第一印象は、最悪だった。
初めて彼女に会ったのは、
父に連れられて行った、
彼女の国で開かれた宴の席でだった。
「お前の婚約者殿との初顔合わせだ」
当時五歳のガキだった俺に、
父はそんな風に言い笑っていたが。
正直、俺はそのような気分では決してなかった。
前もって聞かされていた婚約者殿の話。
それは、彼女が、男として育てられている。
その事実だけだった。
女を男として育てるのだから、
それは普通の男以上に
男らしくなければならないという事だ。
それがどういう事を意味しているのか。
俺の、婚約者に対する期待のほどは。
水滴の一欠けらほどもなかった。
初めて会った彼女は、澄ました顔で。
こちらの挨拶にも、
差し出した手にも応えることはしなかった。
思った通りだ。
確かに王族の人間だけあって、顔はきれいだけど…。
こんな無愛想な礼儀知らず、絶対好きになれないね。
浮気をしない保障なんて皆無だ。
絶対する。
って言うか、こいつを愛することが不可能なんだ。
当然だろ?
俺の婚約者殿は相変わらず。
何の感情もないような顔でこちらを見ている。
と言うより、こっちになんか
何の興味も持ってないような顔だ。
きれいな能面顔は、微動だにしなかった。
…本当に、こんなやつを妻になんかしなけりゃならないのか?
最低だ。
俺は胸中で大仰に溜息をついた。
宴は程よく進行していった。
皆、でれでれに酔っ払って。
情けなさに涙が出そうだ。
ガキは酒宴には混ざれない。
だから酔いつぶれて眠っているのは大人達だけだ。
だからといってガキは起きてるかと言ったら…
…そうではない。
騒ぎ疲れて寝てやがる。
起きてる奴なんてどれほどいるのか。
どうせ数えるほどもいないだろう。
どちらにしても。
月が眩しいほどに輝いている夜中だ。
寝てても誰も文句は言わない。
……我ながら、冷めてると思う。
他の奴らと一緒になって。
騒いで。
疲れて。
そのまま眠れたら良かったのに…。
そう思いながら、祭りの後の景色を眺めていた。
宴の最中、ガキは思い思いに騒いでいた。
遊んでいた。
つまりはそう言う事だ。
大人も子供も。
老若男女、問わず遊び疲れて眠る。
宴とは、言ってしまえばそう言う事なのだ。
そんなかで…。
そう言えば、あいつは何もしていなかった気がする。
自国のガキ共が回りで騒いでいる間中、
じっと黙って、父親だか母親だか達、
大人の隣に姿勢正しく座っていた。
澄ました顔はそのまま。
さすがは一国の皇子とでも言うのか。
憎たらしいほどの落ち着きっぷりだった。
…少しは客人をもてなそうとは思わねぇのか?
もっとも、俺も似たような者で、
愛想が良いとは決して言えなかったが。
俺はあくまでも客で、あいつは主催者の息子…いや、娘か。
まぁ、そう云うのなんだから、少しは回りに気を使えっていうんだ。
俺の国で呼ばれたガキは俺一人だった。
いくらガキだからって、一国の皇子が他国で。
面識もない、普通のガキ共と遊ぶっていうのもな…。
はっきり言って、俺的には恥以外の何物でもないね。
今、俺の隣では俺の親父が酔っ払ったまま眠っている。
周りの他の連中と同じように。
酒の入っていた器を抱きかかえたまま。
…本当に、情けない。
俺は情けなさのあまり視線を別のところへと変えた。
そして気付く違和感。
…あいつはどこへ行った?
変な胸騒ぎがした。
確か、あいつは酒を飲んではいなかった。
俺と同じで、酒を進められても断っていたはずだ。
酔いつぶれて寝ているとは考えられない。
どこかに遊びに行ったまま、疲れて寝てしまった。
それもないはずだった。
性別がばれないように、国の子供達との接触でさえ
気を着けるように言われていると。
そう父に聞かされたことがあったから。
一国の皇子という立場の人間が、
草々簡単に道端で寝入ってしまうようなことはしないはずだ。
そもそも、父がそのような教育をするような国の人間と
誼(よしみ)を結ぶことはおろか、俺との婚約を認める筈もなかった。
では、どこに行った?
気が付いた時には、俺は走り出していた。
あいつを探し出すために、宴の席から立ち上がっていた。
どこに行った?
辺りを見まわしてみても、
見える物は、風に揺れる木々の影だけだった。
走るスピードが、徐々に速くなっていくことに気が付いた。
何故こんなに必死になっている?
自問する声が、俺の中のどこかで響いた。
本当に、なんだってこんなに必死になっているのだろう。
絶対に好きになんかなれない相手の筈だ。
気に入ってなんていない。
気にしてもいなかったのに。
何故こんなに不安になっている?
