入梅の章
遠くで雷(いかづち)の鳴いている音が微(かす)か、耳に届く。日差しは確かに延びているにもかかわらず、これから訪れる曇天(どんてん)の日々に、私たちは眉間(まゆま)を寄せて不安を顕(あらわ)にするのだ。 冬よりも尚、朝が短く感じられる。それはゆっくりと、音を立てずにやってくる。 気がついたときにはもう遅く、冷たい雨に体は震え、漸く温かくなり始めた空気もまた冷やされている。 ハイランド王国を北。険しい山を難なく越えて訪れたハルモニア神聖国は、その名の響きの美しさとは裏腹に、どこまでも現実的な冷えた国のように、三人の目には写っていた。 長い歴史と優れた文化や学問を誇り、周辺諸国にその名を轟かせているその国は領土も広大で、グラスランドの東部にまでその支配権を伸ばしている。領土の広さは常に支配権を伸ばそうと周辺諸国への侵攻が頻繁であることも同時に語ることができる。 文化と学問の担い手である一方で、その国はどこまでも好戦的であった。 大陸の北に位置するその国の全容は、おそらく国内にあってさえ謎に包まれているかのようだった。確立された身分制度と、それを覆すことのできる徹底した実力主義。 大きな光と深い闇が隣り合うこの国では、誰もがそれに気づきながら、目を逸らしている。 「なんだか、思ってたよりも『明るい!!』って感じじゃないね」 きょろきょろと右へ左へ首を忙しなく動かしながら、ナナミが云った。そうは云いながらも、その足取りが三人の仲の誰よりも軽やかであることに変わりない。 青い硝子タイルを貴重とした建物は、日の光がなくともそれだけで美しかった。建ち並ぶクリスタル群のような町並み。しかしその建物と建物の間に生じる影に隠れるように存在してる陰気な瞳の人々を、ナナミたちの瞳は確かに捕らえていた。 「それは仕方がないよ。ハルモニアはどこの国よりも身分制度の厳しい国だから」 ジョウイはどこか困ったような表情でナナミに説いた。 ハルモニア神聖国は侵攻と侵略を繰り返す好戦的な国だ。国民は一等市民から三等市民に区分けされ、新たに支配されハルモニアに併合された人々は三等市民とさることが通常だった。 高度な教育と文明を与えるというハルモニアの言葉は決して嘘ではない。しかし、それが必ずしも正しい行為だとは限らない。 文化には長い歴史がある。それは生まれるべくしてその地に生まれ、育まれ、進歩していったものだ。ある文化が何よりも優れているなどとどうしているだろう。この大地は果てしなく広く、人が立ち向かうべき自然の厳しさは幾万通りにあり、その豊かさも同様であるのに。 民族同化政策との建前で、三等市民の子供が貴族の家に引き取られて生活を送ることもあるらしい。それまで当然のように持ち得ていた権利の多くを奪われ、それに甘んじるしか道のない三等市民にとって。それでも尚、己の文化を守ろうと戦うものにとって、それは何をもたらすのだろうか。 ナナミにはそこまでの知識や理念、思想は存在しない。彼女はそれだけの教育を受けてはこなかったし、それによってもたらされる幾つもの試練を、『考えない』ことによって跳ね除けてきたのだから。変わりに、彼女は直感によって物事を見極めた。 それは彼女に与えられた天性の才能だ。そしてそんな直観力に長けた彼女は、ジョウイの説明に納得がいかないと頬を膨らませる。 唇を尖らせるその仕草は愛らしく、それでも『姉』だと言い張る彼女を、ジョウイは微笑ましく思った。 「ふーん。なんかやな感じ。私は好きじゃないな」 「そうだね。でも、好き嫌いでどうにかなる問題じゃないから…」 「むぅ〜。…――ねえ、ホノカ! デュナンは、こうならないといいよね!」 「うん。――でも、大丈夫だよ。だって、シュウやクラウス、テレーズさんがいるもの」 「うん! そうだよね!」 ホノカが微笑み、ナナミは笑顔になった。ジョウイはそんな二人を見てやはり微笑い、その後でそっと目を伏せた。 …クルガン、シード、ハーン・カニンガム。幾人もの国を愛し、憂う人々の存在を思う。誰もが得がたい優れた人々だった。その勇気も、技術も、気力も。そして何より信念が。 ルカ、アガレス。そしてジル。…道を違えたかも知れぬ王族だ。彼らがいなければ、何も起こりはしなかった。変わりに、何も進みはしなかった。彼らは生まれながらの高貴な身で、背筋の伸びるような、どこまでも尊き人々であった。 アナベル。豪胆な女性だった。力強い、まさに国家の母たる女性だった。 グランマイヤー。実直な人だ。アナベルほどの豪胆さはないが、アナベルにも、他の誰にもないほどの安心感を与える、深さを持っていた。老賢人。いづれはそのように敬われるにたる人だった。 ピリカ。その幼い瞳は多くの凄惨な出来事を写し、その小さな体と心でそれらをすべて受け入れた小さな命。