紅月

















小さな命が宿った。

この身に宿った愛しい存在。

けれど不安なの。

あなたは、この存在を祝福してくれる?





















 紫苑が子供を身篭った。
 紅真がその知らせを受けたのは、よく晴れた温かな日の事だった。

 いろいろな事があって、倭国は平和に向かって良い方向に進んでいる。
 未だに小さな混乱は多々あるけれど、この島に生きる多くの人々が、この島を愛し、人を愛している。
 忙しく、けれど充実した素晴らしい日々を、彼等は生きていた。

「子供ができた。俺は産む。嫌だったら全力で阻止してみろ」
「・……」

 妊娠の報告はつまりはそんな感じだった。
 あまりの事に紅真何を言われたのか理解できず、ただ口をぽかんと開けていた。
 横で見ていた壱与がその様子を見かねてか、苦笑しながら取り成した。

「ええっと、紅真君大丈夫かな?紫苑君にね、紫苑君と紅真君の子供ができたみたいなのよ。で、やっぱり紅真君にはきちんと知らせるべきだと思って来たんだけど……」

 そこまで言って、壱与は溜め息を付いた。
 片手で顔を抑え、横目で二人の様子を見る。

 紫苑は尊大な態度で。紅真は呆気に取られた間抜け面(酷い)のままで、両者向かい合って佇んでいる。
 愛するもの同士の間に子供ができた。という喜びに溢れた暖かい雰囲気では、決して無かった。

 話しが進まない紫苑と紅真。
 一概にどちらかの制とも言えないが、少なくとも、紅真は何でも良いから反応を返すべきだった。
 子供を身篭った女性が、その子供の父親にあたる男性に何も言っては貰えないと云うことがどれほどの不安であるのか。
 頭が混乱してそれどころではない紅真には、分かりようも無かったのである。

 壱与は再び溜め息を付いた。

(紫苑君も、もっと他に言いようがあるでしょうに…)

 壱与は紫苑の口下手(?)を呪った。
 紫苑がもう少し素直で話し上手であったなら、紅真ももっと別の反応の仕様があったかもしれない。

 現在、壱与はかなり多忙な身の上である。
 紫苑や紅真もそれに代わりは無かったが(特に紫苑は壱与の片腕として働いている)、紫苑が妊娠したと分かって直ぐに、その辺のことは無理が無いように手配したので問題は無い。
 とにかく。多忙な壱与はいつまでも一ヶ所に止まっているわけにはいかない。

「先に戻ってるね」

 と、紫苑に耳打ちし、心配に後ろ髪を引かれながらも、その場を後にしたのだった。

 二人はどれほどそうしていたのだろう。
 先に行動を起こしたのは紫苑だった。
 くるりと紅真に背を向けると、すたすたと歩き出してしまったのだ。
 紅真はそこで漸く我に返り、慌てて紫苑を引き止めた。

「お、おい、紫苑。どうしたんだよ?」

 紫苑の腕を掴んでその歩みを止めながら問いかける。
 何故紫苑が立ち去ろうとしたのかが分からなかった。

「放せ。俺は一人で子供を育てる。二度とお前に会うつもりも無い」

 剣呑に目を細めて、紫苑は顔だけを紅真に向けて言った。
 誰が見ても分かる紫苑のその様子。
 彼女は怒っている。それはもう半端ではないほどに。

 紅真に紫苑のその様子がわからないはずは無い。
 物凄い慌てて、紅真は紫苑が立ち去ろうとするのを阻止する。

「な、何でだよ?!紫苑」
「何でだと?」

 思わず出た紅真の問いに、紫苑は剣呑な目を更に凶悪に細めて言った。
 紅真に身体ごと向き直り、怒鳴る。

「お前なんかに分かるか!」

 紫苑の声は震えていた。
 怒りだろう。
 だがそれだけではない。
 その瞳には、涙が浮かんでいた。

「シオ……」
「いらない…。お前なんかもういらない」

 紫苑はそれだけ言うと、今度こそその場から立ち去って行った。










 喜んでくれると思っていた?
 他に言いたい事があったはずなのに…。

 紫苑は両の手を己の腹部に添えた。
 今、この身には愛しい人との間に授かった掛け替えの無い、切ないまでに愛しい存在が宿っている。

 今まで自分で自分が女であるなどと、これほどまでに感じた事があっただろうか。その事に喜びと不安を覚え、その間で揺れた事があっただろうか。
 今まで、自分は最強ではないにしろ弱くはなく、それになりに強いと感じていた。だが、今のこの時ほど強く真っ直ぐな気持ちになった事は無かった様に記憶している。

