旅 











夕暮れ色の空を歩き続けたいと願ったわけではなかった。
 それはあまりにも彼の人生にとって日常的な出来事となってしまっていて。
満天の星空の下(もと)。
木影(こかげ)の下でそれを眺める手には湯気立つカップ。
両手でそっと握り締めるそのぬくもりだけが、まるで唯一の『熱』のようだった。










 竜洞に戻ったフッチに与えられたのは、喜色と祝いに満ちた歓迎というよりも、困惑と疑心を色濃く内包する控えめな歓待だった。
 元々農民出身の彼は、竜洞の中にあっては端(はな)から嘲りと蔑みの対象であった。幼くして竜に認められ、どの竜とも心を通わす彼は、それでも『身分』というカテゴリに支配された社会にあっては最下層の人間だと判断されるのである。
 身の程知らず。
 そう陰口を叩かれながら、幼い彼は自分を大きく見せようと虚勢を張っていた。生意気だと。相対する人に感じさせる彼の態度のすべては、そこから生み出されたものであっただろう。

 彼が自分が笑われること以上に許せないのは、彼が貶められることで、その相棒である漆黒の竜『ブラック』までもが低く見られることだ。彼とブラックを見てくすくすと――これ見よがしに聞こえるように――嘲笑うのにフッチが眉を顰めれば、ブラックは気にするなと彼を諭す。ブラックが、または年上のたくさんの竜が声を揃えてそう云うから、フッチはいつもしぶしぶながらも怒りを納めるのだ。
 それがなければブラックを失うより先に竜騎士資格を剥奪されて、竜洞を追い出されていたかもしれない。たとえば、怒りに任せて衝動的に目上の人間に激昂するなどして。
 彼がそうせずにすんだのは、ブラックだけでなく、他の年上の竜たちもがフッチに対して温かかったからだ。二人はセットで、彼らにとってはまだ卵から孵ったばかりの『雛』だったのだろう。

 フッチが竜洞にいる間、ブラックは最年少の竜だった。それほど、竜の出生率が低下していたのだ。そうであれば当然、フッチは竜洞の、騎竜を持つものとしては最年少になる。
 もっとも今では、竜はともかくフッチ自身は最年少などということはなかったが。
 五年と少しの放浪を終えて戻った竜洞は、フッチが追放された頃に比べて随分と変わっているように感じられたものだった。

 もちろん根幹的な部分は何も変わらない。竜洞騎士団の階位も、それ伴う階層も、騎士と農民という身分差への潜在的な考え方も。その中で随分と変わったとフッチが感じたのには、もちろん理由(わけ)がある。
 つまり、騎竜を持たぬ竜騎士の公認だ。
 それまで、竜騎士とは己の騎竜を持つものにのみ与えられる資格であった。それこそ竜洞騎士団創設期にあっては竜に選ばれなければ決して竜洞騎士団への入団は認められなかった。やがて竜に選ばれなくとも一定の年齢になれば――もっとも、それとて竜騎士の家柄に生まれた人間に限られるものではるが――、入団が認められるようになる。しかし竜を得られなければその地位は永遠に見習いのままだ。従騎士にさえなることは出来ない。
 それが、竜を得ずとも正騎士にまではなれるようになっていた。――もっとも、あくまでも試験に突破できたものに限られてはいたが。

 それほどまでに、竜の数が減っていた。同時に、竜と心を通わせることの出来る人間も。
 一度、まだブライトを失う前だ。竜洞に身を置くようになって間もなくのことだった。疑問に思ったフッチは、竜洞で数少ない信頼の置ける竜騎士に訊ねたことがある。

『どうして、みんなは竜と話さないの?』

 小首を傾げて訊ねるフッチに、その竜騎士は目を見開いて驚愕した。無言のそれは、フッチの疑問を正確に捉えたからに他ならない。
 竜と心を通じ合わせることは竜騎士の基本だ。しかし、それと竜と会話を交わすこととは別物だった。
 この竜騎士はフッチが竜たちのための洞窟――そこは竜の寝所にもなっている――に潜り込んでは、一人、あたかも人間に話しかけるかのように、居並ぶ竜のすべてと会話を交わしているかのようのな仕草をしているという嘲り交じりの噂を耳にしたことがあるからだ。
 おそらく、それを笑っていたものたちは、子供が言葉の通じぬ犬や猫、果ては生きてさえいないぬいぐるみなどを人間、仲間、友人に見立ててお話をするそれと同じ動作だと思っているのだろう。現に、その竜騎士でさえ、そうのように思っていた。
 しかしそれは間違いだったのだ。
 この子供は、竜と心を通わせている。言葉を交わせるほどに――。
 フッチは黙して驚くその竜騎士の反応を見て、竜と心を通わすことと、言葉を交わすことの間に大きな差があることを、なんとなくではあったが、実感したのだった。




 そうして、フッチは相変わらず竜洞にあっては異質であり続け、さらに異端になる運命を負った。




 竜洞にあって、彼ほど外の世界に通じている人間はいない。竜を失い、竜騎士資格を剥奪された人間が、過去に類を見ないことと同様なほどに。

 トラン共和国を後にして、さまざまな地を回った。クールーク皇国、群島諸国、ファレナ女王国。そうして辿り着いたデュナン地方の都市同盟で、彼はその人生で三度目の転機に出会う。
 ブラックに選ばれたときが一度目。
 ブラックを失ったときが二度目。
 そして、ブライトをその腕に抱いた。
 そこに辿り着くまでに三年掛かった。正直に言えば、フッチがその三年という月日に成し得たことなど何もない。
 喪失感、後悔、自己嫌悪…。負の感情ばかりを抱えて、無意味に呼吸を繰り返しているばかりの日々。常に視線は足元ばかりに向いていた。
 顔を上げることなど出来なかった。その先には抜けるような青空が広がっていて、そこは、もう二度と戻ることの出来ない場所で――それでいて、永遠に恋焦がれる場所であったから。
 恋焦がれるというよりは、本来あるべき場所に思いを馳せるといった方が正しかった。彼にとって大地を離れて昇る悠久の世界こそが心安らぐ場所だった。太陽の日差しも、吹く風も、打つ雨でさえ、何もかも。

