君への涙 











今はまだ、この涙を流さずにいよう。
どうせ、行き着く先で僕は、けっきょくは涙を流すのだから。
それがどのような形だろうと、流さずにいられるはずもないのだから。










「やぁ、ルック。髪を切ったんだね」
「……わざわざこんなところまで来てあげたのに、第一声がそれなのかい?」
「うーん。でも、君はこの城を知っていて、けれど石版を守っていなくて…それで、他に何を云えばいいのか、僕にはわからないよ」
「……」

 深夜のことだった。昼間、ユーバーを引き下がらせた魔術師の少女は『ルック』の名を口にしてした。ならば、ルックは――本来であればこの世界から15年前の世界にいるはずのフッチの辿り着いた――ビュッデヒュッケ城を知っていることになる。
 天魁星が現れ、宿星たちが集まり始めたこの城の存在を、彼は知っているのだ。
 けれどここには約束の石版がない。この城にいる者たちの多くが、宿星のことすら知らない。それでもフッチは感じた。

「絶対にね、君が助けてくれると思ったんだ。頼ってばっかりで、どうしようもなく情けないけど、どれでも、きっと助けに来てくれるって」

 だから焦りも不安も抱かなかった。かつて味わった絶望に比べれば、頼るべきものが何一つなくとも、きっと乗り越えられただろう些細な出来事に、まして頼れる誰もがいるのに、何を不安に思う必要があるだろう。
 ビュッデヒュッケ城の人々はみんないい人たちばかりで、その彼らが魔術師の少女――セラとユーバーは、グラスランド全体の敵だと口を揃えていた。その後ろに風の魔法を得意とするハルモニアの神官将がおり、アップルやトウタが瞳をそらした。控えめながらも伏せられた瞳の語る答えは明確であったが、隣にいるブライトの様子が明るいものだったので、こちらの自分がそれほど憂いているものではないと感じられた。
 ルックとは浅からぬ関係を持っている。願う未来とは正反対の答えに辿り着いたとしても、前を見据えるだけの覚悟は持っている。その覚悟が崩れ去るまでにいたっていないのであれば、つまり、ルックの本質は何一つ変わっていないのだ。

「ユーバー相手に無茶したいみたいじゃないか。弱いくせに」
「仕方ないだろ。だって、今までユーバーは敵としてしか会うことがなかったんだから。それに、彼は殺意に素直でそれを隠す必要性すら感じてないし。その殺意は思いっきり、こちらに向いてたしさ。僕の力じゃ、守ってたら、何もかも、失ってしまうもの」
「まったく。君のことを、みんなは変わったって云うけど、やっぱり何も変わってない。そうやって短絡的に動いて、何を失ったって云うのさ」
「掛け替えのないものを失ったよ。でも、僕は僕だもの。そうそう簡単に、変われないよ。変われないから、少しでも強くならなきゃ。少しでもたくさん、いろいろなことを学ばなくちゃ」

 竜騎士見習いとして竜洞に身を置いていた頃から、それは変わらない。少しでも強くなりたい。少しでも賢くなりたい。早く大人になりたい。一人前になりたい。
 そうでなくては、ブラックさえバカにされそうな気がしていた。竜騎士出身でない己のために、立派な翼と鱗を持っている相棒までも軽んじられそうで、言いようのない悔しさに襲われていた。
 きっとブラックはそんなことどうでも良かったに違いないのに。一人で焦って空回って。
 焦りが正確な目を失わせ、自分を過大評価して。周りを過小評価して。

「ねぇ、ルック。僕は、――死ねないよ」

 あの日、ブラックに助けれて生かされたあの夜から、フッチにはもう、まっすぐに歩いて生きていくという道しか残されていなかったのだから。だから、黙って殺される道を選ぶわけにはいかないし、死に対しては全力で抗わなければならなくなった。
 たとえ絶望に瞳を覆われてしまっても、すべてを諦めてしまっても。目的さえなくても、立ち止まることも、消え去る道も失われてしまった。
 そうでなくて、どうしてブラックの主人であったと云えるだろう。なんのために、ブラックは死んだというのだろう。
 半身の死を無駄にするわけにはいかずに意味もなくただ生きていた一年は、けれど決して無駄ではないと、小さな光によって救われた。小さくて、けれど何より大きな光に。

