◇ 哀愁 ◇






少女の目覚め










「よ〜し、紫苑。父上と水浴びに行くか」
「嫌だ」

 それは、彼女が婚約者と出会った後に最初に交わした父親との会話での答えだった。





 いつの時代であろうとも、体を清潔に保つことは大切である。そして、その効果的な方法として、大概の動物は「水浴び」を試みる。
 人間も例に洩れずに同じ行動を移し、娘と水浴びに出かけるのは当時の父親の楽しみ歓びの一つだった(かどうかは知らない)。月代国現国王蒼志には娘が一人いて、彼女を水浴びに連れて行くのは父親である蒼志の役目であり、役得でもあった。

 昨夜は大切な一人娘をその婚約者に初対面させるという極秘名目のもとに宴会を開き、誰も彼もが皆(みな)酒臭いという状況で朝陽を拝む破目になった。さすがに女たちは酒に酔って寝てしまうなどという体たらくは見せなかったが、一日中働き通し、男たちが酔って眠り、子供たちが騒ぎ疲れて眠り、ごみをある程度片付けると限界。酒の匂い満ちるそこで眠ることになってしまった。
 国を挙げてのお祭りのようなものであったから、それは別にかまわない。酒の匂いも風に吹かれてやがて飛んでいくだろう。今すぐ水浴びをすれば一発で消し飛ぶが、そうできない事情はまあいろいろあるのだ。
 そんな中、母に云われて父やその他の酔っ払いどものために酔い覚ましの薬湯を配っていた紫苑に、彼女の父たる蒼志が声を掛けた。

「おっ、紫苑。お前いつの間に衣装変えなんかしたんだ?」
「父上が酔っ払って寝こけている間に」

 紫苑は素っ気なく答えながら薬湯を蒼志に差し出す。その姿は少女の年齢からすればかなり落ち着き払った大人びたものだった。
 無表情無愛想がある意味で個性であるといえるほどに張り付いた娘は、昨晩の宴の開始の少し前からその特徴に磨きをかけており、今もそれは継続中であるらしい。もっとも、さすがは親というべきだろうか。蒼志には娘の紫苑がなぜそうなっているのかの心理状態が手に取るようにわかっていたから、からかう対象にはしてもそれに眉を顰めるようことはなしなかった。
 紫苑は婚約者に会うということに緊張しまくっているだけなのだ。からかいすぎて邪険にされたのは、まあ、父親(親父)とはそんなものだと括る程度のものだろう。

 薬湯を渡すとすぐに背を向けてしまった紫苑を見送りながら、昔はいつでも「ちちうえ、ちちうえ〜」と、自分の後ろを一生懸命かわいらしく走って追いかけていたのに…と、僅かに拗ねてみせるも、胸中で思っているだけでは本人にはとうてい伝わらない。
 特に父親の気持ちが娘に伝わるのは言葉にしても難しいのであれば尚更だった。

 自分と同じように酔って寝こけている他の者たちにも薬湯を渡して歩く娘の姿を目で追っていると、蒼志はその娘につかず離れずの微妙な距離を保って歩いている人影の姿を見つけた。
 人影は小さく、娘と同じくらいの背丈。黒髪に赤い瞳が見て取れて、蒼志にはすぐにそれが誰であるのかに気がつく。誰あろう彼自身が、娘の婚約者にと選んだ少年だった。
 昨晩の様子では二人はまったく話もせずにいたが、はて、何か進展はあったのか。父親としてはかなり気になるところだ。自分の興味からくる欲求に逆らわず、蒼志は二人の様子を目で追っていた。もちろん少年で父親であり蒼志自身の旧知の中である男も呼んで。

