階段
父の大きな手のひら。 母の温かな腕。 それによって僕は感じ、そうして信じていた。 この世には、不安や心配など何もないのだ、と。 |
友達と遊ぶのは楽しい。僕の周りは大人の方がずっと多くて、僕は僕と同じ年の友達と遊ぶのに、周りの大人の誰かしらに了承を得て家を飛び出す。 僕の家は友達の誰の家よりも大きくて、ずっと大きくて、比べられなくらい大きくて、たくさんの人が働いている。 たいていがそうである例にもれず、僕も父さまではなく母さまのおうち暮らし。けれど母さまは女王様の直属の護衛隊長で、ほとんど王宮暮らし。父さまは女王様の護衛でだけれど、ほとんどそのお側にはいないで、母さまのおうちと父さまのお国を行ったり来たり。そこで何をしているのかは、難しすぎて分からない。おうちのお世話をしてくれる人とは別に、たくさんいるお国のお役人様に、あれこれ指示を出している。もしかして、父さまは偉いのかしら? その合間に僕の頭を撫でてくれる父さま。 父さまも母さまも、言葉にしてはあまり何も言わないけれど、僕は二人の温かいのが好き。二人の真っ直ぐなのが誇らしい。 「紅真様、今年は天候に恵まれず、米の出来が……」 「知ってる。逆にうちの国では豊作だ。こっちの特に凶作で酷かった朝(あした)は緊急措置で税率を減らしておけ。うちの国の米の値が下がり過ぎて困るからそっちに回す」 「は、」 「紫苑には伝えておくから――」 「紅真様、紅真様、」 「なんだ」 新たな呼びかけに、父さまは首だけを巡らせる。右から左に次々と父さまに話しかけていくのを、僕はいつも柱の陰からこっそりのぞいて、その身のあくのを待っている。 父さまの周りから人がいなくなってから、僕は柱の陰から飛び出す。その足にぶつからんばかりに飛びつく僕を、父さまは軽々受け止めて、ただこの頭をその大きな手で撫でるのだ。ぐしゃぐしゃと、ぽんぽんと、その時々で力強さは違うけれど、どれも同じ。僕はそれがとても嬉しい。 太陽の下は眩しくて、陽の光に反射した大地はどこまでも暖かくて。蒼い空に白い雲が浮かんでいるのを見ると、いつだって胸がドキドキと高鳴る。 だけれど、そのどれだって、これには勝てない。 この胸の高鳴り。このきらきらとした輝かしいほどの喜び。僕の胸を突き破らんばかりの、これは、そう、誇りだ。 僕は父さまと母さまの二人にこうして目を向けられる。そのことが、何より誇らしい。 だから、僕は気になんてしない。気になんてしたことない。 他の子のように、いつも父さま母さまと一緒にいられないことに、寂しさも不安も感じたことなんてない。憤りなんて、そんな感情、あることも知らない。 僕はいつだって、笑顔で、無邪気に、たくさんいるいろいろの大人におしゃべりする。他の子が父さま母さまにしゃべることを、僕は、僕の周りにいくらだっている、たくさんのいろいろの大人にする。 これだって、いつものそれと同じことのはずだった。何気ない日常。僕は、何も考えてなんてなかった。なにも抱えてなんていやしなかった。 たくさん遊んで帰ってきて、まだ高揚した気分が、僕に声を出させたかっただけ。 「アシヒコは、アシヒコの父さまと同じ猟師になるのだって。キビトもそうだって。だから、僕も大きくなったら父さまと同じになるんだ」 僕が得意になって云った途端、それまでにこにこと僕の言葉に耳を傾けていた周囲の大人たちの表情が引き攣ったのがわかった。ピキリと、まるで秋の終わり、池に薄く張った氷にひびが入ったかのような音。そっと、そっと、その薄氷を割るために力を込めていくような緊張感が走ったのだ。 「えっ、どうしたの、みんな?」 僕は、父さまと同じ、女王様の護衛にはなれないのかなぁ? 僕が音を続ければ、人々は肩の力を抜く。肺に詰めていた息を吐き出すほどのそれに、僕はそっと眉根を寄せた。 それに気づいたお婆が皴がれた、けれどとても優しくて、けれど嘘を滲ませた声で僕の頭を撫でて云う。 「ほほほ。