未来への寄り道
未来を知る術(すべ)は、実はいくつか存在している。
未来を事前に知ることのできるものは、実は案外多い。
けれど、未来を切り拓けるものは、実はずっと少ない。
それは、未来へ歩んでいるという自覚を持つものの少なさと同じほどに。
実は、ずっと、ずっと少なくて、限られたほどしかいないのだ。
小さなパンを抱えて、ぼろきれのように汚れた服を身に纏った少年が駆けていた。風の冷たさに比べ、少年の身に纏った衣服の薄さが心に痛みを与えるも、現実に少年と向かい合うものにはそれを感じるものはいない。少年が必死に抱えているパンも、一歩間違えればゴミとして捨てかれないほどに干からびていた。 少年は走っていた。後ろを気にしつつも、とにかく前へ前へと走っていた。逃げていた。 急がなければ追いつかれてしまう。誰に追いつかれてしまうか。答えは簡単だ。今少年が抱えているパンの、元の持ち主たち。それは今の少年よりもずっと大きくて、ずっと強かった。 ちょっとした隙を突いて盗み取ったパンは、それらにしてみても重要なもののはずだ。なにせ、ここでは豊かな土でさえ貴重で、誰も欲しがらないものなんて、乾いた石くらないなものだ。食べられるものなど特に貴重で、多少腐っていたって商品価値が失せることがない。 少年は走り、走り、走り。 突然、息の止められる苦しさに目を見開いた。 襟首を後ろからつかまれて引き寄せられたためだった。咽に服の襟元が引っかかり、少年は一瞬の息苦しさから解放されたと想った途端に、今度は自分の足が地面から離れていることに気づかされる。 「てめぇ!」 いきなり地面に叩き付けれた。まるで物でも投げるように放り投げられ、背中をしたたかに打ちつけた。また、呼吸が一瞬止まった。 呻くまもなく、腹を蹴られたのがわかった。複数で闇雲に蹴られ続けるのを理解しながら、頭を庇うよりも手にしたパンを放すまいと必死になっていた。体を丸めて、パンと頭を隠すようにうつぶせになる。 どうせ、これが奪い取られれば、たいして生きていくこともできないのだ。これを放したところで、体が痛むのは避けられない。 相手とて、すでに奪われたパンを取り返すことよりも、自分達からなんであろうと盗んだ少年への制裁をきっちり施したいだけなのだ。 とにかく耐えるのだ。 今はまだ、ただ耐えるだけの力しかないのだから。 周りには人が多く、けれど助けてくれる他人なんて皆無だ。自分の力で耐え抜くしかない。 耐えることができれば、生き残る確立がほんの少しだけ上がる。どれほどの痛みに侵されようとも、どれほどの寒さに晒されようとも、空腹から逃れられれば、それだけで、死からほんの少しだけ遠ざかることができる。 未だ小さな少年は、短い人生の中でそれを実体験として理解していた。 「ってぇ〜」 建物と瓦礫の中間のようなところで、少年は膝を抱えて呟いた。どうにか私刑に耐え抜いて、自分の寝床に痛む体を引き摺って返ってきたところだった。 誰かに奪い取られないうちに、パンはさっさと己の腹に収めてしまう。干からびた固いパンは、それでも3日ぶりに腹にものを入れた少年には充分なご馳走だった。 少年が今いるこの場所を寝床に選んだのは最近のことだ。一箇所にとどまると誰に目をつけられて襲われるとも知れないので、少年は頻繁に拠点を変えていた。 ここを選んだ理由は、ぼろぼろでも屋根があることと、赤錆にまみれたものも含まれるとはいえ、折れた水道の蛇口を捻れば充分に飲める水が出てくることが一番の理由だった。これだけの好条件が揃っていて、未だ誰の縄張りにもなっていないところなどそうそうない。 けれど、そろそろここからも出て行ったほうがいいかもしれない。このあたりは集落からは離れているが、集落からあぶれて出てくる奴らはいくらでもいるからだ。そういう奴らがまず欲しいのは、自分達の拠点。そして、便利に仕える下っ端だ。 少年はまだ小さく、名前だって「カズマ」という…苗字も何もないそれしか覚えていないほどに小さい頃から一人でいる。こういう子供は、あっという間に取り囲まれて捕まって、殴られて。奴隷にされるのがおちだ。 ぴちゃん。 音のない暗闇に、雫の落ちる音が跳ねる。カズマは肩を揺らすこともせず、突然のその音を無視した。 何もない空間に一人きりでいることも、突然のかすかな音も、あまりにも慣れすぎたものだった。あるいは、それこそが自分の母なのではないかとさえ思えるほどに、身近な存在。これらに温かみがあれば――あるいは感じることがあれば、それこそ本当に母と呼んでいたのかもしれない。 ネズミ達が壁の穴からこちらの様子を伺っているのが知れた。こんなにも小さな生き物の気配にまで敏感になっている自分がいる。 あれらはカズマの足元に零れ落ちた、乾いたパンのくずを狙っているのだろう。自分がしょっちゅう食べ物にありつけるわけではないので、これはそれほど頻繁なことではない。けれど、珍しいことでもなかった。 ここでは。 このロスト・グラウンドでは。 