに見つめ返す。 まるで睨めっこのようだと、そう思うとおかしくて、ホノカは心のどこかで小さく笑った。 「ホノカ、僕の持つ黒き刃の紋章と、君の持つ輝く盾の紋章は、元は一つのものなんだ。別々に分かれているときには、その力を使うたびに、使用者の命を削っていく…。僕は、獣の紋章の力を抑えるために、この紋章の力を使いすぎた……」 ジョウイは一人で戦っていた。ホノカの周りには大勢の味方がいた。 「……このままでは、君の命さえ、その紋章が奪っていくだろう。だからホノカ、紋章を受け取ってくれ。二つに分かれた紋章は、やがて、また新たな戦いを生む……!!」 息も絶え絶えに、ジョウイは必死で言葉を紡いでいた。もう二度と紋章が争いを生まぬように、そのために、彼はホノカに真の紋章を託したいと頼むのだ。 頭の片隅で誰かが囁く。 目の前の親友は、いつだって優しくて、どんな理不尽なワガママだって聞いてくれたじゃないか。ほら、こんなにも苦しそうにして願っているのだ。親友ならば、せめて彼の『願い』くらい聞いて、安心させてやればいいじゃないか。ずっとずっと、いつも一人でがんばって、苦しんできたんだ。最後くらい、安心させて、楽にしてやれよ。 頭の片隅で囁く誰かに、ホノカは首を横に振ることで必死に抗おうとした。決して耳を貸すなと言い聞かせながら、絶対に体が動いたりしないようにと拳を固く握り締める。 固く握り締められた拳が熱かった。 徐々に紋章が輝きを増していくのを感じながら、ホノカはジョウイの右手にある紋章もまた輝きを増していくのを見て取っていた。 ジョウイがホノカに攻撃の紋章を向けてくるはずがない。ホノカもまた、ジョウイに紋章を向ける意思などない。ならば二つの紋章は宿主の意思に関係なく、互いの本能のままに爆発しようとしているというのか。 けれど、と思う。 紋章からは常の『憎悪』が感じられない。 二つの紋章が目も眩むばかりの輝きを放ち、傷が癒されていくのを感じた。 「ジョウイ…」 「ホノカ…?」 二人は何が起きたのか理解できぬまま、互いに顔を見合わせるばかりだ。傷の癒えた体を見回しながら、ジョウイはゆっくりと身を起こした。 困惑しあう二人はふと気配を感じて身構えた。 視線を向けた先には人間大の光が青白く浮かび上がっていた。 すぐにそこから、見覚えのある女性が姿を現す。長い黒髪の魔女――レックナートだ。彼女はおもむろに口を開き、いつもの平坦な声音で告げた。 「……紋章の呪いは消え去りました」 彼女の言葉はいつだって端的だ。事実のみを語るその声は、ときに詩的な難解さを伴って聞くものの心に響く。 その言葉で彼女は語った。 輝く盾と黒き刃の二つの紋章はもとは一つ。常に惹き合いながらも争っていた。 常に惹かれ合い、手を取り合いたいと願いながらも相対するしかない、その運命の奔流に流されていたホノカとジョウイ。この二人のように。 その激しい流れに逆らい続けたホノカの意思が、紋章に科せられた呪いを打ち消す原動力になったのだ。 『盾』を貫くために砕け散った『剣』と、『剣』をはじき返すために砕け散った『盾』が、その憎しみと涙ごと『一つ』になった紋章。共にあればこそ、もともと一つの『やみ』であった頃のように静かに背を預け合うように隣り合い続けるそれは、哀しき呪いのために二つに別れ、相争う運命を背負わされた。 それが、互いを強く思い合うホノカとジョウイ、二人の思いによって解放されたのだ。 「二つに分かたれようと、紋章はもう、争い合うことはないでしょう」 たとえ別々の道へと分かれても、最後まで、互いを信じ合い続け、それを貫き通したホノカとジョウイ。この二人のように。 レックナートはいつも通り、伝えたいことだけを言って姿を消した。 ナナミが一命を取り留めていたことを、タイミングを見計らったかのようにやってきた――おそらく紋章の光を見てタイミングを図ったのではないだろうか。この男はそういった食えないところがあるとホノカは苦笑した――シュウに打ち明けられた。 二人は走った。懐かしい、あの道場への道を。 あの、すべての始まりの前となんら変わらぬ日常がそこにあったようだった。全快の笑顔で、ナナミがホノカとジョウイの二人に駆け寄る。その勢いのままに二人に抱きついて、彼女は喜びと安堵に涙した。 わあわあと泣き声を上げてしがみつくナナミに、ホノカもジョウイもその相変わらずな姿に苦笑しあった。呆れながら、喜びと安堵に笑った。 三人が、一緒に立っていた。 「ホノカぁ〜、ちゃんとじいちゃんへの挨拶はしたのぉ!?」 「あぁ!待ってよ、ナナミ!!」 「もうっ、早く、早く!!」 「ナナミ…、」 少しは落ち着こうよ…と、ジョウイが呆れ気味に呟く。三人はそれぞれに荷物を背負っている。明らかに旅立ちの装いだ。 行く当てはない。どこへ向かうかも決めていない。どこまで向かうのか。いつまで旅をするのか。それどころか、いつか帰ってかさえ。何も決めてはいない旅立ちだった。 ナナミが元気な声で二人を先導する。きっと目的などない。それでも、彼女はまっすぐに歩き出せる。 ホノカとジョウイはそのことを知っていて苦笑しあう。それでも、二人は彼女に何を意見するでもなく、彼女の歩みについていく。 太陽が眩しくて、空が青かった。 三人を包む空気は、優しさに満ちていた。 「よかったのか、黙って送り出して」 「ああ…。これで、いいんだよ」 「ふぅ…、まあ、おまえがいいなら、それでいいけどさ…(相変わらず難儀な奴/呆れ)」 遠く、丘の上から旅立つ三人の姿を眺めながら、レイは瞳を閉じて微笑んだ。それを横目にして、テッドは親友の相変わらずの様子に苦笑する。 「それで、これからどうする?」 そんなこと――レイの思いなどまったく意に返さずに、サツナがテッドの横から顔を覗かせて訊ねてきた。特定の人物以外にはまったく興味を示さない、こちらも相変わらずのものだった。 「そうだな。もしよければ、二人を僕の故郷へ案内したんだけど。特にサツナはね。トランはグレッグミンスターの他にもいろいろと見るところはあるんだよ」 「そうだな〜。またしばらく厄介になるかな。グレミオさんの飯(めし)も上手いし」 「テッドさんがそういうなら…(本当は二人でいろんなところを回りたいけど)」 若干一名にいささかの不服があるようだが、悠久の時を持つものたちもまた、デュナンの湖に背を向けて歩き出した。 |
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序章の終了です。原作をなぞっただけのつまらないもので申し分けないです。なぞったといいながら確認なんてしないで書いて土下座ものです。台詞も設定も半創作です。これから先、坊とかテッド、4主はしばらく出ないかも…。出ても2主たちと係わらせる気は今のところありません。ただの日常の一コマとしてなら書くかもですが…。まだ細部は未定。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/10/10・30_ゆうひ |
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