夫婦 







いつの時代も妻は強し。
それが夫婦円満の秘訣?










 それは遠い日の風景。
 月代国王蒼志は窮地に立たされていた。目の前には彼の愛してやまない妻、緋蓮がにっこり笑顔で夫に相対している。

「いや、緋蓮…これはなんというか、息抜きというか」
「言い訳は結構ですよ」

 二人の間には大きな水溜り。そして蒼志は濡鼠状態だ。遠くから子供の泣き声まで響いている。
 蒼志が濡れているのは、帰宅した早々に緋蓮によって瓶(かめ)いっぱいの水をぶっかけられたためだ。ちなみに子供の泣き声は蒼志にはよく聞き覚えのある、まだ幼い彼の愛娘のものだった。
 水を被った直後、蒼志はいったい何が起こったのか分からずに呆然としてしまった。しかしその後に感じられた抑えきれぬ怒りの圧力に、すぐに事態を悟ることができたのだ。
 もしやと思うまもなくのことだった。頭上から愛妻の冷ややかな声が響いたのは。

「あなた、紫苑を連れて釣りに行かれたようですね」
「いやぁ…、そろそろそういう外での遊びもできる年齢(とし)かなぁと……」

 蒼志の瞳があらぬ空を彷徨う。緋蓮のやわらく、笑みの形に模(かたど)られた瞳はそんな蒼志の姿をしっかりと捉えていた。もちろんその冷や汗もばっちりだ。
 天候は晴れ。初夏の陽射しが国中に降り注いでいる。

「ええ、だから私も見て見ぬ振りをしておりましたよ」

 緋蓮の声音はどこまでも冷ややかだ。

「あなたが側についていてくださるのなら、まだ小さい紫苑をつれて森の川に入っていったと聞いても大丈夫だと信頼して目を瞑ったんですよ」
「……。申し訳ありません」

 蒼志の声は小さい。面目もないとばかりに肩を落とす蒼志の姿にも、緋蓮の瞳の冷たさがやわらぐことはなかった。

「謝ってすむことだと思ってらっしゃるんですか。一人で釣りに夢中になった挙句に紫苑から目を離して、紫苑が川に落ちて流されも気がつかなかったなんて…」
「いや、姿が見えないなぁ…とは思ったんだ。本当に。でも慣れた森だったし、釣りに飽きて一人で遊びに行ったのかとな…」
「それでのこのこ一人で帰ってきたと仰るんですか」
「も、もう帰ったかな〜なんて…」

 沈黙が流れた。乾いた笑いを浮かべる蒼志がかなり痛い。

「たしかに帰ってきていましたね。下流まで流されて溺れているところを、国境警備に向かう兵士に『偶然』発見・保護されて」
「あ、案外泳いでたんじゃ…」
「本気で仰ってるんですか」
「……」
「もう一度お訊ねします。本気で、紫苑が自分の意思で、泳いで、下流まで下ってきたと仰ってるんですか」

 緋蓮は一語一語を区切りながら言い下した。背筋が伸ばされた姿勢は、普段ならば誰よりも美しくその瞳に写るのに。今、蒼志の瞳に緋蓮は写ってはいない。
 恐ろしく面を上げることはおろか、視線を向けることすらできないからだ。
 ちらりとでも視線を緋蓮へと向ければ、間違いなく、まっすぐと蒼志を見下ろしてくる緋蓮の瞳とぶつかることになるだろう。そうなったとき、それから受ける恐怖に悲鳴をあげない保障すらない。

「あ〜…ち、父親はダメだな〜。娘が普段どういった遊びをしてるのかもわかってないからな。水を恐がらなかったから、てっきり泳げるものとだな…」
「もう言い訳は結構です」
「ひ、緋蓮…?」
「今夜はそこで一晩中反省なさい!!」

 国中に響き渡ったのではないかと思われる怒声だった。
 比喩でなく空気が大きく振るえたのを、蒼志は全身で感じて身を竦ませる。大地まで揺れたのではないかと思われたが、邸が揺れているだけかもしれない。
 黙して去っていく緋蓮を、蒼志もやはり無言で見送った。実際は顔を上げられるような立場でもないし度胸もなかったので、去っていく気配を黙して見送っただけだったが。

