外伝 一 『森ノ泉の章』 







「やあ、カスミ」

 先に声を掛けたのは彼の方だった。出会った頃から変わらぬ――いや、より深みの増した――心情の読めない微笑を面(おもて)に浮かべて、彼、トランの英雄、レイ・マクドールは首を倒して肩越しに振り返った。
 右手側。斜め後方の茂みの中から現れたのは、赤い軽装に身を包んだ短髪の少女だった。まっすぐに伸びた背筋。歩く仕草には一部の隙もない。
 さすがは忍者だね、と、レイは顔に貼り付けた笑みを深めて声を掛けた。

「こんなところにいていいのかい。愛しの『あいつ』はさっさと放浪の旅に出てしまったよ。君とは別の女性たちとね」

 レイは面を正面――池の水面に垂らした釣り糸――へ戻して口にした。釣りの最中、レイの口元には相変わらず笑みが浮かべられている。
 カスミはその様子を見やりながら、レイの隣へ腰を下ろした。微かに視線を伏せてから答える。そんな彼女の口元にも、柔らかな微笑が浮かんでいるようだった。

「レイ様こそ。よろしいのですか? ホノカ様は旅出たれたようですが…」
「…ああ。どうやら行き先はハルモニア方面らしいね。彼には必要なことだ」

 レイは口元にうっすらと笑みさえ浮かべたようだった。しかしそれはすぐに消え、次に現れたのはどこまでも気の抜けた姿だ。
 天に向けて気を抜くように息をつく。

「しかし薄情なのは我が親友だよ。恋人と二人で散歩だってさ。暫らくは一人になってしまい淋しい思いをすること確定の『親友』を放ってさ」
「ふふ。トランの英雄も形無しですね」

 カスミが小さく笑い声を上げ、レイもやわらかく目元を細めて、視線だけを向けカスミを見やった。

「トランの英雄、ねぇ……」
「ふふ。相変わらず慣れませんか?」
「慣れる慣れないの問題じゃないよ」

 レイが溜息をつくのに、カスミが再び小さく笑った。

「そういえば、その草叢に何人かいるみたいだけど…」

 声を潜めてレイは呟き、しかし表情も視線も変えない。カスミもそれに習った。

「そうですね。メグさんたちと……あと一人。宿星でも、解放軍メンバーでもない方がいらっしゃいますね」
「ああ。…まあ、統一戦争中にこの辺をいろいろ嗅ぎ回っていたみたいだけどね」
「ご存知だったんですか?」
「当然だろう。――ホノカにとって一番大切な時期だったからね。もし小石にでもなりそうなら喰ってやろうかとも思ったけど…。まあ、砂利にさえならないようだったからね。そもそも道上にしゃしゃり出てこなかったし。なかなかに賢明なのか…。或いは運がいいのか、遠き未来へ続くの運命に守られているのか……」

 レイが肩を竦め、カスミは不思議そうに小首を傾げた。内心では、彼がその右手に宿した真の紋章を意図も簡単に笑い話として口に昇らせることが出来るようなっている現実に、軽く驚きと…そして、胸の温かくなるような嬉しさを感じながら。
 もっとも、そんなこと態度にはおくびに出さなかったが。それとて、目の前の少年にはお見通しかもしれないと思いつつ、それはお互い様であるのではないかとも思えば、互いに無視をするのが暗黙の了解でもあった。

「ホノカ様はご存知なんですか?」
「いや。云っただろう? ホノカには、不必要な煩わしさを与えるわけにはいかないしね」

 首を左右に軽く振るその首の動きに合わせて、艶やかな黒い髪が揺れた。

「そんなに大切なのに…。一緒に行かれなくて、良かったんですか?」
「…。堂々巡りになりそうだな。見逃してはくれない?」
「ええ。だって、初めにこんな意地の悪い話題をお振りになったのは、レイ様の方なんですよ」

 二人ともが常に面に浮かべるのは微笑だ。森の中の湖面は穏やかで、降り注ぐ日差しも同様だった。
 にこりと微笑うカスミに、レイは業とらしいくらいに大きく溜息を吐いた。

「はぁ…。まったく。君はいつの間にそんなに老獪になったんだろうね」
「ロッカクの里の副頭領は、体技の優だけで任せられるほど、安くはないんですよ」
「まったくだ」

 和やかな雰囲気。戦時中であっても、この国――正確には新同盟軍側――はどこかのんびりとした雰囲気を持っていたものだ。その代わりでもあるかのように、対するハイランド王国軍側は、優勢状態にあっても常に、ぴりぴりとした緊張の只中に放り込まれているかのようだった。
 徐に、カスミが居住まいを正して真剣な面持ちで言葉を発した。

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「今更だよ、カスミ。君と僕はかつての盟友だ。しかしかつてのような上下の関係はない。君が僕に、人が人として最低限兼ね備えてしかるべき配慮を胸裏に抱く以外に、僕に気兼ねする必要はどこにもないよ」
「レイ様を個人的に尊敬している身としては、そう云っていただけるのは恐縮な気もしますけど」

 困ったように微苦笑するカスミの表情に、レイが朗らかな笑い声を蒼天に響かせた。腕から振動が釣り竿へと伝わり、水面に微かな波紋を浮かべる。

「あはは。それはすまなかったね。でも、『あいつ』は全然そういうのとは無縁だよ」
「あの方は――、彼は、それが本質ですから…」
「確かに。地位や権力、或いはただ純粋な力にさえだろうと、物怖じするあいつなんて想像もつかないな。――で? 聞きたいことは、それに関係してるのかな」
「はい。その、このようなことを聞くのは――」
「さっきも云ったけど、気兼ねは要らないよ。君は何につけても遠慮を先行させ過ぎだ。特に僕に対しては」
「すみません…」

