その手のぬくもり

 
 普段よりも身体がだるいとは思った。
 疲れているのだろうと納得した。
 いつもよりも肌寒いと感じた。
 もうすぐ秋になるからだろうと納得した。
 …。
 それがいけなかったのだということは、後になってから気が付いた。
 
 
 風邪を引いた。
 頭が痛い。
 身体がだるい。
 動くことさえままならない。
 こんなのは何年ぶりだったろうかと。
 紫苑は働かない頭で、ぼんやりと考えていた。
 朝から不調だということは感じていた。だが、まさかそれが風邪を引いているためなどとは思わなくて…。
 ほうっておいたらそのまま倒れ…。それを発見した邪馬台国の民によって壱与たちへと知らされ、今に至っている。
 紫苑は壱与その他の命により大人しく寝かされていた。もっとも…動きたくとも身体が思うようにならいというのが現実なのだが。とりあえずそんなことはどうでも良かった。考えがまとまらず、どうでも良い事ばかりが思い浮かぶ。
 そういえば。
 風邪の原因は何だったのだろう。
 季節の変わり目による、気候の不安定さのためだろうか。この間、壱与やレンザに無理やり川に連れ込まれたせいか。それとも…。
 そこまで考えて、紫苑は溜息を一つ付いた。
 寝ていることにも飽き、今のところ再び眠ることは当分出来そうにない。かといって、起き上がって何かをするのも辛い。結局は何もすることなく、できることもなく、大人しくただ横になっているしかなくて。
「ハァ…」
 紫苑は再び溜息を付いた。
 先ほどからどうでも良い事ばかりが頭の中を駆け巡って、半ば無意識に行われるその事に気が付いてそれを消す。という作業を延々繰り返している。暇だった。
「紫苑くん?起きてる?」
 そこへやって来たのは壱与だった。その両の手には、食事らしき物がのっている。
「壱与…か?」
 熱のせいなのだろうか?声もうまく出せない。たったこれだけの言葉を言うのに、大変な体力を消耗したような気がする。
 紫苑は、目線だけを壱与へと向けた。たったそれだけの事に、身体全体が悲鳴をあげる。
「あっ…無理しなくていいよ、紫苑くん。お昼持ってきたんだけど…どう?具合の方。食べれそう?」
 僅かに起きあがろうとした紫苑を、壱与はその言葉で制すると、心配そうな言葉と表情で訊ねてきた。紫苑の枕元まで来ると、脇に食事の乗った盆を置き、その隣に腰を下ろす。
「どう?ご飯…いる?」
 控えめに壱与は訊いた。紫苑の顔を上から覗きこむ。紫苑が顔を動かさなくても良いようにだった。
「悪い…」
 紫苑はそれだけを言った。それだけを言うのが精一杯だったのだ。
 お腹は空いているような気がしていた。だが、どうしようとも食欲が出ない。物を口に運び、それを呑みこむ体力さえも、今はないような気がする。実際、体力はあってもそれをする気力がないのだから、あながち間違ってもいないのだろう。
「そっか…。でも、もう暫くしたら、無理にでも何か食べた方が良いよ。じゃないと、治る病気も治らないいんだからね」
 壱与はそう言うと、そっと紫苑の額にその手を当てた。
 ひんやりとした心地良い感触が、紫苑の額に広がる。紫苑は幾分か熱が引いたような気がした。実際はそんなことないのだろうが、気分がとても落ち着いて心地良い。
「気持ちいい?」
「ああ…」
 紫苑は瞳を閉じて、その手の心地良さを感じていた。心から安心できるような暖かさを感じる。
「ふふ。だったらもう少し、ここに居ようかな」
「…仕事の方は…いいのか…?」
 壱与の言葉に、律儀にも紫苑が返す。
 風邪を引いた時くらい、そんなこと気にしなくても良いのに。
 壱与は紫苑に気づかれない程度にそっと眉を寄せると、今度はすぐにそれを消し…。極力明るい様子で言ってみせた。
「大丈夫vだいたいねぇ、こんなに可愛い女の子に看病してもらえるっていうのに、そんなこと言うもんじゃないわよ。紫苑くん」
「まったく、お前なぁ……なんだ?」
 壱与のお茶らけた様子に、呆れたように紫苑が何か言おうとすると。突然、壱与は紫苑の額から手を離し、今度は紫苑の手を握り締めてきた。
 半眼で自分の顔の横を見ると、そこにはしっかりと繋がれた手。
「えへヘ。どう?安心するでしょう。病気になると人間、寂しがりやさんになるものね」
「なっ…」
 紫苑の反応に、壱与は声を立てて笑った。顔が赤くなっているのは、風邪のためなのか照れているからなのか。壱与には判断できなかったが、おそらくはそのどちらもだろう。紫苑はどこかふてくされたように、目線を壱与の居るほうとは反対側に移している。
