きみがすき 2 










 自分よりも幼い少女が、自分の身の丈よりも大きな農具を担いで田畑を耕していた。その背にはまだ乳離れも済んでいないであろう赤児を背負い、豆の潰れた血だらけの手と、汗と土に汚れた額には汗が浮かび上がり。それでも力強さを失わぬ瞳の輝きに眼を奪われていた。

 その日、劉鳳は父の大蓮に連れられて馬車の中にあった。二頭立ての小さな馬車で回るのは、父の――いづれは劉鳳が受け継ぐことになるはずの――領地である。領地の――そこで暮らす小作人がどういった生活を営んでいるのか、その実情はどういったものであるのかを、直に見て確かめてもいい頃だという父の判断に従ってのことだった。
 はじめて眼にする小作人達の様子は、劉鳳が考えているほど荒れたものではなかったが、彼が考えも及ばぬほどに貧しいものだった。いったいどのようにして生活を営んでいるのかの細部が、彼にはまったく思い描くことができないのだ。まるで――まるで物語を読むときのようだ。物語の中に描かれる登場人物以外の人間が存在していることを意識しないように、それらを思い描くことができない。国があればそれに見合った人間がいるはずなのに、物語の国にはまるで描き出される数人の登場人物しか生きていないかのような錯覚を受けるように。

 人々の姿は大差なかった。みな似たような汚れの落ちきっていない、くたびれた服を身に着けて、手にしているのは鍬や鋤といった農具。男も女も――もちろん子供も働いている。例外はない。
 その中にあっても、その少女は異様であるように劉鳳の瞳には写った。
 その少女は汗の浮かんだ額を右の腕で拭っていた。後ろ背に背負われた乳飲み子は体が揺られても泣きもせず、ぐずりもせずにじっとしていた。
 汗と共に疲れを振り払うかのように少女が頭を横に振れば、くせのある赤茶の髪が揺れる。少女の立つ農地が他の者たちに与えられたそれよりも広大に見えたことに眉を顰め、劉鳳はようやく少女へ対する違和感へ気づいたのである。
 少女の周囲には、誰も大人がいないのだ。
 働き手の中心はどこも大人であるのに、少女が耕しているそこには大人は見当たらない。少女が一人で耕していた。彼女の両親はどこにいるのだろうかと、劉鳳は視線を少女の周囲には知らせてみるも、それらしい人はどこにも見出すことができなかった。

 少女の両親は彼女の妹が生まれてすぐに揃って他界していたことを劉鳳が知ったのは、それからずっと後のことだった。
 少女を見かけるたびに疑問を抱き、しかし何を確認することもできずに何年もの月日が流れ、父親の手伝いを本格的に行うことができるだけの力を身につけ始めて、ようやくそのことを知る機会に恵まれたのだ。
 ただ父親に聞いただけのことだったが。
 なぜ、子供だけに農地を貸しているのかと、その管理についてを任された頃になってはじめて気がついたかのように。

 いつも少女は一人で畑を耕していた。小さな妹を背負い、なぜ一人でそれだけ頑張れるのだろうかと、いつもいつも、遠くからただ思うだけだった。

 なぜ、彼女の瞳はあんなにも力強いままなのだろう。

 農具を手に取ってみた。それは体格にも恵まれた男の彼にもずっしりとした重みを感じさせた。加えて彼は体を鍛えていたし、食事だって贅沢なほどきちんと取れている。
 逆に彼女の腕はなんと細いのだろう。腕だけではない。足も、首も、腰も。掴めば、その手首はこの手の平にどのような感触を与えるだろうか。
 鳥の骨のように、細く頼りないのではないだろうか。その細い肩に、どれだけの物を背負い、そして尚あのような農具を振り上げて、毎日を汗と土にまみれて過ごしているのだろう。いつだって、その瞳には「弱さ」が過(よ)ぎることがない。
 妹の瞳には、ときに寂しさや哀しみ、辛さが浮かんでいるのを見ることがある。しかし彼女の瞳はいつだってそんな「弱み」をいっさい見せることがなかった。いつだって、その瞳はまっすぐで、何にも屈服しない力強さを映していた。
 なぜそのような光を宿し続けることができるのかが不思議で。
 気がつけば、その光の力強さに魅せられていた。