「だから、帰らないといけないんだ。帰れなくても生きるけど、向こうに残してきた小さなブライトには、僕が必要だから。ブライトは、僕を必要としてくれているから」

 せめて伝えなければいけなかった。必要としてくれるその存在が、世界が滅びようとも隣に寄り添うと決めた存在がいる限り、この世のどこにも絶望などないということを。
 そして、彼にとってのその存在が自分ではないことを、フッチは受け入れていた。かつてフッチにはブラックがいて、今、フッチにはブライトがいる。この黒と白の竜が、フッチがこの世の最後まで共にいて、この世の果てまで、フッチの隣にいる存在だと決めたから。
 ルックもまた、すでにそのことを悟っているのだろう。だから、未来にある彼の瞳は、迷いがないにもかかわらず、まっすぐであるにもかかわらず、いや、そうであるからこそ、何もかもを写すのをやめてしまっている。そしてそのために、何にも気づかずにいる。

「もう、覚悟してしまったんだね。いったい何を考えてるのかわからないのは、相変わらずだけど」
「君は、もう帰りなよ。面倒くさいけど仕方がないから。ご希望通り、僕が送ってあげるよ」
「うん…。ありがとう、ルック」

 ルックの魔力が溢れるのを感じた。ロッドは手にしていないが、そもそも魔法を扱うのにロッドが必要なわけではないので不思議ではない。
 フッチの足元を中心に円状の輝きが淡く浮かび上がり、それが時空移動の魔法が発動する前触れなのだとすぐに理解できた。

「ねぇ、ルック…」

 時空移動の光に包まれながら、フッチは最後と云わんばかりに振り返った。
 首をめぐらした背後に見えた緑の魔術師は、魔法を発動させながら、応えを返しはしなかった。けれどルックの瞳は確かにフッチの瞳を正面から捉えていたし、耳を傾けるために魔法の発動を待ってくれているのも分かったので、フッチはかまわず言葉を紡いだ。

「絶望は、自分の心が作り出すんだよ」

 かつて半身を失った日。フッチは深い絶望の闇の中へと落とされた。もう二度と光を感じたくなどないと感じさせるほど、その絶望は嘆きと後悔を道連れにしていた。
 けれど温かな光に照らされて気がついた。絶望を生み出していたのは、他ならぬ自分自身であったと。
 絶望に引きこもったその世界から一歩踏み出す勇気を持てば、そこには厳しさと悲しみと、それを乗り越えることのできる慈しさがあるのだと知った。人間には、そうやって生きていくことのできる強さがあると。
 フッチはせめて伝えたかった。ルックに、いつも一人でいることを好む、不老の魔法使いに。

「そう。でも…僕の絶望は、違うかもしれないだろう」

 静かに伏せられた彼の瞳が、いったいどのような絶望を見据えたのか。それは、彼とは異なる時間に生きるフッチには決して知ることができない。
 だから、フッチは何も応えなかった。応えられるものなど、何一つなかったから。
 そのことが無性に悲しくて泣きたくなったけれど、ここで自分が泣くのはお門違いだと感じたから、フッチは泣くかわりに微笑った。僅かに溢れただろう涙は、きっと彼のためではなく、不甲斐ない自分への悔しさだっただろう。彼のために流せる涙さえないことが、ひたすら哀しくて、悔しかった。
 だって、彼の隣にいてあげることのできない自分が、どうして彼のために涙を流してあげられるというのだろう。そんなもの、きっと彼は嫌がるはずだ。彼への侮辱にさえなりかねないではないか。
 けれどせめて、彼が最後には気づいてくれることを願って。フッチは微笑った。

「さよなら」

 魔法の光に包まれて、フッチは本来あるべき時間へと、その姿を消した。
 魔法使いの立つ背後。窓の外には暗闇が広がり、その空には星々が煌々と輝いていた。










君の背丈(じかん)をやがて越えていく僕だけど。
嘆きの世界を渡ってもなお、世界は眩(まばゆ)く美しいのだと伝えたい。
絶望は自分の心がもたらすのだと、伝えたい。












talk
 ブラックへにするかルックへ(「槍術」の続編というか補足)にするかで迷いました。でもちゃんとしたルクフチって書いてなかったから。それにしてもまだルクフチの距離がはっきりと掴めません…。もっとルックがフッチを甘やかす話も書きたいんですが、フッチしてんだとなかなか上手くいきません(え、十分甘いですか?)。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2005/11/14・15_ゆうひ。
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