+ みみとしっぽとふわふわで/4 +















明日に思いを馳せ
昇る朝日に希望を抱く
そんなもの、幻想だと思ってた














 気づくの遅すぎ。





 心の赴くままに行動することは、決して間違っているとは思わない。だからといって、心の赴くままに行動すれば正しいかといえば、それまた違うだろう。
 しかし、このときのカズマにとってその身の内から沸き起こってくる思いを行動にせずにいられる理由がなかった。それまでずっと、彼は自分の心に自分で決断を下してきたからだ。行動へ責任は今更考え自覚し直す必要などない。なぜなら、そんなものは彼が生き続けているその一瞬一瞬の中で、常に覚悟としてその胸の中に落ち着いて、燻(くすぶ)り続けているのだから。

 この世が常に生命の呼吸に満ち溢れている限り、完璧など存在しない。それはすべてに当て嵌まり、だからこの整備された美しい街にも当て嵌まった。
 美しい街の裏路地は、街を囲む壁の外側よりも暗く澱んでいて、むしろそちらの方がカズマにとっては安心できた。安心できるというよりも、自分にはそういったところが似合っていると、意識せずとも無く思っているからかもしれない。どちらにせよ、そういったところでの生活の仕方を、カズマは良く良く心得ていた。

 隆起したこの大地は、夜になればどんな季節であっても多少は冷え込む。カズマには暖をとるものがなく、けれど彼はそれにも慣れていた。汚れのこびりついた壁と壁の交差点に蹲るように丸く横になると、そのまま瞳を閉じる。眠りにつく。警戒心は怠らない。
 ゆっくりと沈んでいく意識の中で、明日のことを考える。また、あの紅い瞳に会いに行こう。どうしてそう思うのかはわからない。ただ、ずっとわくわくしている。ずっと、何かに後ろ髪を引かれているような感覚。
 会いに行こう。
 そんなことをぼんやりと考える。眠気が思考を鈍らせる。考えはまとまらない。ただ、一つのその思いだけが、どうにか明確な形となって、眠りに落ちる前、心の中に溶けていった。





 道を覚えるのは苦手だ。道に限らず、カズマは物事を覚えるのが苦手だった。本当に覚えておきたいものはその限りではなかったが、たいていのもの――食料以外に関しては特にその傾向が強く――は彼にとってはどうでもいいことであったし、それで困ることもなかった。
 そして今回に関しても彼はやはり困ることがなかったので、これから先、彼が自分で何かをきちんと把握して事を進めていこうとすることはほとんどないだろう。
 そう、あの紅い瞳の少年の居所――一際立派なお邸は、街のどこからでもすぐにわかるし、街の中へと歩いていけば、必ず突き当たった。覚える必要性はどこにもない。

 ぐるりと高い壁で囲まれたそこへ来るのは二度目だった。カズマは自分の何倍もの高さの壁を軽く跳び越え、流れるような動作で着地する。彼の輪郭が虹色に輝いたようだったが、それを証明する物はどこにもない。防犯カメラも番犬も、まるで彼の存在を隠されたかのように、彼を写すという機能を停止させていた。

 目的の人物のいるところはすぐにわかる。根拠など何一つしてないけれど、それとて、カズマにとってはいつものことだ。ただ、自分の勘にかなりの自身を持っていたし、それはたいてい彼を裏切ることはなかった。
 今回もそう。

 コンコン。と、その向こう側に目的の人物の本を読んでいる姿を目に捉えながら窓を叩く。そこですぐに少年は気づき、カズマを部屋の中へと招き入れたが、カズマは彼が窓をノックされてようやく自分の訪問に気がついたという事実に幾分か気分を害していた。もっと早く、それこそ、カズマ自身がこの邸を囲む壁を乗り越えたと同時に気がついてくれるくらいのことを、無意識に望んでいた。
 だから、その言葉もまた、意識せずに口から零れ出たものだった。

「なんだよ、もっと早く気がつくと思ってたのによ」

「ごめんね」

 カズマの台詞に、あまりにも意気消沈して謝る姿を見れば、もともとそんなに腹を立てていたわけでもないから、すぐに気分は回復した。何気なく口にした言葉を思いもかけず重く受け止められたようで、むしろカズマは自分の方が悪いような気になってくる。そんな自分の考えに、そんなことはないと思いっきり自分自身で否定しながら、それでも一応は、ちょっとは、本当に本当にちょっとだけれど、自分にも責任があるかもな〜…と思ったり。
 だから、場が微かに固くなったことに僅かながらの責任を感じて、勤めて明るく振舞おうと口を開いた。