あれほどの過酷な運命にありながら、それでも素直さも優しさも。何より他人を愛し思いやる心を失わない『命』。 誰もが皆、過去の人だ。 ジルとピリカには新しい新しい名と共に新しい人生が。今のジョウイにはその新しい生がどこまでも光に溢れているようにと、ただ祈ることしか出来ない。 永遠に。ただ遠くから祈るだけだと、心に決めているから――。 「ねぇ、ジョウイ」 「なんだい?」 ナナミの呼び声に現実に引き戻され、ジョウイは視線を向けた。ナナミは少しだけ不思議そうに小首を傾げ、しかしすぐにいつもの笑顔で言った。 「ジョウイも、そう思うでしょう?」 それは疑問でありながら、疑いを一切含まぬものだった。 ジョウイは一瞬なのことだからわからずに瞠目するが、その戸惑いもすぐに消え去った。先の会話が脳裏に思い出される。 『デュナンは、こうならないといいよね!』 求めていたのは高い教養と高度な文明ではない。少しくらい貧しくても構わなかった。誰もが心から笑い、人が人を思いやり、身分も種族も越えて助け合い、生活を営む。 何よりも争いのない国。 戦禍はもうこりごりだ。人が人を殺す姿を、惨めに辱められる姿を、ただ種族が違うというだけで貶める心根を、どうして次世代を担う子供たちに見せ付けたいというのか。 本当に戦果などというものがあるのであれば、せめてそれがいい。それがなくては他の何も意味がない。 それを求めて、得がたい人々を失った。大切な思いをあきらめてきた。誰もが苦難にその身を置き、耐えてきたのだから。 「うん。そうだね…」 言葉にはし尽くせない幾つもの思いが胸の中に渦を巻いていた。それらすべてを押さえ込み、だから、ジョウイはただ微笑って答えた。 それに、ナナミは満足そうな笑顔を返した。 それに気づいたのはジョウイとホノカ。二人同時だった。 ハルモニア首都にある中程度の宿屋に二部屋を借り滞在していた。一室はナナミが一人で。もう一室はジョウイとホノカが共に使用している。 贅沢な旅ができるほどの金銭は持ち合わせていなかったが、この程度の宿屋に泊まるのには不自由しない程度の金子(きんす)は持ち合わせていた。これらはすべて、得がたい人々の好意によるものだと。二人は決して忘れない。ありがたいと思う感謝の念を、その胸に常に暖かく置いている。 三人の朝は早い。道場で規則正しい生活を送っていたナナミとホノカはもちろん、ジョウイとて生来の生真面目さゆえに惰眠を貪るような真似はそうそう行わなかった。 だからというわけでは決してない。それは単純に、ジョウイやホノカの方が相手よりも数倍上手であったというだけの話だ。 研ぎ澄まされた資質は過酷な戦場を生き抜いてきた副産物だ。それは相手も同様であろう。ならばあとはただ持って生まれた才能の違い。或いは背負う運命(さだめ)の違いか。 ハルモニアに足を踏み入れる以前から監視の目があることは感じていたが、それも戦争終結とともに去った為、あえて追おうとも思われなかった。ハルモニアへの道程ではまったくそういった視線を感じなかったので、多少気を緩めていたところに、再び視線を感じた。 監視の目だ。 宿の内にいても感じるその視線は決して自意識過剰な為ではない。現に、二階の窓からこちらに意識を向ける怪しげな男の姿がいくつとなく見えるではないか。 その目的はまだわからない。しかし味方でないことだけは確かだった。 彼らの味方は彼らの平穏を壊すことは決して望まない。決してそのような行動はとらない。何よりもあのようにこそこそと隠れ潜み、監視するような真似はしない。 ならば何者か。 それぞれの右手に宿る強大な力を狙うものか。或いは旧国の王と新国の建国者という異色の組み合わせを警戒しているだけのことか。 今はまだそれに追求することはなく。ただ、ナナミの呼ぶ声に応えるために、部屋を出る。 さあ、朝食にしよう。 |
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続きは何も考えていません。最近は疲れてて話を考えても書き上げるだけの気力と体力と集中力がないのです。何も考えていが為にほったらかしにしていたら、いつの間にかタイトルの季節が近くなってしまいました。むしろ突入。 この話の目的はホノカに始まりの紋章を継承させることにありますが、同時に私の中でハルモニア神聖国をきちんと捉え確立することにあります。これが書き上がれば他のハルモニアを舞台にした話を書き進めていけるかと思います。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/03/21・05/13・27_ゆうひ |
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