赤月様が大きうなられる頃には、もしかすれば壱与様ではなく別の方が国王位についていらっしゃるかもしれませんて。だから、お父上様とまったく同じとはいきますまい、と、婆などは慌ててしまったのですよ」 そう、……と、僕はただ笑って返した。ばばも若いのも、みんな僕よりたくさん生きた大人だ。僕はここ最近、いや、本当はもっとずっと前から気づいてた。感じてた。 僕を見る大人たちはみんな。 誰もがみんな、僕を見てその瞳の奥に落胆を忍ばせている。 ぼくを愛し、いつくしんでくれる瞳が真実だと知りながら、しかし、その奥に忍ぶ落胆に、僕はいつだって不思議を感じていたのだ。その不思議を感じる都度に、僕の小さな心には不安の雲が幅を広げて覆っていくのを感じるのだ。 ずっと、目を瞑り見ない振りをしてきたのに、僕はとうとう向き合ってしまった。 そういうときはどうすればいいのだろう。僕は父さまにたずねた。 三日ぶりに訪れた父さまは、訊ねる僕にただ言った。 「迷うな」 それからまた頭をガシガシを撫でてくれた。 片方だけで僕の頭をすっぽりと包みこめてしまえる、大きな大きな手のひら。その手に頭をゆすられながら、僕はほんの少しだけ、心が軽くなるのを感じた。 僕が何者であろうとも、父さまは、何も変わらない。 僕への愛も、期待も、そして厳しさも。 迷わずまっすぐ。そのことが、何より強さを与える。 だから僕は我武者羅に走った。父さまが剣を振るう代わりに、母さまが女王様を全身全霊をかけて守るように。 僕は走った。 ただただ真っ直ぐ、考えることをやめて、ただただ森の中を、ただただ力の限り、この息の続く限り、この足の、この腕の、この体の動くままに。 何に導かれたのでなく、何も――否、父さまのほかには何も、僕を導くようなものは存在しない中で。 たくさん走った。息が切れてしまうほど、心臓が破裂してしまいそうなほど、体がバラバラに壊れてしまいそうなほど。 走った。 走り続けた。 そして、僕は知ってしまった。 この世界の、真の支配者を。この世界の土台の存在を。 人々の不安と期待のその正体を。 そこは深い森の中だった。それは遥か海の果て、或いは遠き空の彼方、川の厳選、大地の奥底――。人が手を差し挟むのに困難な場所に、静けさを好んで坐しているものたちなのだ。彼らの慈しみが、僕らに足場を与えている。 それは本能だった。それは本能であった。 僕がそのことを悟ったのは、その足場の上で息づくものが潜在的に知っていることを、それを垣間見て瞬時に理解できるようにとされている、その本能のためであったのだ。 彼らの愛を失ったとき、人はこの足場を失い、もろくも崩れおちていく。 どこへか。それは分からない。けれど、易々と立ってはいられなくなることだけは確かであった。 人は立てるのだ。成長すればそれだけで。 けれど生きていくことはとても困難で、だから、国が存在するのだと父さま母さまが云っていた。それがあっても生きることはままならなくて、では、立つことさえ儘ならなくなるその不安は、いったいいかばかりのものであるのか。 こんな不安、僕は、抱えて生きていくにはあまりにも辛いと思った。 いつ足場から崩れていくとも知れぬ恐怖を、人々は、常に抱えながら生きてゆかねばならぬのだ。 常はそのことを記憶の隅に押し込んで、笑い、泣いて、汗して生きてゆかねばならぬのだ。 そして怯えるのだ。 ふとした瞬間にに。小さき地震の折に。激しい嵐の夜に。時に津波に飲まれる悲劇の前に。 僕が生まれれば消えるはずだった不安は、僕が生まれたことで解消されるどころか、さらなる不安を生みだした。それでも笑って僕を愛してくれる人々に、僕は感謝とその痛みで涙する。 もし、もしも。もしも、父さまと母さまの子が、僕一人しかないのならば――。 それはどんな不安だろう。 それはどんな恐怖だろう。 そうしてどうして、父も母も、この恐怖を真実知りうることができないのだろう。 父の理由はわかるのだ。彼は世界の崩壊などには恐れを抱かない。