……。
それでも、婚約者だからだ。
意識がはっきりしているのは、俺くらいしかいなくて。
どんな奴でも、どう思っていても。
あいつが俺の婚約者である事に代わりはなくて。
それを見捨てるような男ではいたくなかった。
そんな男にはなりたくなかった。
だからだ。
どこか違うと思いながら、俺は必死に答えを作り上げた。
何でもいいから、建て前が欲しかった。
こんなにも自分が焦っている理由の。
こんなにも自分が必死になっている理由の。
建て前が欲しかった。
……。
もうどれほど走っただろうか。
人影が見えた気がした。
小さな人影と、後ろにはずっと大きな人影。
どちらも走って、こちらに向かって来ているようだった。
だんだんとその人影が近づいてくるにつれ、
人影の風貌がはっきりとしてくる。
一人は子供で、もう一人は大人。
大人が子供を追いかけている…?
!
大人が子供に追いつき、その手をつかんだところで、
混乱していた俺の頭が、漸くはっきりとした。
追いかけられている――捕まった子供は彼女だ。
じゃぁ…大人は?
ドンッ!
考えるより先に、身体が動いていた。
俺は方術を使い、彼女の腕を掴み自分の方へと、
無理やり彼女を来させようとしていた大人の男
――酷く寂れた格好をしている――を、打ち倒した。
奇妙な悲鳴を上げて倒れた男を、
彼女は何が起きたのかわからない様子で、呆然と見つめていた。
俺はそんな彼女に駈け寄り…。
あっけに取られた。
倒れた男の後ろに続く道には、男と同じような格好の
屈強そうな大人達がニ、三人倒れていた。
おそらくは彼女がやったのだろう。
……。
バカみたいだと思った。
こんなに慌てて。
一人で焦って。
彼女が攫われそうになっていたのは一目瞭然だ。
普通、子供が大人に適う筈がない。
逃げ出す事はおろか、打ち倒すなんて出来るはずがない。
けれど、彼女はそれをやってのけた。
最後の一人は俺が倒したけれど
そんな事しなくても、
彼女なら一人でどうにかしただろう。
ふと。
俺は、俺に背を向けたまま
自分を攫おうとした男達を見ている彼女に目を向けた。
…震えてる?
彼女の肩が小刻みに震えている気がした。
「おい…」
声を掛け、その肩に触れると
彼女のその小さな肩は、ビクン!と痙攣したように震え。
彼女はそのまま、身体全体を震わせながら
こちらにゆっくりと振り向いてきた。
「……」
驚いた。
彼女の瞳には、涙が浮かんでいたのだ。
叫び出しそうになるのを必死にこらえるように、
ギュッと、唇を噛み締めていた。
「!おい…」
不意に。
彼女が、縋るように俺に抱き付いてきた。
何がなんだかわからなくて。
俺は情けないほどに慌てていた。
うろたえていた。
「ふァァ…」
俺が何かを言おうと口を開きかけたその時、
彼女の声が洩れ聞こえた。
よくよく見ると、彼女の身体は震えたままで。
聞こえたその声は、彼女の泣き声だった。
見なくとも、彼女が泣いているのは
はっきりと分かった。
彼女の涙に濡れて、自分の服が冷たく貼りついた。
「こわ…かった……よ…」
彼女の声が響いた。
バカみたいだ。
俺は再び思った。
どうして気が付かなかったのだろう。
彼女は子供なのに。
俺と同じ子供なのに。
どんな境遇にいても、どんな育てられ方をしても。
それは何も変わらないのに。
そして。
女の子なのに。
どうして、俺はこんなにバカなんだろう。
自分で自分に嫌気がさした。
よくよく見れば、彼女の肌は傷だらけで。
きれいに着飾られていたはずの服は、
ボロボロに着崩れていた。
所々に泥も付いている。
必死に逃げてきたのだ。
簡単になんてあるわけないのに。
恐怖で押し潰されそうな心を、必死に抑えつけながら。
誰かが助けに来てくれるのを願いながら。
必死に逃げて来たのに違いないのに。
彼女は泣いていた。
震えたまま。
ずっと泣きつづけた。
俺は、何も出来ずに。
ただそうしている事しか出来なかった。
彼女の国に戻ったのは、
それから数時間が経ってからだった。
月の位置は、目に見えて分かるほど
西に傾いていた。
俺は彼女の手を繋いでいた。
何も出来ないのなら、せめて。
そうしていたかった。
彼女は、泣き腫らした瞳を隠すかのように
俯いていた。
それでも俺に手を引かれながら、
ゆっくりと歩いてついて来ていた。
俺も彼女も、何も話しはしなかった。
この時のことは誰にも言わない。
ここへ戻る前に、それだけを二人で決めた。
攫われかけたなどとは。
決して誰にも知られたくない。
そう言う、彼女の意見を受け入れる事にした。
国に戻ると、大人達は未だに夢の中だった。
これなら、説明の必要はないだろう。