誰もが、餓えている。 誰もが何かに餓えて、餓えて、餓えて。 満たされない思いを抱えて生きているのだ。 唯一の例外があるとすれば、それは壁のあちら側。「市街」と呼ばれる復興地区だろう。 カズマは目にした事はないが、そこでは誰もが新品の服を着て、暖かい家にいて。冬の寒さも夏の暑さにも苦労する必要がないらしい。食べ物も溢れていて、道には小石など転がっていないどころか、土さえ剥き出しになっていないという。 話に聞いてもさっぱり理解できず、想像もできなかった。自分達に支給される衣服は、すべて市街や本土の古着ばかりだと、大人たちが零していたが、カズマには新品の服からしてわからない。 興味はあった。知らないことについては、何にだって興味はあった。 汚れていないきれいな服はまるで、それを身に着けている人間の体にぴったりと合って、その区別さえ難しいとか。汚してもいくらでも服があるから、みんな、ちょっと汚れてしまっただけで捨ててしまうのだとか。 潜り込んで、ちょっとだけ。ちょっとだけ、やわからいパンが手に入れば、めっけものだとも、ほんの少しだけ思っていた。 潜り込むのは案外簡単で、けれどその後がたいへんだった。ばれないようにするなんて不可能だったからだ。 壁の外で生まれ、そこで生きている自分と市街の人間は、明らかに「何か」が違った。すぐに見分けがつくのだ。服や肌が泥まみれであるとか、年中腹を減らして痩せこけているだとか、そんな見かけだけのことではなくて。 もっと、何か、何かが違った。 それは生きている上での余裕の差であるのかもしれなかったし、価値観とか考え方とかいうものの違いなのかもしれなかった。 カズマを見る大人たちは、いつだって嫌(いや)なものを見るのと同じ目を向けてくるけれど、市街のそれはもっとずっと強かった。荒地でのカズマは泥棒猫のようなものだ。だから、悪童が来たという類に顰められた目を向けてくる。市街では、面倒臭い存在だとか、汚らしい存在だとか…カズマは知らなかったが、それは本土で鴉に食い散らかされて道路にばら撒かれたゴミを見たときの、人々の目によく似ていた。 誰もが遠巻きにちらちらとカズマを見るけれど、誰も直接寄ってこようとはしない。カズマは知っていた。集団で生きるものたちは、怪しいものに遭遇したときには、きちんとそれに近づく役割を持った奴が処理をするのだ。 とても怖ろしいものであったとき、それは気の弱い奴が無理矢理やらされることがある。つまりは生贄だ。けれど、カズマはまだ小さな子供だ。きっと、専門の役人がくる。 その前にさっさと逃げてしまうべきだとは、カズマの人生における一番多く迫られた選択だったから、カズマは今回もまた、躊躇わなかった。そして、それはいつもと同じように正しい選択だったのだ。 カズマがその場を離れたすぐ後で、通報を受けた警官が、駆けつけてきたから。 これは無駄なことだったのかもしれないと、カズマは思い始めていた。噂に聞いていた高い建物やきれいな服などは、それとわざわざ訊ねるまでもなくすぐに理解できた。 そして見つける。 豊かできれいな市街でさえ、溝鼠のように見下されて生きている、カズマからすればクズのような人間があり、ここではどんなに否定したところで、カズマはそれらクズ人間よりも汚らわしいものに分類されるのだ。 怒りなど、ここではきっと意味を持たない。すぐ隣に、すぐ壁の隣に、寄る寝ることさえ怯えて暮らす人間が生活していることさえ忘れているここでは、きっと、自分の怒りなど、なんの意味も持たない。 あまりにも無駄な労力を使ったのかもしれなかった。あまりにも無意味で、虚無ばかりに襲われそうになる。 ぐぅ〜。 それでも命というものは正直だ。生きることに貪欲な自分は、死ぬことなどまだまだ受け入れようと考えていない自分は、どれほどの虚無に襲われても腹を減らして。 食事を求めるのだから。 カズマは食欲のそそられる香りに誘われて塀を越えた。見つかったところでどうとでもなると思っていたから、それほどの警戒はしなかった。 捕まれば殴られる。きっと、それだけは、市街も荒地も変わらない。 忍び込んだそこは、夜なのにたいそう明るかった。こんなにも光を放つ大量の電気はもとより、これよりもずっと明かりの小さな電気でさえ、荒地では高級品で。使用するだけのエネルギーなどはそれ以上に貴重だった。 部屋の中は暖かそうだった。餌ではない犬が、カズマが食べるよりもよっぽど大量の食事にありついていた。 今のうちだと、建物の二階によじ登って屋内へ侵入した。運良く窓の一つが開いていたのだ。はじめは硝子を割って鍵を開けようかと思ったが、強化硝子で割ることができなかったのだ。 侵入が果たせたのはいいが、窓の数が多すぎて部屋へ入り込むまでにかなりが時間が経過していた。早く食べ物でも何でも見つけて、逃げてしまおう。 カズマはそう思い、とりあえず窓の開いていた部屋を物色しようと首をめぐらせた。部屋隅に机があり、その上に置かれてた陶器の瓶に目が引かれた。 