 少年は客であるので仕事などさせられたりはしない。紫苑の薬湯運びをただじっと目で見て追いかけている。しかもさり気に周囲へと警戒色の強い瞳を向けている。
 不意にその瞳が蒼志と少年の父親に向けられて止まった。
 面白がって見ていたことがばれて不機嫌にさせたか?と、ご機嫌取りの愛想笑いを返せば、なんということだろうか。紅真はふふんと、効果音がつきそうな、大人から見ればひどく生意気そうな表情で、鼻で笑って見せた。
 わけがわからず大の男は二人揃って首を傾げて顔を見合わす。すると、少年の元に薬湯をすべて配り終えた紫苑が駆け寄ってきた。
 言いつけられた仕事が終わったことでも話しているのだろうか、と思って目を向けると、二人は仲良く手をつないでどこぞへ歩き去ってしまったではないか。
 父親二人はいよいよ首を傾げ、自分たちが酔い潰れている合間に、いったいに何があったのだろうかとしきりに考え込むのだった。自分たちで示し合わせておいてなんだが、まだまだ幼い子供に無視されて、親父二人はかなり落ち込んでいたのだ。本人たちがそれに気づいているかどうかは微妙なところだが、それを彼の奥方が一目見れば、すぐに彼らの心情など見通してしまったであろう。そして、そんな妻にからかわれるのもまた、父親というものの運命なのである。





 客も帰り、宴の後の片付け大方終わり、辺りは昨夜のにぎやかさが嘘のように寂しく感じた。その代わりというわけではないが、蒼志はそこでようやく娘とまともに会話する機会が与えられた。随分マシになったとはいえまだまだ酒の匂いが残る身だ。丁度いいと、蒼志は隣に立つ娘に目を向けて云った。

「よ〜し、紫苑。父上と水浴びに行くか」
「嫌だ」

 即答された娘の返事はあまりにも簡潔なものだった。
 いつもなら喜んでついて来るというのに、いったいなぜなのか。蒼志が傍から見ればいささか慌てすぎの感も否めない様子で娘に詰め寄ったのも、仕方ないことであったろう。

「な、なんでだ?!」
「紅真に云われた」

 父の様子に眉一つ動かさず、彼の娘は先ほどと同じように即答した。至極簡潔に。

 ぽかんと目と口を開けて突っ立っているままの父親を残し、紫苑は母親の待つ家路へと向けて駆け出した。悲しいことに、それに気づくこともできないほどに茫然自失となった蒼志は、紫苑に気にも止めてもらえずに置いていかれてしまい、真夜中の道を寂しく一人歩く破目になったとかならなかったとか。
 娘の女としての自我の目覚めは、こうして些細な哀愁を共連れにして訪れたのだった。





 賊を道端に転がして帰りついた二人は、彼らには幸いなことに誰にも気づかれることなく元いた場所に辿り着けた。
 皆が起き出す前にと、紫苑は紅真に手伝ってもらい着崩れた衣服を変え、髪を結い上げ直した。
 そのときに、紅真は紫苑に云ったのだ。

「俺に以外には見せるなよ」

 何を云われたのかが瞬時にはわからずに、紫苑は紅真にきょとんとした瞳を向けてから、すぐにそれに嬉しそうに頷いた。
 自分を求めてくれる独占欲が、純粋に嬉しかった。

 けれど、それはまだまだ小さな恋人同士である本人たち以外には誰も知らないこと。
 婚約者が決まっても、まだまだ娘の一番は自分であると疑っていなかった父は、その日あまりのショックに妻に泣きつき呆れられた…らしい。しかしそれもまた、当事者二人しか知らぬこと。
 いくつも愛に哀愁が寄り添うのは、必然。










それは父の哀愁









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 別名「お父さんの嘆き(笑)」まさかここにきて記憶シリーズを書くことになるとは…。思いついちまったもんはしょうがない〜。他のシリーズに比べて随分と文が短いのは気のせい?一応「回想」の続きです。背景には久しぶりにサイト作成当初に愛用していたパターンのものを使ってみました。それにしも…年齢設定に多大なる「無理」が生じていますね…(汗)
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです---2003/12/13

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