彼女の傷の事は…どうとでも言い訳できた。
男達は、縛って捨ててきた。
彼女は少し気にした風だったが、
あんな奴ら、どうなろうと知った事じゃないと思った。
いろんな気持ちが渦巻いていた。
悔しさとか。
情けなさとか。
イラつきとか。
憎しみとか。
怒りとか。
負の感情ばかり。
抑えきれずに湧いてきた。
どうにも出来ない思いに、
俺が唇を噛み締めて俯いていると。
「ごめん…なさい……」
彼女が言った。
俺は意味がわからずに、問うように彼女を見た。
すると、それまで俯かせていたその顔を上げ、
彼女は真っ直ぐと俺の目を見て話し出した。
一つ一つの言葉を、噛み締めるように。
「迷惑かけて…ごめんなさい。
こ、んな…情けないのが婚約者で…ごめん…なさいっ。
強くなるから。女の子…なるから、嫌いにならないで…っ」
彼女は泣いていた。
また、泣き出した。
今度は…俺が泣かした。
俺も泣きたかった。
情けない自分に泣き出しそうだった。
繋がれたままの彼女の手から伝わる体温が。
それだけが、異様なほどに暖かく感じた。
「嫌いに…ならないで」
そう言う彼女の言葉に、息が詰まった。
好きになんかなれない。
そう思っていた自分が、酷く浅はかに思えた。
彼女はが、こんなにも思っていてくれたなんて、
少しも気が付けなかった。
「嫌いになんて…ならない」
俺は必死に言葉を紡いだ。
息が詰まって、
それしか言えなかったけど、
必死に言葉を吐き出した。
「嫌いになんて…絶対に、なれない」
強くて。
純粋で。
きれいで。
だけどとても弱くて。
強い瞳は、
真っ直ぐに前を見つめる事が出来ていて。
何ものも寄せ付けない力強さが
かもし出されていて。
固く結ばれた口は、誰の助けも呼ばない。
けれど。
風に攫われそうに儚い。
守りたいと思ったんだ。
二度と離れたくないと思ったんだ。
好きでいて欲しいと思ったんだ。
好きだと…。
「…ありがとう―――」
そう言った彼女の顔は。
今まで見たことがないほどきれいな
微笑を浮かべていた。
それが、俺がはじめて見た彼女の微笑だった。
一瞬で心奪われる。
そんなきれいな笑顔。
紅真は草の上に横になっていた。
吹きぬける風が心地良い。
「紅真」
自分を呼ぶ声に、紅真は身体を起こした。
耳に心地良い、暖かな声だった。
「紫苑…」
紅真は自分を呼んだ声の持ち主の名を呼んだ。
自然と優しい声が出る。
顔が綻ぶのが止められない。
「こんな所に居たのか」
紫苑は呆れたように言った。
そのまま紅真の隣に腰を下ろす。
「!紅真?!」
紫苑が驚いたような、慌てたような声を出した。
紅真が突然、紫苑を抱きすくめたのだ。
「紫苑…愛してる」
腕から逃れようと、もがく紫苑が離れるぬように
しっかりと抱きとめて。
その耳元に呟いた。
紫苑の動きが止まる。
そんな紫苑の様子に、紅真はより一層強く、
紫苑を抱きしめるのだった。
強くなりたいと思ったんだ。
あの時。
君の背中ごしに見た光景の中で。
強くなろうと誓ったんだ。
あの時。
君の泣き顔を見て。
強くなると誓ったんだ。
あの時。
君の笑顔を見て。
君が安心して頼れるほどに。
君がいつでも泣けるように。
君がいつまでも笑ってくれるように。
絶対に強くなる。
君に、嫌われないように。
第一印象は、最悪だった。
それから何度となく会うようになって。
と言うか、俺ばかりが会いに行った。
君に会いたい気持ちが我慢できなくて。
いつだって親の目を盗んで会いに行った。
君は始め、時々しか微笑ってくれなくて。
どうすればいいのか困ったんだ。
けっこう辛かったんだ。
でも。
だんだんと、気が付いた。
君がいつも笑っていてくれてたことに。
君が、感情を表に出すのが苦手だってことに。
表情を素直に出せないってことに。
少しずつ知ったんだ。
少しずつ、君の新しい面を発見していった。
その度に、君が今まで以上に好きになっていった。
君に言ったら、君は呆れながら怒りそうだ。
あの時。
自分の国が滅ぼされようとしたあの時でさえ。
君のことの方が心配で仕方がなった。
絶対に、離さない。
君を好きになる度に嬉しくなる。
君がそこに居るだけで幸せになる。
絶対に強くなる。
君を守れるくらい。
君に好きでいてもらえるくらい。
強くなる。
あの時。
そう誓ったんだ。
そういえば。
彼女の涙は、あの日以来見ていない。
まだ、頼りない?
おわり
■あとがき■
「記憶」シリーズ第四段。紅真サイド。
…なんて言うか、紅真くん偽者度95%増し…って感じ?
砂吐くかと思いました。
しかも意味わかんないし。
しかもませてるし…二人とも五歳だよ…。