記憶


 眠れない夜が続いていた。

 気になって仕方のないこと。

 君を思うと…眠れない。



 陰陽連に来てからもう四年が経っていた。

 自分がいつもイラついていることは周知の事実。

 もちろんその原因もだ。

「紅真…」

 不意に聞こえた自分を呼ぶ声に、彼――紅真――は振り返った。

 その表情はなんとも険しいもので。彼の機嫌の悪さが伺える。

「紫苑…」

 紅真は自分の名を呼んだ相手を見て、苦々しげに呟いた。相手が誰かなど振り向く前から声で気が付いていた。それはできれば会いたくない人間。自分の機嫌の悪さの原因。

「いったい何のようだ?」

 紅真は言った。

 今すぐにでも立ち去りたいと言わんばかりの声音だ。

 そんな紅真はいつもの事で。もうすっかり慣れていた紫苑は、何の気後れもなしに用件を話し出した。

 もっとも。相変わらずの紅真の態度に多少なりの溜息は漏らしたのだが。

「まったく…。いったいなんなんだ?紅真。事あるごとにつかかってきて。いったい俺が何をしたって言うんだ」

 彼の伝えてきた用件などどうでもいいことだった。最も重要なのは、彼がその用件の後にこぼしたその言葉。まるで愚痴るようにはかれたその台詞。

「なんでだと…?」

 紅真はその言葉を聞いた途端に、その瞳をさらに吊り上らせ。紫苑を強く睨み据える様に迫った。

「本当に…。本気でわからないってのか…!」

 半ば怒鳴る様に詰め寄ってくる紅真。壁際に紫苑を追い詰めて、片腕で逃げられないように遮る。壁際に追い詰められ、彼に気圧されながらも、紫苑は彼の瞳を真っ直ぐに見据えて言う。はっきりと。

「当然だ。俺は何もしていない」

 紫苑のその言葉に、紅真は一瞬言葉を詰まらせ…しかし何も言おうとはしなかった。否、言おうとしなかったのではなく、言いたい言葉を一言にまとめられなかったと言った方が良いのかもしれない。紫苑を真っ直ぐに見据えたまま、ただ黙っていた。

「憶えてないのにか…?」

「何…?」

 不意に呟かれた台詞が聴き取れず、紫苑は顔を顰めて聞き返した。

「お前が憶えていないことが…お前の、俺へ対する裏切りだ」

 紅真は今度ははっきりと言った。そのまま、紫苑を拘束していた腕を壁から外し去って行く。

 壁によりかかったまま、紫苑はそんな紅真の後姿を見送ったのだった。頭の中を、先刻の紅真の台詞がこだまする。

――お前が憶えていないことが、お前の、俺に対する裏切り――

「……憶えてるさ…」

 壁に寄りかかり、項垂れるかのように俯いた紫苑によって呟かれたその台詞は、誰にも聞かれることはなく消えていった。



 それは裏切りなのだろうか?

 もう随分悩んでいる。

 忘れた事などないのに…?



 常世の森であいつに会った時。それまでずっと恐れていた迷いが生じた。

 それは避けようのないことだったのだろうけれど…そこまで彼を追い詰めたということには、気づいていなかった。少し考えればわかってくれることだろうと。どこかで楽観視していた。彼の気持ちを考えていないわけではない。だから、ずっと迷っていたのだ。答えの出せぬままに彼と会うことになり、ますます彼を傷つけた。

 迷いは弱さとなり。隙となり。

 彼が自分を壊した時に、どこかでそれでも良いと思う自分がいた。迷うことに疲れていたのかもしれなかった。寂しくて仕方のないのは、自分の方だったのかもしれないとも思った。けれど。結局自分は…。

 再び彼を裏切ったことになるらしかった。



 それは裏切りだったのだろうか?

 私は、彼を裏切ったのだろうか?

