月の人
あいつにはじめて出会ったのは、確か八歳の頃だったか。 白銀色のやわらかな髪。水晶のように透き通った紫色の瞳。凛とした。なのに何故だろうか。強いということは一目でわかったのに。感じたのに…。折れてしまいそうなその細さのせいなのか。消えてしまいそうな白い肌のせいなのか。何も映してはいないその瞳。何も感じられないその表情。はじめて目にしたあいつは、とても…弱く、儚く見えた。 ここは陰陽連という組織で、俺の国をつぶした組織だ。俺をここに連れてきた男の名前は修羅。とても強い奴で。俺はどうすることもできずに、国がつぶされていく様を、ただ観ている事しか出来なかった。 俺はそれまではそれなりに幸せな人生を送っていたのだと思う。方術と呼ばれる古(いにしえ)の戦術(いくさじゅつ)を伝える国。華麟(かりん)国の第一皇子として生まれ、皇子としての身分の堅苦しさや責任や鍛錬なんてものは課せられていたけれど、特に不自由ない生活を送っていた。 だから気づかなかったのだろうか。 自分の弱さに。国の弱さに。 どこかで思っていたのだろうか。 方術を伝えているこの国は強く安全なのだと。 陰陽連が攻めて来たとき、国中の方術士が迎え撃った。俺の父である華麟国王も、華麟国最強の方術士として戦った。だが誰も勝てなかった。もちろん、陰陽連にはそれなりの打撃を与えただろう。だが、どれほどの打撃を与えたとて、負ければ意味はない。弱いのだ。 俺の国は弱かった。国の民も弱かった。最強だと思っていた。目標であった父でさえも。 そして。 俺が一番弱かった。 陰陽連が攻めて来たとき、俺は父王に逃がされた。国の傍にある森の中へと逃がされた。気絶させられ逃がされていて、気がついたら森の中で…慌てて国に戻ってみると。すでにそこは焼かれた家と人の死体の山だけが積み重なった荒地となっていた。 呆然とそれを見ていた。 人の肉の焼ける匂いが鼻についたが、気にはならなかった。 ただ悔しかった。敵を前に何も出来ず、挙げ句には気絶させられ逃がされ。一人生き延びるなんて…。ただ悔しくて。何も出来ずに国であったその場所を。戦場となったその焼け跡を睨みつけていた。たたずんでいた。 だからここに来た。強くなるためにここに来た。 焼けたその場所で悔し涙をこらえきれずに流してきた俺に声をかけたのが修羅だった。目を見開いたまま流すその涙に滲んだそいつの顔には見覚えがあったからすぐにわかった。国をつぶした男だと。そして知っていた。とても強い男だと。 その男は俺に言った。一緒にくれば強くなれると。 迷いはしなかった。 国をつぶした相手だろうが関係無い。何も出来ずに弱くある自分が消せるのなら。強くなれるのなら。なんだって構わない。 誰よりも強くなってやる。 そう決意した。 名を名乗ろうとしない俺に、修羅は紅真という名を俺につけた。 すぐにわかった。こいつははじめから俺のことを知っていた。知っている上で、わざわざ俺の名を尋ねたのだ。 あいつの薄ら笑いが癪に障った。 あいつには、俺が自分の名を名乗らないことなど予想済みだったのだろう。 「強くなれるぞ」 そう言って俺を誘った。俺が弱い自分自身を否定しているのを承知で、あいつは俺に名を偽らせることをさせず、弱い俺自身を自覚させようとしていやがったんだ。 何もかも見透かして、残酷に人を追い詰め、嘲笑う。 だが…それでも俺は強くなりたかった。 否、誰よりも強くならなければいけないのだ。 そうしてついていき、連れてこられたのがここ。深い森の奥に建てられた巨大な要塞のごとき場所だった。そこは陰陽連の支部の一つだとかいうことだった。 そこで始めに会わされたのがあいつ。 名前は紫苑。白銀の髪に紫の瞳をした、俺と同じ歳だという少年だった。 紫苑は俺よりも少し前に、俺と同じく修羅に拾われ。陰陽連に連れてこられて、修羅のもとで方術を学んでいるということだった。 「よろしく…」 紫苑が無表情で差し出してきた手に、無意識にも見とれていた自分に気がつき慌ててその手を取った。 俺よりも幾分小さなその手。 