「だって…一人には出来ないだろう?」

 新しい生命がこの身に宿ったと知ったとき、言いようの無い喜びと、それと同じ位の不安が彼女を襲った。

 彼女の愛する男は、彼女を心から愛してくれている。それは疑うべくも無いほどに強く喜ばしい物で…けれど、子供が欲しいとは聞いた事が無い。
 彼が子供が好きだと云うことを聞いた事も無い。
 もしも…。

 もしも、子供なんて要らないと言われたら?

 不安に押し潰されそうになりながら発した言葉が、余りにも不躾で無愛想な物である事は自覚していた。
 けれど、それでも何かしらの反応を示してはくれるだろうと思っていた。
 できれば、それは喜びに満ちた物であって欲しかった。

「俺は…お前の母親だけど…父親にもなるから」

 結構な沈黙の中、彼の言葉を待っていた。
 今すぐにでも叫び出したい衝動を抑えるのに必死だった。
 縋り付き、無理矢理にでも彼の返事を聞きたかった。

 彼は動かなかった。
 何も言わなかった。
 何も言おうとはしなかった。

 驚いていたのは分かった。
 急にそんな事を言われれば、誰だって驚くだろうし、戸惑うだろうから…。
 だから、結構な沈黙の中、ただじっと待っていた。
 彼のその表情が、驚愕や戸惑いに彩られても、それでもその後には喜びに変わってくれる事を願って。それだけを祈って。

 幾ら待っても返事は返ってこなかった。
 彼の表情は動かない。
 もう、待てなかった。

「俺だけしか居ないけど…ここに生まれてきて…」

 いっそこのままどこか遠い所へ消えてしまいたかった。
 身を引き締めるような遣り切れなさに襲われた。
 引き止められたその手を払いのけたのは自分だった。
 彼を拒絶したのも――自分だった。

 怖かった。
 どうしようもない恐怖に襲われて、どうしようもない辛さだとか惨めさに襲われて、涙が溢れた。
 何かが弾けるような気がした。
 何処までも臆病な自分が、どうしようもないほど酷く惨めに思えた。

「紫苑!」

 振り向いたそこに居たのは、愛しい彼の姿だった。
 涙が溢れそうになった。

 走って来たのだろうか?

 紅真は荒い呼吸を繰り返していた。
 汗が滴り落ちるのにも構わずに、真っ直ぐと紫苑の方目掛けて歩いてくる。
 紫苑は身体を強張らせた。

 紅真が目の前にしゃがみ込み、両の腕を伸ばしてくる。
 紫苑は反射的に瞳を閉じた。

 ふわり。

 柔らかな空気が身体を包み、その一瞬後。紫苑はたくましい両の腕に強く強く抱き締められていた。

「紅真…?」

 恐る恐る目を開ける。
 紅真の赤い瞳とかち合った。
 紫苑を見つめる赤い瞳は、苦しく切なげに歪められている。
 次に口を開いたのは紅真だった。

「ごめん…紫苑」

 驚き戸惑う紫苑に投げ掛けられた紅真の呟きは、痛ましいほどに傷ついて聞こえた。
 腕に込める力を尚も増して、紅真は紫苑を抱き締める。
 まるで、少しでも気を抜けば、腕の中のその存在が夢幻(ゆめまぼろし)のように掻き消え、もう二度とここには戻って来ないような気がして。それが何よりも恐ろしくて。
 紅真は強く強く紫苑を抱きしめた。

「ごめん。直ぐに応えてやれなくて。嬉しいんだ。俺は。でも、紫苑は…」
「産むと言っただろう?」

 紅真の言葉を遮って、紫苑は淡々と言った。
 紅真の様子は何も変わらない。
 辛そうに顰められた、追い詰められたような表情もそのままだ。

「でも…分からなかったんだよ。嫌だったら全力で阻止してみろって事は、もしかしたら阻止しろって言ってるのかもしれないって…。考えたら怖くなって…言葉が紡げなかった…」