 …。

 それでも、私にはやらなければならないことがある。



 紫苑は空を見つめていた。

 青く、高く。雲一つない空だった。

 視界一面が青く染まり、まるでその最中にいるような錯覚を覚える。目を閉じれば、確かに踏みしめているはずの大地の感触さえも消え、自分の身が、まるで浮いているようだった。しかしそれは決して不安定なのではなく、むしろ大地の上にその足をしっかりと踏み込んでいる時よりも安定し、心地よかった。もしかしたら、生まれてくる前にいる母の胎内というものは、こんな感じなのかもしれない。そんなふうに思ってみる。

 常世の森から帰って数日。

 紫苑は、浮かんでは消える取り止めのない幾多の思いに、焦燥感にも似た落ち着きのなさを感じていた。…否。それらのすべては、ある一つの思いを紛らわせるため…もしくわ忘れてしまいたいが為に浮かんでくるものなのかもしれない。自分を落ち着かせないその思いから逃れたいが為に,取り止めのないことを思いついては消し…その中に身を置こうとしているのかもしれなかった。

 だが、それらが思い浮かび、頭の割合を占めようとする度に、自分はこんな事を考えている場合ではないのだ。やらなければならないことがあるのだ。と、更なる焦りを生み出すのだった。焦りは考えを纏めることを妨げ…それが更なる焦りを生み…。その悪循環に、もういっそ気でも狂ってしまったかのようだった。

「ふぅ…」

 深く。胸の中に溜まった吹き溜まりを吐き出すかのように、紫苑は長く息を吐き出した。そうすることで、一瞬でも身が軽くなったような気がする。

「どうしたいんだよ…っ」

 そう呟く紫苑の表情は、痛みを堪えるかのように歪められ…。その声音は行き場のない、憤りにも似た苛立ちを見せていた。

 ここ数日紫苑を悩ませているもの。それは、「刻印の心具」だった。

 刻印の心具は、高天の都への扉を開く鍵。全部で五つあるうちの一つ――「月」――の刻印は、紫苑自身が持っている。現時点の所、紫苑以外にいるはずの、残りの刻印の心具を持つものを探し出し仲間にすることが、当面の邪馬台国の――そして紫苑にとっての課題だった。

 それについて、紫苑にはいくつかの思い当たる節があった。

 常世の森で、紫苑は初めて刻印の心具について知った。そんな紫苑が、刻印の心具についての手がかりを持っているというのは、確かにおかしい事かもしれない。だが別段、それが直接刻印の心具についてのものであるというわけではないのだとすれば、些か納得もいくだろう。

 紫苑の思い当たる節。

 それは、かつて存在した紫苑の祖国――「月代国」――と同じように、古くから方術を伝えている国。あるいは人物、一族についてのものであった。

 由緒正しい方術士の一族。

 月代王家がそうであったのならば、他のそのような者達が、等じく刻印の心具を代々受け継いでいく一族であっても不思議ではない。むしろその可能性は大きいと言えるだろう。

 だが、未だ紫苑はそれを他言してはいなかった。

 今更壱与についていくかどうかを迷っているからではない。彼女を守り、彼女を高天の都へ連れて行くことは、今の紫苑にとっては何よりも優先されるべきことであるのだ。そして、それらが揺らぐことは、この先ありえはしないだろうと信じられる。

「…」

 紫苑は再び空を仰いだ。

 白い鳥が一羽。風を切るように飛び去って行く。

 瞳を閉じると、微かな風の流れまでも感じることが出来る。心地よいその風に暫く身を撫でられ…。

 正面に顔を戻し、その瞳を開く。ある種の決意を秘めたようなその瞳。

「紅真…」

 呟いた紫苑の目の前には、赤く輝く瞳を持った少年が一人。

「…紫苑」

 大剣を持って、そこに立っていた。

「紅真。俺は…お前を裏切ってなんていない」

 紫苑の右手に、紅真の持つ大剣と同じほどの大剣が握られる。

 月読の剣。

 月の刻印を持つ、紫苑の心具だ。

「うるさい!お前のそれが裏切りなんだよ!!」

 紅真がその心具「紅星の剣」を前に翳しながら迫ってくる。紫苑の胴を両断にしようと、その剣を横に薙ぎ払う。ブンッ。という、空を切る音がそこに響く。紫苑はその剣を後ろへ一歩引く事によって紙一重でかわし、下段から紅真のこめかみめがけて剣を振り上げる。紅真は上体を半歩逸らせるようにしてそれをかわし、それと同時に剣を腕を使った遠心力で引き戻す。