 しかし、その手を無理に離そうとしないのは、その気力がないのもあるだろうが…幾分かはその手の温もりに、心地良さを感じてくれているからだろう。壱与の心遣いへの感謝の念も含まれているだろうことは、考えなくても分かることだ。
 暫く照れ隠しのためにそっぽを向いていた紫苑が、何時の間にか寝息を立てていたのは、いったい何時からだったのか。普段決して人に弱みを見せようとしない彼がそうしてくれることに、壱与は僅かに顔を綻ばせると、繋がれたその手に少し力を加えた。
 この手を離して、彼の安らぎを壊したくはなった。少しでも、何かの形で彼の役にたちたかった。支えになりたいと思った。
 どれほどそうしていただろうか。
 それまで安心したようにその瞳を閉じて眠っていた紫苑が、ゆっくりと瞳を開いた。
「気分はどう?」
 紫苑を覗き込むようにして、壱与が声をかけた。
「壱与…?まだいたのか…」
 些か驚いたように紫苑が言うと、壱与は僅かばかり頬を膨らませてみせた。おどけたように言う。
「あら、失礼ね。せっかくこんな美人の女王様が、付きっきりで看病してあげてるってのに」
 言葉の端々には、微かな笑いが含まれている。
「よく言うよ…まったく」
 紫苑も僅かに微笑して言う。呆れたように言ってみせてはいるものの、その表情はとても暖かい。
「本当は、レンザと一緒に無理やり川に引きずり込んだのを、気にしてなんじゃないのか?」
「うっ…バレバレ?」
「当然だ」
「アハハ…。ゴメンってば」
 壱与が僅かばかりに冷や汗をかいて謝罪の言葉を言う。どことなく引きつったその顔を見て、紫苑は軽く笑う。ゆっくりと眠ったのが良かったのだろう。先程に比べ幾分か熱も引き、随分体調も良くなったようだ。だからといって、まだまだ油断は出来なかったが。
「だって紫苑くん、泳ぐどころか水に触れようともしないんだもの。少しは触れさせたくなっちゃうのが人情ってものでしょ?」
「なんなんだ…それは…」
「だってぇ……そういえば紫苑くん。なんで泳げないの?」
「泳げないわけじゃない…と思う…」
 ふと思いついたように壱与が訊ねると、紫苑は視線をあらぬ方向に飛ばして答える。
「泳げないわけじゃない…ってどういうこと?」
「…泳いだことがないんだ。月代国は月読尊(ツクヨミノミコト)を奉っている。月読尊は夜と蒼海原(海)を治め、水を司る神だ。神の領域に草々簡単に入ることは出来ない」
「へぇ…そうなんだ」
 紫苑が自分に関ることを積極的に話すことなどめったにない。そのため、壱与はそちらの方にあっけに取られ、話の内容はあまり聞いていなかったりする。
「陰陽連に入った後もそうだったから…」
「うん。でも、珍しいね。紫苑くんが自分からそういうこと話すのって」
 壱与はやわらかく微笑みながら言った。紫苑が自分から何かを話してくれることが、信頼されているようで嬉しかった。暖かくて、ふわりとした気持ちになる。
 紫苑は壱与に向けていた視線を天井に戻した。一度その瞳を閉じて…何かを思い出すような。どことなく物憂げなような、愁た表情。
「――夢を…見たんだ…」
「紫苑くん?」
 壱与は紫苑が何を言いたいのか分からず、疑問の声を上げた。紫苑は未だその瞳を閉じたまま…ゆっくりと話を進めた。
「壱与が繋いでいたこの手のせいだろうな…。もう昔のこと。まだ、月代国が存在していた時に、似たようなことがあったんだ」
「…」
 壱与は黙って聞いていた。繋がれた手がただ暖かく。
「昔…。やっぱり熱を出したことがあった。その時も、今みたいに…母上がその手を繋いでいてくれたんだ」
 身体が重たくて。息が苦しくて。今までの自分の身体機能の全てが落ちてしまっているようだった。助けて欲しくても声も出せなくて。誰かの姿を確かめたいのに、目が霞んで。とても心細くて、信じられないほど弱気になりそうだった。
「そんな時は、きまって母上がずっと…こうやって手を握っていてくれたんだ。とても暖かて。目を閉じていても感じるぬくもりに、いつも安心できた」
「…今も?」
 壱与は訊ねた。どこかおどけたような響きの入った、けれど何より暖かな声音。
 ほんの少しの沈黙の後、おもむろに紫苑の瞳が開かれ。
「――ああ。とても安心できるんだ。…ありがとう…壱与」
 そう言い、紫苑は微かに微笑んだようだった。紫苑は再び瞳を閉じる。
「どういたしまして…紫苑くん――」
 もう眠ってしまった紫苑に、壱与は微笑んで言った。暖かな空気がその場を包む。
――少しは役に立てた?――
 壱与は心の中で呟いた。細められるその瞳は、どこまでも幸せそうに。
 健やかに眠る彼を見守って――。
 