蓋を開けてみると、そこにはいつか見たことのある飴玉が、ぎっしりと詰め込まれている。これは運がいい。飴玉は自分で食べて、この入れ物は売ってしまおう。それは、ちょうどカズマの両手で持つのにはいい大きさで――カズマはさっさと抜け出そうと再び窓へ足を向けた。 今度は建物から出て行くために。 「誰?」 部屋に明かりが満たされて、背後から声が聞こえた。ついでに犬の唸り声も。 カズマは首だけをめぐらせてそちらを見やった。舐められないためにはまず睨みつけて、悪びれないことが大事だ。すぐに謝ったところで、殴られるときは殴られるし、どちらにしろ、市街に侵入したインナーは決して見逃してもらえるはずもないのだから、謝るなんてしたくなかった。 だって、カズマはこれが悪いことだとわかっていても、謝って許してもらおうとも、反省して二度とやらないとも決して思えなかったから。 「お腹…すいてるの?」 カズマの手の中のものを見て、カズマの姿を見て、判断したのだろう。それは、カズマとそう歳のかわらぬだろう少年だった。 「……」 「どうぞ、持って行ってください。僕は、別に食べないから…」 警戒して唸り続ける犬の頭を撫でて慰めながら、カズマを見逃がすことを告げる。カズマにしてみれば、それは願ったり叶ったりのことであったのに、急に頭に血が上ったように熱くなり、手に持った瓶を思わず床に叩きつけていた。 瓶の中の飴玉が床に散らばる。 「ふざけんな!」 カズマは少年の頬を思いっきり殴っていた。少年の深紅色の瞳が驚きに見開かれ、押さえている頬が朱く腫れているのを見たけれど、胸のうちから湧き上がる怒りの前には、後悔も浮かびはしなかった。 「憐れみなんてまっぴらなんだよ!」 誰かにかわいそうだなどと思ってもらうような生き方はしてない。自分はそんなに弱くはないし、どんなに苦しくても、そんなの誰だって一緒だ。生きていて苦しまない人間なんていない。辛いことに遭遇しない人間なんているはずがない。 自分で歩き、選び取る道を歩む自分は、少なくとも自分のことなど何もわかっていない他人に憐れまれるような生き方は送っていないし、そもそも、そんなもの欲していない。 カズマは唇を噛み締めていた。拳を握り締めていた。体が振るえているのは、吐き出したい言葉が美味く出てこなくて。自分をさえ殴りつけてしまいたい衝動を持て余していたからだ。 泣きたいような気がした。思いっきり泣き喚きたい気分だが、それはカズマのプライドが許さなかった。 代わりに何も語らずに、身を翻して、カズマはその場を後にしていた。 少年は、床に尻餅をついたまま、言葉もなく。カズマを見送ろうとして、慌てて我に返った。隣で彼の愛犬が、逃げる侵入者を追いかけようとしているのに気づいたからだ。 両腕で犬の胴を押さえ込んで追跡を止めさせた理由は、少年に自身にもわからない。殴られた頬は痛み、それはあきらかに理不尽な暴力だったのに。 それでも少年は、怒りよりも何よりも、とにかく悲しかった。辛かった。 自分を殴りつけた小さな少年は、その瞬間、殴った拳を固めて震えていたのだ。目には見えない涙を溜めているようだった。 あの少年が何を思い、きつく唇を噛み締めて、何に耐えていたのか、市街の少年には何一つとしてわからなかった。そして、その何一つとしてわからないそのことが、なぜだかとても辛くて、とても苦しかった。 それはこれから未来(さき)に訪れる、必然的な出会いのための寄り道でした。 やがてくる未来(みらい)、少年達はこのことを一切覚えてなどいないけれど。それでも、それぞれの生き方に、思考の指針に重大な礎(いしずえ)を気づいたできごとだったのです。 |
今はすべて、これから訪(たず)ねていく未来への道。
そこで寄るすべてが重要な運命ではなく。
むしろ、必要のない時間の方が、ずっと、ずっと多いのだろう。
けれど、寄り道のすべてが本当に無駄だとはいったいどうして言える?
本当は、些細な寄り道のすべてが、私を形成する礎。
些細なできごとの方こそが、私の判断の基準を作っていく。
寄り道の途中で出会う一つ一つの些細なことが、大きな自我を作っていく。
あなたは、寄り道で立ち止まったそこで、何を見ましたか?
何を感じましたか?
そして、どこへ向かったのですか?
すべては、未来へ続く「今」のできごと。
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微妙。書きたいことはなんとなくわかっているのですが、それがはっきりとした形にならないまま、ぐにゃぐにゃとして固まってくれなくて、できあがった文がもう微妙すぎて泣けてきます。 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2005/01/31 |
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