 互いに後退し、向き合うような形になる。どちらもその相手から目を逸らすことなく、注意深く見つめ続ける。

 どれほどそうしていただろうか…。

 紫苑は構えを解き、月読の剣も消してしまった。

「おい…。どういうつもりだ」

 紅真は尚も隙なく紫苑を見据えつづけて問う。

「紅真。お前は何故陰陽連に居続ける」

 紅真の問には答えず、紫苑は紅真に疑問を投げかける。真っ直ぐと立つその姿勢は、静かだが凛とした、しとやかさを漂わせていた。何者にも手を出させぬ、高貴さとでもいうのだろうか。

「俺は月代王家の人間として、この倭国の未来を託せる人間を高天の都へつれて行く。お前はどうするんだ。紅真」

「…」

 黙ったまま何も言おうとしない紅真に、紫苑は言葉を続ける。

「俺は、陰陽連でお前に会えたときに…絶対に知られてはいけないと思った」

「知られてはいけないだと…?」

 紅真は眉を顰めた。紫苑の言いたい事が分からない。

「あいつは…修羅は、何を知っているのか測れない。もしかしたら、俺とお前の事も、高天の都に関することも、今俺達がこうしている事すら知っているかもしれない」

「そんな馬鹿な…」

「ありえないことじゃない」

 紫苑はきっぱりと言ってみせた。

「紅真。お前はこれからどうするんだ」

 紫苑は再び質問した。

「…お前は…憶えてるのか?」

 紅真は言った。そこからはもう、殺気は感じられない。

 ただただ。最後の望みにすがるような…。

「お前と俺がはじめて会ったのが…陰陽連じゃないってことならな」

 紫苑は微かに微笑んで言った。

「もっと…早く言えよ…!」

「言わせなかったのはお前だろ」

 微笑む紫苑を、泣きそうに顔を歪めた紅真が抱き寄せる。

 紫苑の肩口に顔をうずめるようにして、きつく紫苑を抱きしめて離さない。

「紫苑…」

「なんだ?」

 優しく。穏やかに紫苑が聞く。

「俺と…お前の関係は?」

「…婚約者同士……だろ」

 紅く顔を染めて、小さく。恥ずかしそうに言った紫苑に、紅真は満足そうに顔を綻ばせた。彼のこんな幸せそうな顔は、いったいどれほどの人間が見れるというのか。

 彼にこんな顔をさせるのは、おそらくこの世でただ一人。

「紅真。俺は、俺の道を行く。お前は、お前の道を行けばいいんだ」

「簡単に言うのか?」

「…五年以上も迷って、漸く言えるようになったんだ」

 かなり勇気が要るんだぞ。

 紫苑はそう言って、微かにふてくされるようにして見せた。

「俺は…ずっと紫苑の所にいるよ。陰陽連に入ったのも、強くなるのも。そうなりたいのも。その大元には紫苑がいるんだからな」

 月代国が滅ぼされたと聞いたときからずっと探していて。

 眠れない夜が続いて。

 やっと見つけた時、その人は自分の手の届かないところに行きそうで。

 自分が思っているほど、その人は自分を思ってはいないのだと思った。

 強くなりたいと思った。

 強くならなければならなかった。

 せめて。

 愛する人を守れるくらいに。

 愛する人に追いつけるくらいに。

 やっとつかんだ。

 もう絶対に離さない。

「…そういえば」

「なんだ?紅真」

「いや…。邪馬台国の奴らは、お前が女だってこと知ってやがんのか?」

 紅真は訊ねた。

 一瞬の沈黙。

「知らないだろうな…。まず間違いなく」

 紫苑は言ったのだった。

 さて、これからどうなる?


おわり



 すみません。何を書こうとしたのやら…。この話はこれで終わりです。
 ですが、これはシリーズとして続けていきたいです。
 紫苑さん実は女の子だったバージョンで、私的邪馬台幻想記の続き。
 この続きで書いていくかは今のところ謎ですけど、書きたいです。最後まで。
 まぁ…所詮私は紅真×紫苑ですから…そうなってますけどね。
 しかも紫苑さん至上主義なので、紫苑さんもてもて(笑)になるでしょう。


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