「昨日、お前が名乗りたそうにしてたから、わざわざ来てやったんだぞ」

 口をついて出た台詞は、変な照れ隠しみたいで、カズマはますます仏頂面になった。なんで自分がこんな言い訳をしないといけないのか。自分は自分の思う通りにしてるだけで、別に誰の思惑を気にしているわけでもないのに。
 そもそも目の前にいるこの少年がカズマの訪問に気がつかずにいて、そのせいで会話が途切れたからだ。だから、こんなふうに自分の方からわざわざ口を開いて何か会話の口火を切らないといけなくなったからだ。もともと誰かと他愛もない話をするなんていうのは性分ではないのだ。会話を振られれば答えるが、自分からそんなことをしたことはないのだ。だから、あんな言い訳みたいな台詞が口をついて出てしまったのだ。他に…他には何も、話のネタになるようなものがなかったから…。
 けれど、そんなふうにいろいろ考えたことは、その少年の次の言葉でみんな吹っ飛んでしまった。

「ありがとうございます。…それで、カズマ」

 嬉しそうに、何がそんなに嬉しかったのかはまったく持ってわからなかったけれど、本当に嬉しそうに微笑って、名前を呼ぶから。
 だから、恥ずかしくてバツが悪くて、いろいろ考えてた言い訳なんて全部、吹っ飛んでしまった。

 本当に、なんでそんなに嬉しそうに微笑っているのかがあまりにも不思議で、思わず小首を傾げれば、少年の微笑はさらに深まったようだった。
 きれいなきれいな、吸い込まれそうに深い紅い瞳が、喜びに満ち溢れているように見えるのは、カズマの錯覚だろうか。開かれる口の動きが、やけにゆっくりとした動作で瞳に写った。

「今度は、僕の名前を聞いてくれますか?」

 すぐに答えられなかったのは、云われた言葉に意味が瞬間的に理解できなかったからだ。どうやら随分と深くその笑顔に引き込まれていたらしい。
 言葉の意味がわかると、今度はなんだかやたらと楽しくなった。何かとてもつもなく楽しいことが見つかって、わくわくどきどきする感じ。だから自然と表情は笑みをかたち作った。言葉だって、さっきよりもずっと自然に出てくる。こっちの方が自分らしい気がする。
 そんなこと、きちんと考えたとなんてないけれど。

「云っただろ?そのために来てやったんだって」

 その台詞を紡ぎ出した声が弾んでいることを認めないわけにはいかないだろう。
 彼の名前を自分に刻み込む。
 きっと、これからもっと楽しくなる。なんの根拠もなく、そんな予感がした。
 きっと退屈しない。ずっと心が躍るようなわくわくとした律動に、胸が弾むだろうと。今までにないくらいに、何かにがむしゃらになるような。
 そんな予感に満ち溢れて、笑わずにはいられなかった。





 カズマの腹が鳴った。思えば朝起きてからまともに…どころかまったく食事をしていない。
 劉鳳はそれを聞くと慌てて部屋を出て行き、すぐに両手にいっぱいの甘い香りの菓子やら何やらを抱えて戻ってきた。
 それを見て、カズマは大喜びでそれらに猛烈な勢いで手をつけていく。こんなに甘くてやわらかくて暖かいものを食べたのは初めてだった。菓子に夢中になっていたカズマは、だから突然の劉鳳の問いかけの意味がとっさに理解できなかった。
 自分でも、気にしていなかったことを不意打ちで尋ねられたからでもあった。

「あの…うちの中に、どうやって入ってこれたんですか?塀があるし、それを越えられても今度は警報が鳴るし、ガードドックもいるのに…」

 壁は跳び越えた。そういえばへんな機械がくっついていたような気がする。何匹もの犬もうろちょろしていた。たしかに、普通は簡単に入ってはこれないだろう。
 カズマにだって、これが所詮犯罪だということくらは理解していた。他人の家に無断で侵入しているのだ。これが自分の家へ他人がということだったら確実にその相手をボコッている。
 ここは正直に話して謝るべきなのだろう。少なくとも、劉鳳は話せばそれをきちんと聞いてくれるように見えた。それでも、正直に話すのは躊躇われた。躊躇いというよりも、それは条件反射だ。真実を語ることを拒むそれは、もう反射的なことだった。

「は?…ああ、それは…ええっと、その…企業秘密だっ!」

 カズマは基本的に嘘が苦手だった。だから、真実を隠すときは大抵の場合じっと口を引き結んで黙するか、あとは意味の通らないことを言ってごまかすか。その誤魔化し方にしたって、あまりにも強引でわざとらしい。
 自覚はあっても、それはもう性分でどうしようもないような気がした。

 自分から真実を話せば、きっと彼はそれにきちんと耳を傾けてくれる。受け入れてくれる。そんな気がした。
 それでも、心の一番深い部分がそれを怖れるのだ。
 真実を告げて、あるいは意図せずにばれたときに、いったいどうなったのか?どんな目に合ったのか?忘れたわけではないだろう?
 そうやって、話してしまいたくなる自分の心に歯止めをかけてくる。
 その相反する感情が、たった一人の自分の中に渦巻いて、気持ちが悪かった。自分で自分が嫌になる。それが、苦しかった。