すぐに離されたそれが、なぜか名残惜しかった。 「紅真。お前には紫苑と共に俺の下で方術の修行をしてもらう。暫くしたら仕事も回ってくるだろう。わからないことは紫苑に訊け。紫苑。頼んだぞ」 最後の部分は紫苑に向けて。修羅は言い、去っていった。 残されたのは俺と紫苑の2人。 なんとなく黙していると。 「おい」 紫苑が話しかけてきた。 きれいな声。あらためて思ってしまう。 「なんだ?」 そんなことおくびにも出さずに俺が訊き返すと、紫苑はついてこいと表情だけで言い踵を返した。 紫苑に黙って付いて行くと、紫苑はそれなりの大きさのある建物の前に来たところで足を止めた。紫苑は俺に向き直り、 「ここがこの陰陽連支部での宿舎だ。お前の部屋は俺の部屋の隣だ。水場は…」 と、相変わらずの澄ましたような無気力なような無表情で説明し始める。 宿舎での規律。配置。仕事の内容。陰陽連での身分、地位。現在の状況とこれからおこなうであろう方術の訓練の大まかな内容。 それらの説明を一通り終えると、紫苑は、 「他にわからないことは?無かったら今日はもう休め。明日は日の出と共に起きる」 そうひとこと言い、「部屋まで案内するから…」とつけたして再び無言で歩き出した。 その時点では、まだ俺にとっての紫苑はそういう存在だった。 俺より僅かばかり早くから陰陽連で方術を習っている同年代の少年。きれいで、おそらくはそれなりに強いのだろうとわかる…同じような境遇の奴というだけだった。 陰陽連に来てから数ヶ月が経った。 もう随分とここにもなれ、幾人かの顔見知りも出来、仕事――主に国潰しと暗殺――もするようになった。 「よう紅真。まぁたイライラしてんのか?」 後ろから声をかけられて振りかえると、そこにはよく見知った人間がいた。
「斬羅(ざんら)か。何のようだ?」 斬羅は俺の仕事の相棒で、俺よりも倍程も年上の十六歳の男だった。腕はそこそこに立つ。とはいっても、陰陽連に来たのは俺よりも二、三年早いだけで、俺より少し弱いか同じ位かといったところだ。年上だろうが年下だろうが気にしないらしく、能力で相手を評価する。妙に馴れ馴れしい性格は好きにはなれないが、それ意外ではそれなりに共感をもてる相手だった。もっとも、倍程も年下の子供にため口をきかれて気にしないというのもどうかと思うが――俺自身そうしているのだから何かを言うつもりはない。 ちなみに、紫苑の仕事の相棒はシダとかいうやせた男だ。べらべらとどうでもいいことを話している落ち着きのない奴で話しかけたこともないので、よくは知らないが、どういう訳か、見てるとむかついてくるような奴だ。 「別に。ただ、まぁたイライラしてる怖い子供がいたから声をかけてみただけだ」 斬羅は飄々としたお茶羅けた様子で俺の質問に答えてくる。 不機嫌だった表情を更に不機嫌にさせて、俺は斬羅を睨みつけ、 「お前には関係無いだろ」 あからさまな不機嫌そうな声を隠そうともせずに。むしろ前面に出して言った。 「そうもいかないんだよ。一応俺とお前はパートナーなんだ。お前の機嫌が悪くて仕事に支障をきたしたら、俺にも責任が来るんだからな。で、どうしたんだ?まぁ、どうせ又紫苑がらみなんだろうけどな」 図星。 それから、斬羅はむかつく事を捲くし立てるだけ捲くし立てると、 「どうでもいいけど、ちったぁ仲良くしろよ」 と、余計なお世話の一言を残し去っていった。 紫苑。 俺は去っていく斬羅を見送りながら、その名前を反芻していた。俺の胸の辺りに苦々しい気持ちが広がっていくのがわかる。 斬羅の言ったとおり、俺の機嫌の悪さの原因は紫苑にあった。 陰陽連に来て暫くの間、俺は紫苑と共に方術を学んでいた。さすがに俺より少しばかり先に陰陽連に来ていただけあって、紫苑はそれなりに強かった。否、強さでいえばかなりの強さだといっても良いかもしれない。それでも、その時の俺は自分が紫苑に追いつけないなんて思わなかった。負けているとさえ思っていなかった。 その当時、紫苑はすでに仕事を任されていた。