 まっすぐと、その瞳はどこを見つめているのだろう。何を写しているのだろう。

 夕暮れの頃。それが、劉鳳が彼女の姿を垣間見ることのできる限られた時間帯だった。
 日々を力仕事に費やす彼女が、その日一日の仕事を終えて帰宅するその頃になると、彼女の妹が小さな家――劉鳳から見ればそれは馬小屋よりも粗末で狭い――からその姿を覗かせて彼女に歩み寄る。嬉しそうな笑顔で、夕飯の準備ができたことを告げるのだ。
 そして、その時に彼女はもっとも優しく、明るく、とびっきりの笑顔というものを、惜しげもなく見せるのである。
 普段の力強い瞳こそが、劉鳳が彼女に惹かれた理由ではあるが、あるいはその無邪気な笑顔こそが、劉鳳が彼女に恋をした瞬間をもたらしたものであったのかもしれない。何者にも負けぬ、壮絶な覚悟を秘めた強暴な瞳は、それとはまったく正反対に、純粋な幼子の幸福を見せるのだ。

 決して触れることなど適わぬと、劉鳳は疑っていなかった。それ以前に、劉鳳は己の存在を彼女に認識されていることすら、夢にも思っていなかったのだ。
 考えてみれば領主の息子――それも次期領主としてすでに仕事をしている――の存在をまったく気にも止めずに認識さえしていないはずもないのだが、なんとなく、劉鳳はカズマがそうったことに対してまったく興味や関心を抱くようなタイプには思えなかったのだ。
 事実、それはあながち間違っているとはいえない。彼女はそういったことにまったく興味がなかった。
 けれど早くに両親を失った彼女にとって、それらに関心を持つことになるのは避けようのないことであったし、幼い妹を守ることを決めた彼女にとって、あるいは敵になるかもしれぬそれらに眼を光らせる必要があるのもまた、避けようのないことであった。そしてそういったことの集合を、つまりは必然と呼ぶのだろう。

 劉鳳が驚いたのは、その瞳の輝きがそれまで見たこともないものだったからでもあった。ただ強暴なだけではない、そこにある明確な意思は、違(たが)えようもなく劉鳳のことを「敵」であると認識している。普段は琥珀色に煌めくその光彩が金色(こんじき)に輝いて見えるのは、昼とは異なる陽光のためか。あるいは彼女を見つめる距離の差か。劉鳳が彼女と真正面に向かい合うのも初めてなら、一歩を踏み出せば手の届く距離にまで近づくことができたのさえ、初めてのことだったのだから。
 一歩を踏み出せば直に触れることのできる距離で、二人は互いの瞳を見つめていた。
 恋も愛も、気がつかぬうちに芽吹いて。意識も向けていないのに勝手に育ち、気がつけばこんなにも君のことが好きでたまらなくなっていた。
 劉鳳がそのことに気がついたのは、彼女の言葉が、彼の心のありようからすればまったくの頓珍漢な的外れなことをその一見可憐な唇から溢れ出したためであった。劉鳳にとってはあまりにも不思議でならないことだが、彼女は――彼女の周囲も含めて、彼女の女性としての魅力をまったく自覚していないのである。

 初めて――この日、劉鳳にとってはあまりにも初めてのことが多く起こりすぎて、変化とは劇的に起こらずとも急激に起こり、一度流れ出せばステップを一からなぞり、覚えていくような生易しさはないのだと痛感させることとなった――掴んだ彼女の腕は、彼の手の平で掴んでも尚、その指が余るほどに細いものだった。遠目にしていただけの頃――つい数分前だ――は、成人男性にも見劣りせぬほど軽々と農具を振り上げていたから、もっと力強い、それこそ男性と見比べても遜色ない引き締まった体つきをしているのだろうと、無意識に思っていたが、見事に裏切られた形になる。
 引き締まっている点については当たっているが、劉鳳が想像していたほどの逞しさ、あるいは安心感はない。少しでも力を込めればすぐに折れてしまいそうな腕の細さに、劉鳳は云いようのない不安を感じる。