だって、だって、彼は彼の愛するもの以外には、何の執着も感慨もない。 そうして迷わないから、あの人はいつだってまっすぐなのだ。 けれど母が分からない。あの人は世界を愛しているのに。国を、人を愛し、その安らかな生活の続くことを願っているのに。何より、それの失われることを恐れているのに。 けれど彼女はいつも不安に迷っている。父の愛に包まれ、国を愛するの己の心に、人々の幸福の、その笑みの前で。 だから母は女王に委ねた。彼女について行くことで、彼女は只管まっすぐにあり、迷いを振り切った。 では僕はどうだろう。 では僕はどうすればいいだろう。 僕では迷いない二人の心を揺り動かすことなど到底かなわないに違いない。そもそも、僕は何かをしたいわけではなく、ただただ、僕は何かに急かされている――否、否。僕は何かをしろと追い立てられ、急かされているような感覚に、とらわれているだけなのに! 「ねえ、壱与さま」 「なあに、暁君」 女王は首を傾げて僕に訊ねる。今にして思えば不思議になことに、僕の教育係は女王であった。父より、母より、僕はこの人と言葉を交わしている。 「僕、父さまのようにも、母さまのようになれないんだね」 「……うん。そうだね」 女王の護衛にでも、強い方術使いでもなく。 彼女は、僕が、神子になれぬことを云っているのだと、正しく読み取ってくれた。 きっと、父も同じように読み取り、同じように真実を口にするのだろう。けれど、父ははきっと、慰めも気遣いもしない。 母はちょっと、気づかない。何を言っているのか、も少しだけ、詳しくを求めて、それから、理解して、きっと、言葉にはせずに肯定するのだろう。 「ねえ、僕、何ができるかな」 太陽の下は眩しくて、陽の光に反射した大地はどこまでも暖かくて。蒼い空に白い雲が浮かんでいるのを見ると、いつだって胸がドキドキと高鳴った。 もう、その胸の高鳴りはないけれど、それでも、僕はこの世界が大好きなんだ。 友達も、婆様たちも。僕と同じ不安をか抱える、弱いけれど掛け替えのない、みんな、みんな。愛しい。 「ねえ、僕、何ができるかな」 もう一度たずねて、壱与さまは微笑んだ。ほんの少しだけ大人になってしまった僕に、悲しんでいるように、その微笑みは切なくうつった。 「うん。あのね、私、嬉しかったよ」 「何が?」 「うん。暁君が生まれてくれたとき、私、君が紫苑君でも、紅真君でもなくて、私の後を継いでもらえるって――」 「僕は、継がないよ」 「どうして?」 「だって、それは、僕のやりたいことじゃない」 じゃあ、僕のやりたいことって何だ。 壱与さまの言葉に、僕の心は僕の意識を飛び越えて、言葉を吐き出していく。まるで最初から知っていたかのように、僕の口は言葉を紡いでいた。 「僕は、神さまの愛し子を守るんだ」 それで、平和な人の世が永遠に続く筈だから。 それで、人々の不安が拭われるから。 「僕が、みんなを不安から守るんだ――」 呟いた僕を見つめる壱与陛下の瞳に、なぜ哀れが含まれているのかが分からなかった。 |
ああ、僕は生まれ堕ちたその瞬間に、どれほどの人々の期待を裏切ったのか。 ああ、僕は生まれ堕ちたその瞬間に、どれほどの人々に落胆を与えたのだろうか。 ああ、早く生まれてきておくれ。僕らの神々の愛し子よ。 生まれてきてくれたなら、僕は、そのすべてで君を守ると誓うから――。 |
こめんと |
あかつき視点、一人称。少年はこうして大人になる――的なあれを書きたかった。父と呼んでも、母と呼んでも、父さま母さまと呼んでいた頃とその尊敬の度合いは変わらない。ただ、自分と切り離した一個の「人」として見ることができるようになってしまっだけ。 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです...20090115-18 ゆうひ |
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