俺も、陰陽連に来て数週間で仕事を任されるようになったから、俺より幾分か早く陰陽連に来ていた紫苑が仕事を任されていることには何の感慨も持ちはしなかった。 気づいたのは、俺が仕事を任されるようになって暫くしてからだった。 仕事の内容は変わらない。俺と紫苑の陰陽連における身分も変わらない。そして…俺と紫苑の力関係も変わらなかった。 俺は一度として紫苑に勝つことが出来なかったのだ。 誰よりも強くなる。否、強くならなければならない。 そう誓いを立てた。そのためにここに来た。 その意思の強さは俺を強くしていった。 陰陽連に居る同じ位の歳の奴よりもずば抜けて抜きん出ていたし、自分より年上の奴にだって負けはしなかった。 方術は意思の強さに左右される。だが、方術だけが、意思が強いだけでは本当に強いことにはならない。剣術。戦術。それら戦いに必要な知識はもちろん、戦うための強い肉体も必要だ。 俺はまだガキで、体力面においては大人にはかなわない。 それでも、常に誰よりも体を鍛え、鍛錬を重ねてきた。 そんな俺を紫苑は涼しい顔をして越えていった。何時だって俺の一つ前に居て俺なんか見向きもしない。 悔しかった。 俺の中には、どこかにエリート意識があったのだろう。 方術を伝える華麟国の皇子。 その意識が、紫苑は――他の誰もが俺にかなうことは無い。そう俺に思わせていたのかもしれない。 だから、自分が紫苑より弱いと気づいたとき。どんなに努力しても紫苑にかなわないことが。紫苑を追い越すことはおろか、追いつくことも出来ないこの現状が。そんな俺自身が。 悔しかった。 自分の弱ささえ知らないことも。気づかないでうぬぼれていたことも。弱いままでいることにも。越えられないことが。誓いを立てたあの時から何も変わっていない愚かな自分自身が。 その何もかもが悔しくて、常に俺をイラつかせているのだった。 そんな俺をよそに、紫苑は相変わらずのきれいな無表情で俺を――すべてを無視していた。 何にも関心を示さずに。怒りもせず、笑いもせず、泣きもせず。ただ無表情で居た。 癇に触る紫苑のそんな態度が、余計に俺を苛立たせた。 あいつにとって、俺なんか眼中にさえないのかと…。苛立ち、悔しかった。 それは新月の夜の事だった。 俺は寝付かれず、ふらふらと当ても無く宿舎の廊下を何気なく歩いていた。 普段は感じたりなどしないが、月の光というものはかなり明るいらしい。月の無い新月の夜だからこそ感じるのだろう。暗闇にならされているにもかかわらず、星明りだけのこの夜では辺りがよく見えない。 その分耳がさえている様ではあるが…。 暫く廊下を歩きながら夜気にさらされていると、どこからか声が聞こえてきた。 声をたどっていくと、そこは紫苑の部屋だった。 紫苑と俺の部屋は当初隣同士だったが、様々な理由により――主に俺が紫苑に絡むという理由で――今ではかなり離されていた。 久しぶりに立つその扉の前で、俺はそこから漏れてくる微かな――。脅えた、泣き声のようなものを聴いていた。 暫く呆然としていたが、躊躇いがちに取っ手に手をかけ扉を開く。 部屋の中は暗く何も見えなかった。 扉を開けた時に感じた脅えたような気配を、僅かに差込む星明りを頼りに探す。 部屋の隅に何かが見えた。 近寄っていくと、それは恐怖に震え。動くことすら出来ないようだった。 「なんだ?」 俺が声を発すると、暗くていまだにはっきりとしないその影はびくりと身体を振るわせた。 更に近寄って目を凝らして見てみると。 「紫…苑?」 信じられなかった。 部屋の隅で体をちぢこませて。僅かな物音の一つ一つにも異様な脅えを見せていたのは、紫苑だったのだ。 「おい…紫苑?」 俺が声をかけ手を伸ばすと、 「ふぁぅっ…!」 悲鳴とも取れる吐息を吐き出し、伸ばされた俺の手から逃れるように更にその身をちぢこませた。 脅え、震える紫苑。 常の俺ならば。幻滅し、怒りに怒鳴りつけてもおかしくないようなその紫苑の姿に、不思議とそれは起こりはしなかった。ただ、紫苑を守らなければならないという気持ちだけが沸き起こってきて。 