 もしそれが言葉になってしまって。
 声になって出て。
 それを肯定されたら?
 恐怖が喉から水分を奪い、身体を固めた。

「…なんでも良いから笑えば良かったんだ」

 紫苑はふてくされた様に呟いた。
 僅かに頬が朱く、そして心なしか安堵したように目が細められる。張り詰めていた気が心許したように、紫苑は紅真に凭れる。

「悪かった」

 言葉は驚くほどすんなりと紡がれ、口から零れ落ちた。
 柔らかな空気が辺りを満たす。
 心地良い静けさだった。

「例えばさ…」

 静寂を打ち破って声を発したのは紅真だった。
 紅真の胸に顔を埋めていた紫苑は顔を上げる。

「例えば、その…」
「なんだ?はっきり言え」

 煮え切らない紅真の言葉に些か苛立ちながら、紫苑は先を促がした。
 紅真は気まずげな様子で視線をさ迷わせ…紫苑からは視線を外したままで言った。何故か頬が朱い。

「…いや、その…名前とかって…さ。どうする?」
「……」

 いまだ顔を朱く染めて視線を外したままの紅真を、紫苑は目を見開いた表情で呆然と凝視しし続けた。
 それから。

「…ッぷ」

 噴き出した。
 大声で笑う。

「笑うな!」
「アハハ…ハハ…。わ、悪い…。でも、い、いきなり…し、しかもお前らしくないから…アハハ」

 紫苑は笑った。
 紅真は頬を真っ赤に染めてそっぽを向いている。
 小さい子供のように不貞腐れている紅真を見、紫苑は微笑ましくて小さく微笑んだ。

「何か良い名前でも考えてたのか?」

 紫苑はいまだそっぽを向いたままの紅真に、美しい微笑を向けて訊ねた。
 穏やかな。春の日差しの様に柔らかな物だった。
 紅真は窺がうように視線だけを紫苑に向け、それからポツリと言った。

「別に…」
「…そうなのか?」
「…暁(あかつき)」
「綺麗な名前だな」

 紫苑はまた微笑んだ。
 紅真の頬は相変わらず朱いままだ。

「紅星と月読から取ったのか?」
「…」

 紅真は黙って頷いた。
 紫苑は嬉しそうに笑う。

(もう名前も決まってるぞ。どうやら、俺が父親をやる必要は無くなったみたいだし…安心して、産まれ出るその日までここですくすく育つといい)

 お腹の中に宿るまだ容(かたち)もない命に、紫苑は優しく語り掛けた。

 日差しは暖かい。
 緩やかな風が木々の葉を揺らして通り過ぎ、一羽の小鳥が羽ばたいた。




















未来がどうなるかは何も分からない

誰も知らない


けれど、今を生きる私達と

これから先の未来に産まれて来る君達が

未来を力強く生きていくだろう君達が


まだ何も決まっていない未来を

きっと良い方向へと導いて行くはずだから


そう信じているから

何も、不安は無いんだ


だから

安心して産まれておいで

ここに

この場所に

私達の前に

この、希望に満ち溢れた世界に




















世界は

君の誕生を、待ち焦がれている





















おわり










■あとがき■




 ああ…とうとうやってしまいました。
 紫苑さん妊娠ネタ(爆)
 これは賛否両論あるだろうなぁ…と(否だけだったらどうしよう)

 初めは子供の名前を考えたのは紫苑さんだったはずなのに…何がこうなって紅真さんに。
 ずっとやりたかったネタ(←やりたかったのか…/汗)なのに…なんかもう訳のわからない事に(泣)
 ここまで酷い駄文も珍しい…(←いつもと大して変わらない?)
 なので、もしかしたらまたやるかも(核爆)
 当初は二人の子供「暁」の回想で、「記憶」シリーズの外伝的な物にしようと思っていたのですが…やめました。

 なんかもう笑って許してやってください。
 ここは所詮裏部屋です(開き直り?)






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