 項垂れるカスミにレイは内心でこっそりと苦笑した。それは彼女の美点でもあるし、レイ自身は実は大して――むしろまったく――気にしていない。

「それで。何が聞きたいんだい?」
「男性の目から見て――」
「?」
「男性の目から見て、私は、どのように写るんでしょうか…」
「――」

 云ってしまってから、カスミは慌てて『やはり忘れてください』と撤回しようとする。思いがけない問いかけに軽く思考停止していたレイは、そのカスミのあまりの狼狽振りに、むしろ我を返した。

「あーー、別にすまない質問でもないけど…。ちょっと意外かな。やっぱり君も恋する女の子だね」
「…からかわないで下さい」
「からかってるつもりはないけど…そう感じたなら謝るよ。すまなかった。――でも、君が聞きたいのはもっと別のことなんじゃないかな。そう。例えば、男はただ一人の女性だけを愛し続けることができるのか否か」
「それは…」
「あはは。隠さなくてもいいさ。まずそもそも質問。男の目から見て、君は外面も内面も実に魅力的だよ。人間的にもとても誠実で優れてる。それはあいつだって公言して憚らないだろう? あいつの場合は自分が魅力的だと思う女性の、特に外面に対しては率直なまでに赤裸々だからね」
「///」
「そしてその本質。あいつの『浮気性』は男なら当たり前のものであるか否か。――ここで僕が『そうだ』と肯定すれば、君の心労は少しは減るのかな?」

 向けるレイの眼差しは優しい。面を俯けたままのカスミが、それを知る術(すべ)はなかったが。

「愛にはいろいろな種類がある。君があいつに望む類(たぐい)の『愛』に限らず、愛というものの在り様は人それぞれだとしか云えないな。まあ、男から見ても、あいつの移り気の多さはちょっと呆れるけどね」
「……」
「ああ、ごめんよ。別に君の気分を沈みこませる気はなかったんだ。ただ、その奔放さ――或いは自由さが、あいつの魅力でもあると、僕は考えてる」

 一度会話が途切れ、レイがおよそ話題を変えたように思われた。

「ところでカスミ。ロッカクの里では、親子は名乗り合わないのが慣わしなんだってね」
「え? あ、はい。ロッカクではその質を落とさぬよう、完全な実力主義を心情としていますから。親子であるからといって優遇したり冷遇したりはもちろん、本人にもそのようなもので驕りや劣等、慢心があってはならないと…」
「うん。それでも親子は似るって云うからね。あいつはその点、実に両親に似ているって専らの噂だ。一番云われるのはその『剣と魔法の才能』かな。今のレパントの厳格さと愛妻家振りばかりを知る人から見ると、あいつのあの放蕩振りは誰に似たんだかってことになるみたいだけど」

 レイは愉快そうに笑いながら話を続ける。

「でも、その母親のアイリーンは『父親似』だと嬉しそうに笑って見守ってるそうだよ。レパントがあいつに厳しく説教でもかまそうとすると、アイリーンがそれを邪魔するのさ。あいつの一番の敵は父親で、一番の味方は母親だ。そして、一番の敵である父親は、母親に頭が上がらない。その代わり、あいつも母親には頭が上がらない」
「あの、レイ様…?」

 カスミはレイが何を云いたいのかが掴めずに、控えめながらも疑問の声を上げた。レイはそれを敢えて無視した。

「つまりね、カスミ」

 そしてその面をカスミへと向き合い、朗らかなまでの笑顔を渡した。

「あいつは、結局最後には、君の元へと戻ってくる、ということさ」

 そして、ホノカも旅の終わりには必ず僕の元に帰ってくる。
 そう云うレイの面差しは優しさに満ちていた。
 思わずカスミはその自信に溢れた――自分を確かに確立させているその姿に魅入る。

「離れていても親子ってのは似るもんさ。正確や素質だけじゃない。その人生もね。あれで案外、あいつもたった一人の『運命の女性』に縛られるタイプだよ。そして、運命の相手を見つけた僕の意見として、それはとても幸せなことで、案外に、本人はそれに気がついているってことさ」

 これで君の不安が僅かでも和らげられたのならいいのだけれど。
 レイが微笑い、つられるように、カスミも微笑んだ。
 白い鳥が晴天へ舞い上がる、のんびりとした、ある日の出来事だった。









talk
 外伝で坊とカスミが話す場面があったでしょ?あそこです。ホノカたちが旅立ち、テッドと4主は二人でらぶらぶしているので、レイは一人で閑をもてあましています。本当は連載中の『四季』の第一章の後に入れたかったのですが、話がそこまで広がりそうになかったので拍手へ回しました(爆)。ちくしょう…。シーナ×アップルなんて認めるかーー!!!
 ……。すみません。本当は拍手用に書いたのですが、どうしてもシナカスを表に上げたくてUPを伸ばしに伸ばして、考え付かない話を無理やり伸ばしに伸ばして!! ついでにいうとフッチ×カスミもほんのり気になっています(この話には一切関係ない)。原点の水滸伝の方で、この二人って夫婦になって、しかもカスミの地急星って夫を庇って亡くなるって…!すっげぇツボ!!萌えます!! でもうちの中でフッチで受けだから…。会話文ばっかりの坊カスみたいな話ですが、私の中では紛れもない坊主でシナカスです! 今度はちゃんとシーナとカスミを絡ませたシナカスを書きたいな。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)ゆうひ_2006/04/17・2006/07/02・2006/09/09
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