「紫苑?どうしたんだ?」 俺自身も驚くような優しい声が出てきた。 紫苑を慰めるように優しくその身体を抱きしめ、その身体をさすってやる。 すると、初めは脅え俺の腕から逃れようと叫び暴れていた紫苑が、だんだんと落ち着きおとなしくなっていった。 「紫苑?どうしたんだ?」 俺はもう一度、極力優しく紫苑に問いかけた。 「――月っ…ないっ…」 「月?」 かすれた…搾り出すような紫苑の返答に俺は訊き返した。それだけでは何のことだかまったくわからない。 俺の腕の中で今だ脅えるように震えつづける紫苑。 何時から俺はこんなに気が長くなったのか。何時からこんなに優しく人に接することが出来るようになったのか。 そんな疑問が浮かんでくるほどに、その時の俺は振るえる紫苑をただ優しく抱きつづけ、その答えを待ちつづけた。 また暫くして。 「月が消えたら…月代は、滅びる。…皆、死んじゃっ、う…」 紫苑が泣くのをこらえるようにして言った。 月代。 その言葉には聞き覚えがあった。 それは国の名前だ。 月代国。 俺の生まれた国であり今はもう滅びた――滅ぼされた――華麟国と等じく方術を伝える国。 以前に父王が話してくれたことがあった。
――華麟は癒しの術を。月代は殺しの技を――
方術と一口に言っても、その技の種類は多岐に及ぶ。 方術でおこなうことが出来るのは、何も人を殺すことだけではない。 古の戦術。戦には、人を治療する技術も必要なのだ。 俺の祖国である華麟国王家は、方術の中でも特に治癒に関しての技に抜きん出ていた。ありとあらゆるけがや病を癒し、時には死人(しびと)までも生き返らせることが出来る。もっとも、それを伝えられているのは華麟王家の人間だけだから、それを行うことが出来るのも王家の人間だけということになるのだが――。 一方、月代国王家は暗殺術に秀でていたらしい。それがどんなものかまでは、さすがの父王も知るところではなかったから詳しいことはわからないが、「月代王家の殺意に捕まった者は、誰も見ることなく生(せい)を抜き取られる」と、父王が話していたのをぼんやりと憶えている。 俺は紫苑を見た。 俺の胸にすがるように頬を当てて震えつづけるその様子は、かつて父王によって訊かされた月代からはかけ離れていた。 だが――。 「紫苑…」 俺が口を開こうとすると。 「父、上も…母う、え…も。月代が…滅びちゃ、う…っ」 紫苑がまた声を発した。俺の胸に縋りついて啜るように泣く。 俺はそんな紫苑の頭をそっと撫でながら問いかけた。 「紫苑。どうしたんだ?」 「王、家の血…絶やしちゃだめ…っから、俺だけ…逃げらせ、てっ。でも、月、ない時に亡くなっちゃ…ら――」 やっぱりそうだった。 俺は紫苑の独白めいた言葉を聞きながら確信した。 紫苑は月代国王家の血筋の人間だと。 俺は父王から聞いた月代の話を思い出そうと、記憶の奥を手繰る。 月代はその名の通り、月を神化している国らしかった。だが、月を神化している部分があるものの、月代の民自身はその満ち欠けによって精神が左右されるということはほとんどないらしい。しかし月代王家の人間は例外で、何よりも月に見入られやすく…月のない新月。または月の光が強すぎる満月の夜は情緒不安定になることもあるらしいと、父王は話していた。 まさに紫苑の現在の状況がそれなのだろう。 新月のこの日。 紫苑は毎夜こんな風に一人振るえ、何かに脅えていたのだろうか…。 そう考えると、何故だかとても心が苦しくなる。 「紫苑…」 俺は再び紫苑の名を呼んだ。 幾分落ち着いたらしい紫苑が、俺の呼び声に恐る恐る顔を上げる。 俺は自然と微笑むことが出来た。紫苑を優しく抱きしめ、護るように包み込むようしてやると、それまで紫苑の瞳を覆っていた恐怖が薄らぎ、その代わりに疑問と不安の入り混じったようなものが揺らぐ。 震える紫苑のその手が、俺の衣服をつかむ。 それに気づき笑みを深くしてやると、不安げなそれがどこか安心したようなものに変わる。 俺の中にどす黒い何かが生まれるのを感じる。 