 紫苑王女が川で溺れて風邪を引いた。幼い王女の病の祈願は、国中の民による神への必死の祈願が効をそうしたのか。それとも母の看病の賜物か。薬師の調合した薬が効いたのか。
 あるいは父王の怒り猛る妻への懺悔の凄まじいほどに天上の神々が憐れに思ったのか。
 とうにもかくにも、無事に全快し、夫婦の絆も事なきを得たのであった。





 それから幾年月。





 暁はきょとりと小首を傾げて両親の様子を見上げていた。幼い彼の目の前には冷ややかな瞳で母親が父親――紫苑が紅真――を見下げていた。

「紅真…。どうしておまえがここにいるんだ」

 胸の前で腕を組み仁王立ち姿の母の姿は、暁にはたいへん大きく写る。普段は母よりも大きく逞しく、強く写る父親が霞んでしまいそうだった。
 そうこうしている内にも両親の会話は進む。暁には意味のわからないことではあったが。

「別に俺は職場放棄はしてねぇぞ。女王のやろうが帰れって…」
「紅真…」

 絶対零度の響きを持って、父の名が辺りに静かに響いたのを、暁は本能で感じ取った。母の眉がぴくりと動いたのを、暁は見逃さず、その意味は理解できずとも、体は恐怖に竦みあがった。
 暁などよりもよほど母の様子に敏感な父のことだ。当然目撃しているだろう。父がなにやら必死な様子になる。暁はこんなにも進退窮まった様子の父の姿を始めてみたので、驚きと疑問に目を丸くするばかりだ。

「い、いや、紫苑…これは別に……」
「言い訳はいい。おまえは昨日、壱与について伊都国へ行ったはずじゃなかったのか」
「い、いやな。だからそれはさっきも言ったとおり、女王のやろうが…」

 父の台詞はそこで強制的に遮られる羽目となった。

「問答無用だ!!おまえは護衛だろうが!!さっさと壱与を追いかけろ!!!!!」

 紫苑の怒鳴り声が邪馬台国中に響き渡ったからだ。おそらくそれと同等かそれ以上の怒声が数日後――壱与が伊都国から帰還したあかつきには響くだろうことを、邪馬台国中の誰もが正しく予想したあたり、さすがというべきだろうか。
 これもまた平和な日常の一コマには違いない。





 そして伊都国。






「壱っ与、さ〜んvv」
「あら、レンザくん」

 愛に生きる男の抱擁は政治に生きる女にあっさりと避けられた。男は地面に体の前面を見事に打ち付ける。もくもくと土煙が上がったが、女は心配する素振りも見せずに笑顔のままだ。
 どうみても儀礼的な作り笑顔だった。しかし男は自分に笑顔が振りまかれていることに感激する。
 女――壱与は、レンザを助け起こすこともせずに、まるで彼が倒れてなどいないかのように挨拶を述べた。
 壱与の周りにいる護衛たちも、わざわざ伊都国からきた迎えの男を助け起こそうと手を差し伸べることはしない。いつものことだからだ。レンザがこの程度で多少のダメージも受けていないことは知っているし、或いは常にダメージを受けていたとしても、彼曰く『愛の力』とやらですぐに全快するらしいので。

「レンザくん、わざわざお出迎えご苦労様」
「いやいや。壱与さんのためなら喜んで!!」
「ふふ、ありがとう。これからもよろしくね」
「もちろん!!」

 レンザはただで使われていた。はっきりいって彼が壱与の愛を得られる可能性は現時点では皆無に等しい。
 しかし彼は気がついていない。すでに愛を得ていると信じているからだ。
 けれど彼はそれで幸福なのだから、特に指摘してあげる必要などないだろう。ありがた迷惑だ。余計なお世話だ。無粋だ。馬に蹴られて死んでしまう可能性すらある。
 伝えたところでレンザにとってそれらは右から左に流れていくものであるし、たとえ奇跡的に流れていかなくとも、彼なら笑って否定するだろう。そして宣言するだろう。

『俺は壱与さんの役に立ち続ける!彼女への!!愛のために!!!』

 そして壱与はそれをにこにこ笑って眺め、触れもせずに流すのであった。










どれほど時代が変わっても。
変わらないものも確かにあるのだと。
いったい誰が知っているというのか。










こめんと
 11月22日(いい夫婦の日)に間に合うように急いで書きました。紫苑と紅真のところは描写をつき足したらテンポが悪くなってしまったのがちょっと残念。もうちょっといろいろな話を入れたかったのですが、とうてい無理なことでした。
 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです...(c)2005/11/20・21 ゆうひ