竜冠 











周囲は厚い岩壁に囲まれている。
漆黒の竜の瞳が少年を見つめていた。
少年は裁決を待つ囚人のように。
けれどとても不思議で純粋な心地で。
黙して佇み、自ら腕を伸ばすのだった。










 稲穂がたわわに実り大地が一面、黄金色に色づく頃。家族は総出で稲の収穫に奔走する。朝はまだ白く色づく前から。日が落ちて、空もまた大地と同じように鮮やかな朱色に色付く頃に漸く家路に着く。
 フッチは家の戸を潜る直前で足を止めた。後背の空へと視線を向ける。
 生まれたときから当たり前のように聞き、耳に慣れた低い遠吠えに視線を彷徨わせれば、真っ赤に染まった空に黒い影が横切るのをとらえることができた。その影もまた、彼にとっては――否、彼ら竜洞騎士団領に暮らすものにとっては、馴染み深いものである。
 馴染み深く、そして、果てしなく遠くにある羨望。
 それが、竜洞騎士団領に生を受けた平民にとっての『竜』であり、『竜騎士』であった。

 竜洞騎士団領の人間は、その身分や職業、性別に関係なく、ある一定の年齢に達すると等しく『孵化の儀式』に参加する権利を与えられる。それは竜の誕生――卵から孵化する場面――に立ち会うというもので、そこで新しく生まれた竜に『選ばれる』ことで、平民はある意味、強制的に『竜騎士』となることが義務付けられる。
 竜の数は限られており、竜が自らの主――あるいはパートナー、半身と、自らと竜の関係を表す竜騎士も少なくない――と選ぶ人間が必ず騎士階級の中にいるとは限らないからだ。人に育てられた竜は俗にモンスターとして認識されている『はぐれ竜(これは竜洞騎士団領外が誕生した竜の総称でもある)』とは異なり、人を襲うことはない。竜騎士を背に乗せて空を飛び、戦場へも赴いてくれる。しかし、パートナーを持たぬ竜はいつでも『はぐれ竜』となる可能性を秘めている。竜は本来なにものにも服従することのない誇り高い生物だ。故に、いつその炎と牙を人間に向けてくるかわからない。
 竜はもちろん、竜のパートナーとなれる人間は竜洞騎士団にとってなくてはならぬ要である。そうであればこそ、竜に選ばれた人間には竜騎士となることが強制させられるのであった。


 竜騎士が竜にまたがり空を駆け、明後日に『孵化の儀式』が開かれることを知らせていく。平民が竜に選ばれることなど滅多にない。万分に一つの可能性ほどだ。それでも、その可能性さえ捨てられぬものであるほど、竜のパートナーとなる人間が重要であり、貴重であり――また、竜洞騎士団の脆さが見て取れるといえるだろう。
 フッチは今年漸く五つになる。五つになったときが、『孵化の儀式』への参加資格の与えられる年齢だった。
 初めてのそれに頬が高揚するような心地がしていた。心臓がいつもよりも大きく胎動しているかのようだ。尚早しているという気は感じないが、耳にまで響く心音は外側から胸が打たれているかのような衝撃と痛みさえ与えてくる。
 父親に手を引かれながら初めて足を踏み入れた竜洞騎士団の砦は、重厚な石が幾重にも積み上げられた頑丈なもので、しかし薄暗かった。
 竜洞内の住民すべてが家族総出で仕事を休みにして集まる。ここまで徹底した集会は、外の世界でもなかなかないのではないだろうか。フッチはきょろきょろとあたりを物珍しそうに見上げ、時々よろめきそうになるのを、つないだ父の手によってバランスを保たれながら歩く。
 父親が足を止め、フッチも足を止めた。首を精一杯上向けて見上げると、父親は彼に笑みを向ける。どうやらそこが目的地のようだとフッチは本能で知る。人々が集められたのは洞内の広い空間だった。
 まるで洞窟そのままの岩壁は、天井がアーチ型に弧を描いている。人々の視線の先――入り口の向かい側には、一段高く岩が盛り上がるように地面からせり出していた。
 その上に、白く輝く楕円形の球体が鎮座していた。それこそが竜の卵だ。
 フッチはまんまるの瞳をいっぱいに開けてそれを凝視していた。榛(はしばみ)色の瞳が淡く発光するかのような白いそれに吸い寄せられていた。
 竜の翼(はね)を模した冠を頭に乗せているのが竜騎士だ。人々のざわめきの中、卵の隣に立つ竜騎士が何か叫んでいる――フッチの隣では彼の父がその話を黙って聞いている。常にあることではないが、幾度となく経験していることでもあるので、ざわめきが消えるほど人々が集中することもないようだ。けれどフッチの耳にはそんなものの一切が入っていなかった。
 榛色の瞳が卵を見つめる。
 ぱりっとした音が響き、あたりからひときわ大きなどよめきが起こった。白い卵に雷(いかずち)状のひびが入っていく。
 ぱりぱりっと、音が響く。白い卵に走ったひび割れが広がっていく。殻の欠片がぽろりと剥がれ落ちていく。
 どよめきが最高潮に達した。
 卵の上半部分が完全に崩れ落ち、中から姿を現したのは漆黒の竜。完全には開ききらない翼が粘液で濡れている。身震いするようにその肢体が振るえ、翼の裏側のロザリオ色が見え隠れした。生まれたばかりだというに、銀朱(ぎんしゅ)色の瞳は明確な意思を持ってまっすぐにある一点を見つめている。
 フッチはただ竜の瞳を見つめていた。
 その口が開かれているいくのが、まるでスローモーションのように榛色の瞳には写っていた。

