エデン〜僕に出来る唯一のもの〜

 

 

 僕が君に殺されたとき、君は確かに涙を流したんだ。
 僕は白んでいく視界の中で確かにそれを見たし、冷たくなっていこうとしているその身で確かにそれに触れた。
 動かないその身で受けた雫の全てを、かすんでいくその意識でそれを感じた。
 君が僕は殺したのは、きっとそのためにあったんだと。
 僕はそう理由をつけることで、君が僕を殺したことを。
 僕を君に殺させることを正当化したかった。
 
 
 雨が降っていた。
 朝から降り続いたその雨は、夕方に近くなった今も止む気配がない。
 君が僕を殺したのも、こんなふうに雨が降り続く。そんな日だった。
 その日、君は一日中黙って俯いていた。
 抱えた膝に額を埋めて、たった一人で何かに耐えていた。
 僕は、そんな君をただ見ていることしか出来ずに。
 まるでその日の空色そのままに。
 僕と君の心と。
 僕と君のいたその空間は、重く沈む色に染まっているようだった。
 
 
 僕らが生まれたのは、僕らにとっては少し歪んだ世界だった。
 他の人々が自然に受け入れる事が出来るものが、僕と君には苦痛で。
 特に、君にとってはどうしようもない程に耐え難いものだった。
 僕はそうなのは、ただ僕が普通以上に歪んでいたせいだったけど…。
 君の場合はその逆。
 純粋で、真っ直ぐすぎたんだ。
 君は自分がその歪みのために狂っていくことに耐えられなかった。否、その歪みに狂っていっただけなのかもしれない…。
 狂ってゆくことに耐えられなくて狂ったのか。
 ただそれで狂っただけなのか。
 僕にはわからない。
 君が狂ったこと。
 理由なんてわからないけど、それだけはたがえようのない事実。
 僕にとって最も重要なのはそれで、理由なんてどうでもいい事だから。
 
 
 僕らの生まれた世界は、きっとどこよりも美しい。
 美しくて、豊かで。
 誰も夢見る世界。
 誰も満足する世界。
 そして。
 誰も何も考えない世界。
 
 
 人々は皆。
 自分は自分の意志を持ち、自分の意志で行動していると思っているのだろう。
 それはある意味間違いではない。
 彼らは彼らの――この世界を支配する絶対を信じて行動しているのだから。
 一指乱れる事のない彼らは。
 もしそれが無くなってしまった時に自分らが動けなくなる事を知らないのだろう。
 
 
 この世界を満たす絶対。
 君と僕は、それのもたらすルールを受け入れる事が出来なかった。
 
 
 何故その絶対に従わなければならない?
 
 
 君はいつだってそう言っていた。
 悩んでいた。
 
 
 知っているかい?
 この世界で悩んでいるのが君だけであるということに。
 他の奴らはただ受け入れるだけ。
 それの意思も考えない。知らないのに…。
 それが何故僕らにルールをもたらすのか。
 この世界でそれを知っているのは僕だけ。
 だから僕は悩まない。
 
 
 悩んでいる君に、その答えを知る僕は何度その答えを伝えようとしたのだろう。
 この世界で苦痛を味わう――知っている――のは君と僕だけ。
 僕は君の苦痛がどんなものなのかは知らないけれど。
 君が苦しむ事が、僕には苦痛だった。
 だから。
 もう何度かすらもわかない程に。
 君に僕の知るすべてを伝えようとした。
 でも。
 僕にはそれが出来なかった。言うわけにはいかなかった。
 許されない事だった。
 僕には何も出来なかった。
 それが僕の苦しみ。
 君が苦しんでいるのをただ見ていることしか出来ない。
 全てが押し潰されるほど苦しかった。
 その時の僕と君は。
 実によく似ていたことだろう。
 
 
 僕は君を抱きしめてあげるべきだったのだろうか。
 今更僕は悩んでいるのだろうか?
 その時は思いもしなかった。
 だって本当に、僕にはただ見ていることしか出来なかったから。
 …。
 やっぱり悩んでなんかいないんだ。
 僕は僕のやるべきことを知っていたし、僕がやってはいけないことも知っていた。
 だからこれは後悔。
 それに逆らう事が出来ずに過ごしてしまった事への自己嫌悪。
 
 
 君はこれからここを出ていく。
 僕を殺すことで、君はそれをする事を許される。
 それは、それをした者にとっては罰なのだろうけど。
 君にとっては何よりの癒しとなるはずだ。
 君は、君の悩みの答えを見つけられる。
 僕は、君がそれをするための路へと続く扉を開く鍵。
 僕はそう理由をつける。
 僕の死に意味を持たせる。
 君に殺されることに。君が僕を殺すことに意味をつける。
 そうすることで、僕は最後に癒される。
 自己満足の。自己完結の、癒し。
 僕が君に殺される。
 それが、僕の君に対する唯一の償い。
 苦しむ君を見ていることしか出来なかった――見ていることしかしなかった僕の、償い。
 
 
 その日は雨が降っていた。
 その日、僕にはある予感があった。
 もしかしたら、それすら僕は知っていたのかもしれない。
 ただ忘れていただけなのかもしれなかった。
 どちらにせよ。
 その日、僕は君の元へと訪れた。
 君は明かりの灯っていない、暗いその部屋の隅で。
 膝を抱えてじっと何かに耐えていた。
 陽の差さないその日。
 明かりの灯っていない部屋。
 隅。
 君は影の中に一人いた。
 
 
 僕はそんな君を見つけて思った。
 否、むしろ何も感じなかったといったほうが良いのかもしれない。
 いつも締め付けられるほどに苦しくなるこの胸が、その日はとても大きく広がるような――まるで何もない広大な草原に突然その身を置かれたような。何ともいえない広がりを、その心に感じた。
 僕は君に歩み寄った。
 君の前に僕が佇み。それでも君は顔を上げる事はしなかった。
 僕の言葉に、君は弾けるようにその顔を漸く上げて。
 ――僕の顔を見つめる。
 その表情はどこまでも複雑なものだった。
 驚愕。
 そう表してよいのだろうか。
 今にも泣きそうに歪められたその表情で。
 大きく見開かれたその瞳で。
 君は僕を見つめる。
 
 
 君は震えるその両の腕をゆっくりと僕の方へと伸ばしてくる。
 君の少し冷えた指先が僕の首に触れる。
 君のその手が徐々に僕の首を締め付けていく。
 ゆっくりと僕の瞳は閉じられていく。
 僕の口から意味のない音が洩れていく。
 意志とは関係なしに、身体は空気を得ようともがいている。
 君は脅えた表情で。
 それでも、その震える腕が僕の首から離されることはない。
 
 
 そうやって。
 その日君は僕を殺し、涙を流した。
 
 
「僕を殺して」
 君の前に立って僕がそう言うと、君は弾かれたように顔を上げ。
 そうして涙を流した。
 
 
 君はこれからこの楽園を追放されて。
 そうして君は、きっと自分で答えを見つける。
 僕はそのきっかけとなる。
 
 
 それが。
 僕が君に出来る唯一の償い。
 
 

  書いててすっごく楽しかったです(笑)。
  もうさらさらっと、文が続いていきました。
  はじめに思いついたのは最初の一文だけで、それは文ですらなかったのですが…。
  こんなに文が続くとは思いませんでした。

 

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