 
 そういえば…。
 こんな手の温もりが、もう一つだけあったような気がする。
 あれは…どこでだった?
 
 
 眠る直前の紫苑の頭をよぎったその思いは、眠気におぼつかない思考によって夢に持ちこされた。
 思い出せるのだろうか。
 あの暖かな記憶を。
 思い出したい。
 夢で見る記憶を…もう一度。
 憶えていさせて。
 そう願う。
 夢の中へと誘(いざな)われながら、紫苑は眠りの中へと――。
 
 
「よぉ、紫苑!風邪直ったのか」
 次の日の朝。
 そう言って声をかけてきたのはレンザだった。
 ちなみに。
 壱与は昨日政務をサボりまくったつけが回ってきて、今日は問答無用で出歩き禁止である。
 紫苑はというと、さすがに責任を感じて壱与を手伝うと言ったところに、「病み上がりは安静に!」という壱与たちの好意(?)によるお達しがくだり、一日暇人と化すことになった。
 そんなわけで、暇を持て余している紫苑。
 レンザに会ったのは、暇つぶしにと外へ散歩に出た時であった。
「ああ、もう平気だ。…気にしてたのか?」
 心底意外そうに、紫苑はレンザを見やって訊いた。
「フッ…。当然だろ。俺は――」
「まぁ…俺のこの風邪は、お前のせいなわけだしな」
「ぐぉッ…!」
 レンザが気取って何やら言おうとしたのを遮って、紫苑は半眼で突っ込んだ。
 レンザは言い返すことも出来ずに、わけの分からないうなり声を上げて言葉に詰まる。
(…実際のところは分からないんだが…まぁ、いいか)
 面白いから、そういうことにしておこう。
 必死で言い訳を考えているのが見え見えのレンザを横目に、紫苑はそんな事を考えていたり。
 未だあれこれと一人で考えているレンザをそのままに、紫苑は空を仰ぎ見た。
 高く青い空がどこまでも広がっている。それはまるで限りないようにどこまでも――。
 高い高い空を見上げ、紫苑は微笑んだ。
 太陽が眩しい。
 今もまだある夏の輝やかさを残しながら、空はさらに高く澄みきっていくのだろう。
 
 
 もうすぐ秋が来る。
 寂しさに泣きそうになる季節が来る。
 切なくて弱気になりそうな季節が来る。
 でも大丈夫。
 その手のぬくもりがある限り。
 
 一緒に、どこまででも進んで行こう。
 
 もうすぐ秋が来る。
 その手のぬくもりを感じられる季節が来る。
 一緒に進んで行こう。
 どこまでも。
 どこまでも――。
 
 その手のぬくもりに…ありがとう。
 
 
 
END
 


400HITリクエスト小説。真闇さまに捧げました。
リクエスト内容は「紫苑くん、お熱を出してバタンキュ〜(シリアス&切ない系)」でした。
見事に外してます。すみません。
しかもまたもや未消化な感じで…。いずれきちんと書くつもりです。
この中に入れようかどうしようか迷って、結局入れなかったお話ですか…。
ああ。本当に申し訳ありません(もう謝るしか)。


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