こんな紫苑を知っているのは俺だけ。 そのことが、俺の中にあった空虚な何かを満たしていった。 だがこの時点での俺にとって、その、どす黒いという形容のあてはまる何かよりも、紫苑を守りたいという純粋な気持ちの方が強かった。 優しく。 優しく。 赤児をあやすように、紫苑を抱きしめてやった。 俺の腕の中で、ゆっくりと…安心したように眠りについていく紫苑が、何よりもいとおしかった。 その日から、俺はきまって新月の晩に紫苑の元を訪れるようになった。――紫苑を、抱きしめてやるために。 初めは文字通り。ただ純粋に紫苑を安らかにさせてやりたくて、紫苑をその腕で抱いてやるだけだった。 だんだんと俺になれ、俺が来るのを待つようにすらなる紫苑に、俺の中にある欲望が満たされるような感覚を受ける。 暗闇に脅え、震える赤児をあやすように紫苑を抱く。 朝になると、紫苑はいつも通りの何もうつしはしない瞳で。俺をそのまま無視して表に出ていく。 実に紫苑らしかった。 埋められた空虚さが広がるような感覚を味わうが、だからといってどうしようとも思わなかった。 俺がここにいるのは、あいつが俺を呼んだからではなく、俺がここに来たからだ。たとえあいつが俺のことを待つようにはなっても、あいつが俺を呼び。俺を求めることはなかった。 いつの頃からか。 だんだんとそのことに耐えられなくなっていく自分に気づいた。言いようのない欲求が湧き上がり、俺を侵食していく。 更に。更に。 どこまでも果てしなく。 俺は紫苑が欲しくてたまらなくなっていった。 その白い肌に直に触れたい。 その声をもっと聞きたい。 ――紫苑の全てが欲しい。 それから俺は紫苑の元へは行かなくなった。 一度でも行けば、その欲望を押さえきれずに紫苑を傷付けると思ったから。 その時点での俺は、まだ紫苑を傷つけてもいいとは思っていない。むしろ紫苑を護りたいと…紫苑を傷つけたくなどないと思っていたから。 俺は紫苑の元へ行くことをこらえた。紫苑に会いたくて仕方のない感情を必死で押さえた。 らしくない。 自分で自分をそう思い、苦笑する。 何故こんなことを思うのか。 そんなことを考える余裕すらなかった。自分で自分の感情が解らないなんて冗談じゃなかったが、こんな感覚は今まで一度として感じたことなどなかったものであるうえに、それを模索する余裕すら与えてはくれなかったから、どうしようもない。 壊したの紫苑だった。 あいつらしくない。 いくら情緒不安定だからって、なんだってわざわざ俺のところになんか来たのか…。 ゆっくりと開かれた扉の向こうに、頬を上気させ瞳を涙で潤ませた紫苑の姿を見つけたとき…もう耐えられなかた。 あいつから俺の元へ来た。 だから――あいつが俺を誘ったんだ。 力任せにその身を引き寄せ、その白く柔らかな肌に触れる。強く口付けると、その白い肌には痛々しくも見える朱い痕(あざ)が付いた。 紫苑が俺のものになったような気がして、俺は自然と笑みを浮かべる。 どす黒い感覚が俺を満たしていくのがわかる。 そして気づく。 それと同時に湧き上がってくる更なる欲求に。止められないそれに。 紫苑の全てに口づけていく。 額に。耳に。頬に。唇に。首に…。 すべるように。なめるように。這うように。 口づけていく。 脅え、俺の腕から逃げようともがく紫苑に気づきながらも…止められない。 いつの間にか。 紫苑が俺にとっての全てになっていた。 俺の全てが紫苑を欲していた。 もしかしたら、それは五年前のあの時。初めて紫苑にあったときから始まっていたのかもしれない。あの時から、徐々に俺の中が紫苑で満たされ始めたのかもしれない。 「ヤぁ…っ!」 紫苑の声が響いた。 いつもよりも幾分高くなった声。 朱く彩付いた、しなやかで美しい裸体が俺の下に組みじかれている。 ――誘ったのは紫苑だ―― 俺は何をしようとしている? そんなことはわかりきっていた。 月のない夜にも映える白い肌を見つめながら、俺は自分の抑えようのない気持ちをどこか冷静に分析していた。 俺はたった一つ。