髪結い 




 気がつけば、毛先が肩を越えるほどになっていた。






 フッチが久しぶりに魔術師の塔を訪れた時、ルックはまさに正装の真っただ中であり、小さなセラは邪魔にならぬように――それでもルックからはセラが、セラからはルックの姿がしかと確認できるところで――絵本を開いていた。
 ブライトから身軽に居り立てば、初めに気がついたセラが顔を上げて目を輝かせる。すぐに立ち上がりフッチへと駆け寄ってきた。

「フッチお母さん、お久しぶりです」
「久しぶり、セラ。でもお母さんはやっぱりやめてほしいかも」
「そうなんですか?」

 苦笑うフッチにセラは小首を傾げる。彼女にってルックは父であり、フッチは母であるらしかった。ブライトにとってのフッチが、まるで母であるようなことも、そう思わせる要因の一つかもしれない。
 フッチが口を開こうとした時だった。

「痛、」

 頭に軽い衝撃が襲い掛かり、フッチは反射的に声を上げた。痛みに片目を閉じながら頭上に手を添えて摩る。どれもこれも反射にも等しい、大した意味を持たない行為だ。
 掛けられた声はフッチの頭目掛けて雑巾を投げ付けた犯人のものだった。

「ひどいよ、ルック。いくらなんでも雑巾を投げ付けるなんて」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
「どうでもよくないと思うんだけど…」

 語調が怨みがましくなってしまうのは仕方がないことだとフッチは思う。

「はいはい。それよりせっかく来たんだから、掃除でも手伝っていったら」
「……それって『せっかく』にならないよ」
「つべこべ言わない。こっちは毎日やってるんだ。たまには家事労働にいそしみなよ」
「…云われなくても、毎日やってるよぉ」

 年齢的なこともそうであるが、何より、フッチは一度竜騎士資格を剥奪されている。再びその資格を与えられ竜騎士の資格を得たが、だからこそ、風当たりは強かった。
 農民のくせに。むざむざと竜を死なせたくせに。
 竜騎士資格を剥奪された時点で、フッチの竜騎士見習いとしての経歴はすでに四年にも及んでいた。それはまだ幼いということが最たる理由ではあったが、放浪の間に幾つもの戦乱に遭遇し、心身ともに成長して戻った彼が未だに見習いとして遇されるのは、つまるところ、その風当たりの為であった。
 掃除や洗濯、食事の準備などといった雑務は、見習い騎士の仕事だ。

 フッチの些か情けない呟きは聞こえているだろうに、ルックはきっぱりとそれを無視したから、フッチはやはり、ただ力く苦笑するのであった。





「う〜、髪が邪魔だな。ねぇ、何か止めるものないかな」

 箒を掃きながらだった。顔をした向ければどうしても落ちてくる髪にフッチが零す。手で髪を結えるように抑え込む仕草をするフッチに反応したのはセラだ。
 俄かに立ち上がったと思ったら、部屋の隅へ走り、棚の上の宝石箱の中からごそごそと何かを探す素振りを見せる。
 真剣なその薄理姿を見ながら、フッチとルックは互いに顔を見合わせて首を傾げるのだった。

「はい、これです。セラの髪留めを使って下さい」

 漸く目的のものが見つかったらしい。嬉しそうに振り返り、とてとてと愛らしい動作で駆け寄ってくるその手の上にあるのはかわいらしい飾りのついた、髪を括る為のゴムだ。

「セラがとめてあげます」

 それはフッチが身に着けるには余りにも躊躇いたくなるほどかわいらしいデザインであったが、断ることなどどうしてできよう。きっとセラの宝物なのだろう。大切に大切に、きらきらとした宝石箱の奥に、隠すように仕舞っていたはずだ。自分で使ってそれが損なわれてしまうことを躊躇うほどに大切にしているだろうそれを、フッチの為にと躊躇いもせずに差し出してくれているのに。
 フッチは床に腰を下ろした。それでもセラは背伸びをしなければその髪に手が届かない。
 小さな手で櫛と髪と輪ゴムと格闘するその姿は微笑ましい以外の何と表わせばいいだろう。

「う〜。あんまり上手くとめられません」

 出来上がりに納得がいかないらしく、消沈するセラに、フッチは苦笑を洩らす。確かにそれはいろいろなところから髪がこぼれてしまっているものだったけれど、もともとフッチの髪はしっかりと束ねられるほど長かったわけでもない。おそらくはフッチ自身や、もしくはルックなどがその髪を纏めたところで大差ないものが出来上がったことだろう。
 けれどそれを云ったところでセラが慰められるとは到底思えない。フッチは何も云わずに、感謝の意をこめてセラの頭を優しくなでる。
 声をかけるのはルックだ。慰めや優しさとはほど遠い声音と口調で、けれど彼の気遣いを感じ取れない人間は、この場にはいない。

「セラが落ち込むことなんてないよ。こんな中途半端な髪でいるこいつが悪いんだから」
「あはは」
「へらへらと笑ってないで、さっさと掃除を終わらせなよね」
「はいはい」

 フッチが再び腰を上げた時だった。ぐっと両手に拳を握り、セラは決意も新たに口を開く。

「わかりました。セラは、お母さんの髪が今よりも長くなったら、がんばります!」

「…」
「……」
「…………」
「………………」
「…くくく。あはは。それはいい。――フッチ、君、暫く髪は切れないね」

 珍しく声を上げて笑うルックを珍しがる余裕もない。フッチはぽかんと目も口も開けて、宣言するセラの意気込みに圧倒されるばかりである。
 そろそろ髪を切ろうかな。そんな風に思っていたなんて、とても口にできる雰囲気ではないそこで、フッチはこれから先、自分の髪がどこまで伸びることになるのだろうと、ぼんやりと思いを馳せるのだった。









 ああ、こんなに伸びてしまった髪を、結ってくれるといった君が、もういない。






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 順番通りの更新を諦めました。書けるところから書いていかないといつまでたっても終わらない。
 ルックとセラとフッチ。この三人が親子しているのが大好きです。
 ご意見ご感想お待ちしております。_(c)2007/10/24・1103_ゆうひ。
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