 それからグラスランドを抜け、ハルモニア神聖国に入った。
 結論を言えば、そこでも得られたものは何もない。そもそも、いくらハルモニアであるからといって、竜の紋章さえその手に置く竜洞騎士団よりも竜に関する書物を、知識を所蔵しているはずもなかったのだ。
 もっとも竜と身近な竜洞にあってさえ、ブライトのように小さく生まれる竜の例はない。まして白い竜など…。竜の鱗の色彩は多種多様に及ぶ。それであるにもかかわらず、存在しなかった『白』い竜の存在。

 もちろん、そこには竜洞の所蔵しない竜関連の書物もいくつか存在はしたが、それらは概ね竜に対する悪イメージの内容ばかりだった。
 竜洞にとって竜はかけがえのない存在ではあるが、通常、その外にあって竜とは『モンスター』でしかないものが一般的だ。そういった書物が多いことは不思議ではなく、しかし竜洞にそれらの書物が置かれていないことも当然のことといえただろう。

 何も得られなかったことは、フッチに少なからぬ落胆をもたらした。ブライトは意気消沈するフッチの横で、相変わらずの能天気なつぶらな瞳で自分の保護者を見上げる。
 小首を傾げてしばらくはその様子を見ていたが、やがてすぐにその裾を引っ張り、構って欲しい旨を全身で伝えてくるのだ。
 フッチがそんなブライトをみて微かに微笑んだ。すると、無口な彼の旅の連れが珍しく自ら口を開いた。

「ブライトは竜か分からない。だが、竜ではないこともわからない」

 『大刀』の異名を持つ彼の保護者は云い、結局、彼らは竜洞への道を返すこととなった。

 そうしてヨシュア直々にブライトは竜であるとお墨付きを貰い――それがヨシュアなりの茶目っ気だと、フッチには分かっていた。
 おそらく、本物の竜であるか否かなど、ヨシュアにさえ、分からないに違いない。
 フッチは晴れて、竜洞騎士団へと復帰することとなったのである。





 フッチは竜洞から離れたこの土地で、かつての旅を思い起こした。夜空に透かし見るそれに、この旅に出るきっかけとなった――或いはこの旅の目的ともいえる――出来事が重なる。
 それは金の髪を持つ副団長の言葉だった。



 フッチ。あなたはこの竜洞騎士団にあって、他の団員よりも少しだけ異質な存在だわ。
 他の団員は――それは私も含めて、あなたほども外の世界を知っている人間は少ないわ。
 あなたが外の世界を広く知っている。
 このあなたの異質さは、この竜洞にあって、限りない可能性であると、私は思っている。
 旅に出なさない。そうして、もしまた、ブライトのような『はぐれ竜』を見つけたら、ここへ導いてあげて。
 あなたになら、きっと、モンスターと成り果てた竜でさえ、その自我を再び取り戻すことが出来ると――。私の、その『希望』を、できれば現実の姿にして見せてほしいの。



 両肩に掛けられた白く繊細で、それでも鋭い槍術を繰り出し竜の火炎にさらされたその手の力強さ。それに信頼されているという誇りとともに、フッチは姉であり、母であり、師であり、そして上司であるその女の命(めい)を受けた。
 しっかりと、正面からその柘榴色の瞳を受けてとめて、フッチは頷いた。そこには、旅をして幾重にも逞しくなった、少年の柔和な笑顔が浮かんでいた。
 その微笑につられるように、ミリアも微笑み、偶然その場に訪れたまだ小さな『シャロン』が、母と兄の横でどうしたのか、自分も仲間に入れろとせがみながら、ぴょこぴょこと元気良く飛び跳ね、二人は顔を見合わせて苦笑した。










竜に選ばれる。そんなこと、一生に一度あることさえ稀なのに。
僅か三年で。人々は口を揃える。
二度も竜に選ばれる。きっと竜と余程の縁(えにし)があるのだね。
人々は口を揃える。驚き、笑い、嫉み、嘲り。幾つもの表情が並ぶ。彼を取り囲む。
けれど彼は思うのだ。三年もだと。
三年も、自分の魂は命(意思)もなく、ふらふらと彷徨っていたのだと。
その果てに出会った小さな命は、まさに彼にとっての『光』。
けれど彼は思う。そうしてと思う。誰が決めたのだと思う。
竜との出会いがこれで終わりだなどと、誰が決めたというのかと。
旅は終わらない。きっと、永遠に。
生きている限り、出会いの費える日々は、来ないのだから。













talk
 ずっとハルモニアへ向かう途中を書こうと思っていたのですが、どうしても書き出せませんでした。考えた結果、18歳くらいのフッチによる在りし日の回想と相成りました。これを書いてて年齢を再び確認する必要に迫られ、年表を作成するにいたったという裏話があったり。
 いやぁ…この話は、自分の迷走っぷりがありありと分かる支離滅裂さに満たされておりますね(遠い目)。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2006/06/04・0701_ゆうひ。 2006/07/17_一部改定。
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