紫苑の全てが欲しいのだ。 紫苑を、俺だけのものにしたい。 ようやく気がついた。 悔しかったのは。苛立ったのは。 俺だけが紫苑を見ていて。 いつまで経っても。何をやっても、紫苑の瞳に俺が映ることはなかったから。 ただ、それだけだった。 今、紫苑の恐怖に歪んだその瞳には、確かに俺が映っている。紫苑は俺を見ている。 潤んだその瞳に、欲望が刺激される。 ――もう、抑えられない―― 「あっ…!」 俺は紫苑の首筋に頭をうずめるように寄せ、強くそこを吸い上げた。そのまま、なぞるように顎を通って唇へと移動する。 逃げるように首を横へやる紫苑の頭を片手だけで抑えつけると、そのまま紫苑の唇へと貪るような口づけを落とす。唇の向きを変え、歯列を開かせ、そのまま俺の舌を侵入させる。 口内を荒らすと、条件反射のように勝手に動いてしまうのだろう。紫苑の舌があたかもそれを求めるかのように俺の舌を追いかけてくる。それがたまらずにいとおしく、俺は我を忘れるほどに紫苑の口内を侵しつづけた。 「んっ…ぁ!!」 紫苑の呻き声に我に返ると、それまで俺を引き剥がそうと紫苑の手が握り締めていた俺の服からその手がはずされている。俺の背中のほうで、力の抜けた紫苑のその手は漸く引っかかっているかのように、添えられるだけになっていた。 名残惜しげに紫苑の口から離れると、どちらのものとも知れない唾液が糸を引いた。紫苑の口の端からは、収まりきれずに流れ出た唾液が艶めかしげに垂れている。 俺は紫苑を見た。 潤んだ瞳はぼんやりと意識なさげで。空気を得ようと必死で開く口元は赤く色づいている。 呼吸の度に火照る頬。 洩れる吐息。 どれもが俺のつくったもの。 そんな様子の紫苑をそのままに、俺は紫苑の服の下へと手を滑り込ませる。 紫苑の敏感になった身体がびくりと痙攣を起こしたように震え、不安そうに俺を見つめる。 笑みが洩れる。 実に狂気を含んでいるであろうそれに、紫苑の表情はますます脅えた物へと変わっていく。 「あっ!」 服の下から固くなり始めた紫苑の突起に触れてやると、紫苑はその身をちぢめる。縋り付くように見つめて来る、脅えた瞳。 ゆっくりと、まとっているその衣服を脱がせると、ほんのりと紅く色づいた紫苑の裸体が闇に浮かび上がる。 そのまま…。欲望に任せて紫苑を抱く。止めようなどとは思わない。 「ヤダ…ぁ」 涙を流すその幼い声に、多少の良心が痛んだような気はしたが、その声に煽られる俺自身の欲望のほうが。ずっと強かった。
あれからどうしたのだろう。 気が付いたら夜は開けて…。紫苑の姿はどこにもなかった。 俺は自分の中が空っぽになっているような、空虚さを感じながら…。立ち上がることもできずに、そこに座り込んでいた。 後悔はしていなかった。 それは間違いない。 あの時、紫苑は確かに俺だけを見ていてくれた。俺は確かに、紫苑を手に入れていた。 だから、決して後悔はしていなかった。 なのに何故だろう。こんなにも泣きたくなる。 気が付いた時には、俺はもう涙を流していた。 額を膝におしつけて、嗚咽が漏れるのも止められなくて。その両腕で頭を覆うように隠すことしか出来なかった。うずくまるように泣いていた。 何故涙が出るのか。 それはどうしてもわからなかった。 ただ、どうしようもないほどの空虚さが…。
あいつは、いつになったら俺を見てくれるのか。 どうしたら、あいつは俺の元へ来てくれるのか。 人々はいつだって、月に憧れてやまないのに。 それをこの手にしたいと望んでやまないのに。 それはいつも、違う何かを見ているようで…。 紫苑。 お前が本当に待っているのは、いったい…誰なんだよ。 どうしたら、お前は俺を見てくれるんだよ。 永遠に手に入らない。どこか遠くを見ている月のように。 あいつの瞳は何もうつしてはいなかった。
「紫苑…」 好きだよ。 「好きだ…」 だから。
その瞳に、どうかこの姿を――。
END
逃げました(汗)。
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