 ギャァ。

 竜が一声鳴いて、ロザリオ色の翼が開かれる。僅かに浮き上がった体がよろよろと宙(ちゅう)を横切る。
 生まれたばかりでありながら、竜は数メートルほどの体躯を持っているのが通常だ。まだ乾ききらぬ翼を広げれば、体躯はその倍にもなる。
 人々は竜のために道を作るように、体を横に滑らせて場所を空けた。
 フッチは父に繋がれている手が引かれるのを感じた。竜が近づいてきたので、道を作るためにフッチと共に立ち位置を移そうとしたのだ。
 けれどフッチは動かなかった。
 きょとんとした丸い瞳は、相変わらず生まれたばかりの竜の姿をとらえたままだ。軽く首を傾げさせて顔を上空に向けている。
 少年は父親と繋がれている手を離し、空(くう)へと伸ばす。
 漆黒の竜の鼻先がその指先に触れ、少年はその腕を広げた。竜の足が大地を踏む。
 人々はどよめいた。
 生まれたばかりの竜は、まだ幼い少年の頼りない胸に額を擦り付け、気持ちよさそうに深い宇宙(そら)色を湛えたその瞳を閉じる。子供が親に甘えるように、少年の胸に頭を幾度となく擦り付けるのだ。
 人々はどよめいた。
 けれど少年も仔竜も周囲から湧き上がるそんな雑音など気にも留めない。耳にすら入っていないのかもしれない。
  黒竜の頭を両腕で包み込みながら、生まれて初めて味わう充足感に、少年は至福を感じていた。きっと、これ以上に満たされることなど、この先二度とないと思った。
 今まで足りなかった『何か』を漸く見つけたかのような、不思議であたたかな思いが心を満たしていた。


 そして少年は両親からも兄弟からも遠く離されることとなる。
 けれど少年はもうすでに両親のことも兄弟のことも忘れているかのようだった。
 少年はまだ哀しみを知らない。淋しさも知らない。
 なぜなら、少年にとって両親や兄弟――家族と離れることも、会えなくなることも、まったく哀しくも淋しくもないものだったからだ。
 竜に選ばれた少年は、変わりに親兄弟との繋がりを失った。
 けれど少年の心は、繋がりを失ったその瞬間には、すでに今まで繋がっていたそれらのものの一切を忘れ去ってしまっていた。
 なぜなら少年は、そんなものでは埋めることのできない『至福』を知ってしまったから。







 少年の頭に竜の翼を模した冠が奉げられた。
 少年と仔竜は視線を合わせ。
 どうやらその表情は、新しく始まる共に歩み行く日々に笑ったようだった。










卵を割って、仔竜は世界を目にした。
榛色のやさしい瞳と視線がぶつかった。
本能のままに翼を広げて舞い上がる。
腕の中は仔竜のためのもののように温かく。
あまりの気持ちよさに瞳を眇めていた。












talk
 「孵化の儀式」?「対面の儀式」?…なんかオフィシャルの設定も揺れているのでこっちで勝手に設定を作ってしまいました(だって六歳までに儀式に成功しないといけないとかいっておきながら、VEDのシャロンのその後は何?「新たな儀式」って何?)。ちなみにロザリオ色はこんな色。バラ崇拝を起源に持つ、すべての熱望の虚しさを表すロザリオをイメージした鮮やかな赤紫色らしいです。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/10/20〜21・28_ゆうひ→2005/11/03_一部改定。
 2006/07/17_生まれたばかりの竜は通常数メートルあるとの公式設定をすっかり忘れて、ブライト誕生の瞬間をブラックにも当て嵌めていました。なのでその部分を一部改変致しました。
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