 このまま、その腕を手折ってしまえばいいと、身の内の何者かが囁き、劉鳳を現実に引き戻したのは、やはり彼女のその瞳だった。力強く輝く、何者にも屈しない意志を宿らせたそれが、まっすぐに劉鳳を見据えている。
 睨み付けているといってもいいほどのそれに気づき、劉鳳は自己嫌悪にかられる。
 彼は己のみの内で囁いたものの名を知っている。それに我が身を委ねようとしたことへの衝撃に突き上げられ、劉鳳は呆然と彼女を見つめることしかできずにいた。

「おまえ…」

 不意に掛けられた彼女の声に我に返る。劉鳳に向けてまっすぐに伸ばされたカズマの腕が、劉鳳の視界の端に写っていた。
 彼女が言葉を投げ掛けてくることが以外で、それ以上に彼女が自分に何を伝えようとしているのかが気になってどうしようもなくて、劉鳳はじっと言葉の続きを待つ。
 どこか心ここにあらずなのは、劉鳳もカズマも、共に同じであったかもしれない。

「おまえ…けっこう、バカだろう」

 回りはみんな云っていた。領主様も奥方様も、一人息子の劉鳳様も、みんな好い方だ。優しくて賢くて、私らとはまったく違う貴い方さ。
 カズマは周囲が云うほどには貴い方などとは見ていなかったけれど、やっぱり頭はいいんだろうな、とか、自分達とは違うだとか、うちの領主様はなんだかんだで変わり者らしい――彼女にとってそれは好感があるという意味で――そういった意見に概ね賛成だった。
 けれどこれはどうだろう。
 お優しくて賢くて、自分達とは異なる貴いその方は、まさに今、カズマの前にまぬけ面を晒している。

「オレみたいなやつ、てめぇなら自由にできるのによ」
「……」
「かなみさえ無事なら、オレはけっこうなんだって大丈夫なんだぜ」
「…それは」
「ん?」
「それは、」

 劉鳳はそこで言葉を切り、眉間に思いっきり深い皺を作ってまじめくさった表情で告げた。

「俺の望む形ではない」

 その様子に、その言葉に、カズマは大笑いした。声をあげて、貴いその方を目の前にして、大笑いをした。
 この様子はなんなのだ。現実は男が女を押し倒した図であるのに、まるで子供が拗ねているようではないか。理不尽な何かを母親にせがみ、訴えかけている子供のようだ。

「だったら、てめぇの望む形ってのは、なんだよ」

 必死に笑いを納めてカズマは訊ねた。目端には涙まで浮かべている。
 ああ、そういえば。
 かなみには遅くなるから心配するなと伝えてはあるが、そろそろ戻らないとこちらへ様子を見に来るかもしれない。そうなれば、普段は温和な妹は、この状態に慌てて――勘違いのまま――劉鳳を突き飛ばすだろう。そして両腕を広げて、その小さなからで姉のことを守ろうとするのだ。
 カズマがぼんやりとそんなことを考えている間に、劉鳳はどうにか答える気になったらしい。相変わらず眉間に皺を寄せたまま。カズマに云わせればかわい気のない小難しい表情で。

「それは――」

 カズマの小さな妹が乱入してくるまであと数秒。
 そうして、小さなその少女が恋愛音痴の二人を結びつける恋のキューピットになるのは、そう遠くない未来。










----+ こめんと +-------------------------------------------------------

 この作品はリクエストを下さった弥旺様に奉げます。弥旺様に限り、「きみがすき」の1と2についてのみお持ち帰り可です。宜しければお受け取り下さい。
 ありがたいことに10万ヒット感謝企画でリクエストを頂きました。個人的にかなり気に入っている作品ではあったのですが、絶対に続きを書くなんて無理だと放置していたこの妄想が日の目を見ることになったのは、ありがたくも畏れ多いリクエストのおかげです。本当に、ありがとうございました。そして期待を見事に裏切ってしまい申し訳ありませんでした。
 ご意見ご感想お待ちしております---2005/09/14〜30

---------------------------------------------------------+ もどる +----