 幸いなことに、劉鳳はそれ以上その話題を続けてはこなかった。
 その後はただ特別な会話はなく、カズマは相変わらず菓子を貪り食い、劉鳳は黙って本を読んでいた。
 カズマは時々、劉鳳の読んでいる本に興味を示し、説明を求めて説明されてもわからなくてすぐに飽きて。
 劉鳳は時々、カズマの菓子を食べている姿を見て苦笑をし、自分では一週間かけても食べないような量のお菓子はそれでもまだ足りなくて、補充に行って。
 日の暮れるまで、静かな部屋で二人。そこは、かつてないほど心地良い空間に思えた。

 話すことは、本当に他愛もないこと。
 今日の天気や明日の天気。昨日のこと、カズマに出された菓子について。思いついてはぽつぽつぽつぽつ。取り止めもない話をしていた。
 本当に聞きたいことも言いたいことも、お互いに口には出せないままに、それをお互いに感じながら。それでも、心地良い空間だと感じた。
 温かな時間だと思った。

 日が暮れれば、劉鳳は夕食の時間だとカズマを困ったように見てきた。だから、カズマはもう帰ると口にした。

「ま、待って。あの、夕食、食べて行かない?父様も母様も、きちんと説明すれば喜んで迎えてくれるよ、きっと。僕、ちゃんと説得するから」

 思いがけなかった劉鳳のその言葉が嬉しくて、泣きたくなるほど切なかった。
 それは、劉鳳がカズマに本当に言いたいことの一つだったのかもしれない。必死に言い募ってくるその態度に、カズマは自分の胸が締め付けられるほど苦しくなるのを感じる。
 嬉しすぎて、泣きたくなる。嬉しすぎて、苦しくなる。
 そんなことがあるだなんて、この時まで、カズマは考えたこともなかった。

「…なんて?」

 けれど、口をついて出てきたのは自分でも信じられないくらいにそっけない言葉。静かな声音。胸中に渦巻く様々な心のすべてを押し込んで、ようやく出せたたった一つの返事。
 自分のその声に、カズマは逆に心を落ちつかされていくのを感じた。
 自分が、彼に云うべき言葉はわかっている。

「オレのこと、なんて云ってきちんと説明すんだよ」

「それは…」

 呆(ほう)けたようにカズマを見つめる劉鳳に、カズマはことさら冷静に告げた。劉鳳は言葉に詰まって視線を彷徨わせる。
 その様子に自嘲めいた苦笑が湧き上がってきて、カズマはそっと劉鳳から視線を外した。床に目を落とせば、やわらかで温かで、毛足の長い絨毯が目に映る。素足のカズマのひびだらけの足と、磨かれた靴に守られた劉鳳の足も一緒に。

「…オレは、別に…お前のこと、嫌いじゃないぜ」

 何が云いたいのかなど、何を云うつもりだったのかなど、カズマ自身にさえわからなかった。それでも、口を開けばその言葉を聞こうと顔を上げてカズマに視線を、注意を向けてくる劉鳳の様子がわかったから、言葉を止めてはいけないような気がした。
 空がものすごく朱くて、一度視線を外せば、次はもう紫色に染まっているだろうと、ぼんやりと考える。
 劉鳳はただ黙って、カズマを見つめている。

 劉鳳へと視線を向ける。その瞬間に、今まで頭の中で霧状になって霧散していた思いが固定化されて、はっきりとした形を成したような感覚に襲われた。カズマ自身にしてみれば、別にどんな感情に襲われたわけでもない。ただ、自然と、流れるままにそうなっただけのことだった。
 劉鳳に微笑いかけたのも、そうして口にした言葉も。
 ただ、そうなっただけのこと。深く考えてことを起こしたわけでもないし、まして何か強い感情に突き動かされて意を決してなんて…なんてことは無論なかった。

「だから、また、明日も逢いに来てやる」

 それだけ云って、バルコニーへ飛び出した。
 手摺に手を掛けて、一気に跳び下りる。やわらかな草の生え揃った地面に着地して、そのまま瞬間の静止さえせずに走り出す。
 来たときと同じように壁を跳び越えて、再び裏路地へと足を向けた。

 初めて食べた菓子の甘さが、口いっぱいに広がっていた。
 それ以上に、心の中が暖かみを持つ躍動感に満ちていた。

 陽はもう完全に暮れている。
 淡く冴え渡る月明かりだけが、夜空よりも尚暗いその影を映し出していた。















何もない道でも
歩き続けることに意味があるのだと

明日に広がる空を見て信じ始めてる





















----* 
こめんと *--------------------------------------------------

 この話って、書くのにすっごい気力がいるんですよ。それこそ普通の短文の3倍くらいは!ってなわけですっごい久しぶりです。誰も今までの内容なんて覚えてないんじゃないでしょうか?少なくとも私は忘れてました。大筋しか覚えてなかったので、文体とかわけ分かりませんでした。必死で読み返し〜。レイアウトも古くて泣けてきます。でもこのまま揃えていこうと思います。
 ご意見ご感想いただけると嬉しいです---2004/01/31


---------------------------------------------* 
 もどる  *----