空
恋焦がれ 手を伸ばすれど 届くことなし... |
アサキ城の展望台の頂上は、フッチの気に入りの場所の一つだった。隣には高い建物のないこの場所に横になると、視界に写るのはただ空ばかりになる。本当はもっと空に近いところがこの城にはあるのだが、そこは城主の部屋を抜けた先にあるため、一介の歩兵であるフッチがほいほいと気軽に赴くわけにも行かない。 城主はフッチと年齢も近く、どちらかといえば友人のような感覚で付き合っているため、頼めばいやな顔一つすることなく、気持ち良く城の屋上へと通してくれるだろう。けれど、いつもいつもそうするのはフッチの気が引けるし、何より、誰にも知られず一人でそういった場所へ向かいたい場合の方が多いため、できれば誰に声を掛けることもしたくないというのが正直な気持ちだった。 視界の一面が青い空に覆われる。背中には石造りの展望台の床面が触れていた。ひんやりとしたそれは当然のように固く、いつまでも横になっていては背中を痛めてしまうだろう。 額に右腕を乗せて陽射しの眩しさを遮り、フッチは少しでも長く、はっきりと、空の青さを感じられるようにした。それはほとんど無意識によるもので、ぼんやりと空を眺めるのはもう何度目になるかさえ知れない。 ほぼ毎日のように、フッチは暇さえあればこの展望台へと上っては、空を眺めていたし、このアサキ城へ滞在するようになる以前――竜洞を出てハンフリーと旅をするようになってからも、気がつけば空を見上げていたからだ。 空を見上げて何を考えるということはない。何かを思い出すわけでもないし、後悔しているわけもなかった。 ただ無性に恋しかった。そしてひたすら切なかった。 けれど夜の空は見上げない。青い空が藤色へと、白い雲が橙色へと色を染め替える頃になると、フッチは倒していた身を起き上がらせて、アサキ城で彼のために与えられた部屋へと戻る準備をする。 瞳を閉じて顔を上に上げて――そのまま空の中へ溶け込んでしまえたら、どれほどいいだろう。そう思いながら、そんなことは叶わないと知っていた。何より、今の彼には自分一人の世界に閉じこもるわけにはいかぬ理由がある。 まだ幼い『光』を、彼は慈しんでいた。守ってやらなければならなかった。 光を得て、それでもフッチの心の影が消えることはない。光のためにその影は幅を狭め、光のためにその影の色は濃くなった。 青空に思いを馳せ、けれど決して夜空は見上げなかった。雨の日は与えられた部屋の中で静かに過ごした。雷(いかずち)の舞うような日は折の中の仔竜を外に出してやり、かわりに胸の中に閉じ込めた。ぎゅっと両腕で抱き込むと、仔竜は不思議そうな瞳で彼を見上げるのだ。 空中庭園から逃れようとしたあの日。憎しみと悲しみの連鎖から逃れられなかった哀れな魔女の放った魔法の光は、黒雲に閃くあの光ととてもよく酷似している。 漆黒の半身を失う前は、むしろ夜空の方が雄雄しく感じられて好きだったのに。 ずっと空に憬れていた。竜の姿を目にするたびに、自分の隣にそれがいないことがひどく不思議だった。首を傾げて過ごした日々の終わりは唐突にやってきた。それはそれまで隣にいた家族との別離の始まりでもあったが、そのことを悲しむことはおろか、疑問さえ思い浮かびもしなかった。 それでも彼は自分が異端であることを感じていた。正確には、感じざるを得なかった。農民出の竜騎士は、ずっと下の方で、そうやって扱われるのだ。 だから、他の竜騎士の飛ばない夜空は、彼と彼の騎竜だけのものだった。 失った当初は哀しさすらもなかった。ただぽっかりと心に穴が開いたような喪失感。蒼い魔女を怨んだ瞬間もあった。怨んだ途端に霧散した。 魔女を怨んでも心が晴れなかったからだ。なんの解決にもならず、それどころか喪失感に自らへの嫌悪さえ湧き上がって惨めなばかりだった。 ただただ自分が惨めで情けなくて、消えてしまいたかった。 そうやって泣いた日々を越えて、少しだけ落ち着いてきた。落ちついて、ただ森のように暮らして一生を終えようかと思うようになった。 静かに。静かに。 地に根ざして。 展望台から降りて大地に立ち、漆黒になるにはまだもう少しだけ時間を要する空を見上げた。そして笑った。笑顔ではなかったけれど、その表情を分類すれば、それは笑みだった。 苦笑か、自嘲か。 それはフッチにも分からなかったけれど。 今は確かに笑えている。それだけで、十分だと思えた。 片手を空に伸ばしてみた。今もなお、こんなにも焦がれている空から離れて暮らそうなど、いったい何をバカなこと考えていたのだろう。 大地に根ざした者の子として生を受け、自分が空に向かえぬことが不思議で仕方がなく、空を駆ける巨大な翼持つものが半身であることでようやく自分の中でずっと足りないと感じていた『何か』を見つけた気がした。失ったものはあまりに大きく、新しく得たそれはあまりにも小さく、か弱く、けれど限りなくあたたかい。 それはまさに『光』そのものであった。 大切にしようと思った。この持てる愛情のすべてを注ぎ、守ろうと思った。 フッチは止めていた歩みを再び再会した。整備された道。展望台の斜め右手には酒場への入り口がある。そこから城の内部へと入ることができるから、まだ小さい仔竜のために何か作って帰ろうと思う。酒場の主人のレオナはよくあることと、嫌な顔一つせずに場所を貸し出してくれるだろう。これはレストランの主人のハイ・ヨーも同じことで、この城は本当に、心の優しい人々が集まっている。 己もまたそのような人格を手に入れることができるだろうかと空に問いかける。夜空に似た、光る鱗を持った半身へと笑いかける。 ようやく笑えるようになった。それが、何よりも大切なことだと、フッチは知っていた。 「ブライト、ご飯だよ」 『きゅ〜vv』 食事と聞き喜びの声を上げる幼い仔竜の姿に、フッチは目元を和らげた。 今度は光にあふれた空を飛ぼう。誰に憚ることもなく、堂々と。青い青い、空を駆けよう。この小さな竜が空を大好きだと思えるように、たくさんの空を感じさせてあげよう。 そしていつか。 深い夜空に向かって高く上昇して行き、もう一つ、永遠の半身に会いに行こう。 そしていずれ三人で、悠久の空を飛ぼう。永遠に、どこまでも。 |
黒と僕と光と 無限にうつろう百万の空を駆けて―― |
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暗いですか。私は決して暗くしたつもりはないのですが、面白くないかもしれないことは確かかもしれないです。 最後の「百万」というのは百万世界を巡る〜みたいな感じで書きました。でも本当は上と下で上の句と下の句の組み合わせとかしてみたかったのですが…。始めと終わりではフッチの心象も変化している意味も含めて、リズムを変えたものにすることにしました。 竜洞騎士団での話はこの後のお題を消化していく中で徐々に書いていけたらな〜と思っております。 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/11/03・08_ゆうひ。 |
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