その手のぬくもり〜AnotherStory〜












 夜の空気は冷える。
 雨が降っていたなら尚更だ。
 そんな雨に打たれ続ければ…。



 風邪も引いて当然だろう…。













「バカじゃねぇのか」

 横から声が聞こえ、紫苑は視線だけをそちらに向けた。

「こ…うま…」

 息も絶え絶え。
 そんな様子で紫苑は呟いた。

 紫苑に声をかけたのは、紫苑と同じ年頃の少年だった。
 吊り上った、赤い瞳が印象的だ。
 名を紅真といい、紫苑と共に方術の修行をしている。
 紫苑にとっては兄弟のような存在だった。

「雨の中、一晩中外で突っ立てたんだって?
一体、何やってんだ?熱出して当然だぜ」

 紅真は言った。

 熱で霞む視界の中、紫苑はただ、
 そう言う紅真を見ているだけだった。
 声は音として聞こえては来るが、
 意味としては伝わってきていないようだった。

 彼が何を言っているのかがよく分からない。
 頭がボーッとして、何も考えられなかった。

 その日、紫苑は風邪を引き、熱を出して寝こんでいた。
 原因は一目瞭然。

 紫苑は昨夜、雨の中を一晩中外に出ていて。
 そのために冷え切った身体を
 拭こうともしないで放っておいて。
 結果、風邪を引いたのであった。

 熱はかなり高いと思われる。

「ったく。お前のせいで、俺まで訓練中止じゃねぇかよ…」

 紅真がぼやいた。

 彼ら二人に方術を指南しているのは、
 シュラという名の陰陽連の男だった。

 彼は二人に平等に方術を教える。
 紫苑が熱を出して訓練ができない今日は、
 紅真も自然と訓練が中止になった。
 曰く。
 「一人一人別々に教えるの面倒」
 とのことだった。

 紫苑と紅真。

 二人が陰陽連に来たのは、
 それぞれ一年ほど前の事だった。

 歳も近く、方術を習う人物も同じ。
 二人は一つの部屋を与えられ、共有していた。

 紅真はそのことに、かなりの反発を覚えていたが――。
 こればかりはどうしようもない。
 自分達は未だ、最低の下っ端なのだから。
 上の人間の決めた事に対して、
 然然(そうそう)文句は言えなかった。

 よって、彼は特に出来ることもなく。
 部屋の四隅の一角に腰掛けて、
 遠巻きに、横になっている紫苑を眺めていた。

 自主訓練でもすれば良いのだろうが、
 生憎。
 外は昨晩から続く大雨の為、
 一歩も外に出られない状態だった。

 一人で修練を積むには、
 多少どころではなく、状態が悪すぎる。
 かといって、室内でもできるような・・・
 いわゆる勉強の類は、
 あまり好きではなかった。

 耳を澄まさずとも、
 雨の降りしきる音が部屋の中に響く。

 部屋の半分近くを陣取って横になっている
 その人に目をやれば、苦しそうな息使いが響いた。

「なぁ…」

 何かを言いかけ、
 紅真はその言葉を止めた。

 離し掛けようとしたその人――紫苑――は、
 もはや彼の方など見てはいなく。
 苦しそうな呼吸はそのままに、
 夢の中へと旅立ってしまっていた。

 荒い息遣いが、いやに耳に響いた。
 そっと近寄って、その顔を覗き込むようにしてみる。

 幼いながらも、整ったきれいな顔をしていると。
 思わず見とれていた。

 どれほどそうしていたのだろうか。
 紅真はただ呆然と、紫苑の寝顔を見ていた。
 目が離せなかったのか。
 何も考えられなくなっていたのか。
 その時の自分の状態は、よく憶えていなかった。

 ただ、本当に。
 そのきれいな顔に見とれていただけな気がする。
 それが、その時の自分の状態にもっとも
 あてはまる気がした。

 そんな状態だったから、
 紅真自身は気付いてはいなかった。

 紫苑の寝顔を見つめる彼のその表情が。
 どこまでも彼の身を案じ、切なそうに――。
 そして、苦しそうに歪められていたことを。

 紅真が黙ってそうしていると。
 不意に。
 紫苑の口が開かれた。

 何か言葉を紡ごうとしているらしかったが、
 熱で喉をやられているのだろう。
 声にはならなかった。

 ただ。
 その様子は一層、苦しそうで。
 助けを求めているかのようだった。

 紅真は顔を歪めた。
 何故そう思うのかは分からなかったが、
 紫苑が助けを求めていると思ったのだ。
 一人で、何かに苦しんでいると感じたのだ。
 そして、何も出来ない自分に憤りを感じた。

 何か自分に出来る事はないだろうかと。
 考え。
 考え。
 …。

 せめて。
 手を繋いだ。

 一人でないという事だけでも、
 伝えたかったから―――。










 いつの間に眠ってしまったのだろうか。

 そんな事をぼんやりとした頭で考えながら、
 紫苑はその意識を覚醒させつつあった。

 酷く。
 酷く、懐かしいゆめを見た気がした。

 時間にしてみれば、
 それは大した時ではない筈なのに。
 今思うと、それは酷く遠い、昔の事のように思えた。

 今よりもっと幼い頃。
 今日のように風邪を引いて、
 熱を出した時のことだった。

 だるさと痛みの為に、普段よりも重くなった身体と。
 熱の為に霞む視界と、出したくとも出せない声と。
 寒いのだか、熱いのだかもよく分からない不快さと。
 あとはもう、すべてが遠くに聞こえる音が。
 とにかく、ひたすらに心細さを感じさせた。

 声が出ないから誰も呼べなくて。
 痛む身体を動かすことも出来なくて。
 霞む視界に捕らえることが出来るのは、
 より孤独感を起こさせる、
 白い霧に遮られた日常だった。

 寂しさを忘れる事が出来るのは、
 眠っている時だけだった。
 余りの体力のなさに、夢さえ見ずに寝られた時だけが、
 孤独も何も感じることなく安らかになれた。

 だが、熱に浮かされる自身は、
 それさえなかなか許してはくれず。
 たいていは、熱の苦しさによる悪夢を見るのだった。
 …それがどんな物だったかまでは、
 憶えてはいないが――。

 その日も熱に浮かされて悪夢を見ていた。
 どんな悪夢だったかは憶えてはいない。
 もしかすると。
 それは単なる暗闇であったのかもしれない。

 とにかくただ苦しくて――…うなされていた。

 そんな時に不意に感じた暖かさ。
 それは、いつも暖かい母の手のぬくもりだった。

 うなされている自分の手を、
 黙ってそっと握っていてくれたのだった。

 それだけが。
 たったそれだけの事で、とても安心できた。
 落ち着けた。
 心地良くなれた。

 今日も悪夢を見た。
 やはり内容は憶えてはいなかった。
 ただ、熱の苦しさに
 うなされていただけなのかもしれなかった。

 助けを呼びたかった。
 呼ぼうとした。
 ここにはもう、手を握ってくれる人もいないのに――。

 どちらにしても、
 声が出ないのだから、どうしようもない事だった。

 ただ、無意味な息が漏れただけだった。

 不意に。
 暖かなぬくもりを感じた。
 幼い日に感じた母のぬくもりと同じ。
 いや、それよりももっと暖かなぬくもり。

 心の底から落ち着けるような。
 そんな、暖かなぬくもりだった。


 全部、夢だろうけどな…。


 紫苑は一人ごちた。

 ここにはもう、苦しむ自分の手を
 とってくれる相手などいないのだから…。
 もうどこにも、そんな相手はいないのだから……。

 身体を置き上がらせようとして、ふと気付く。
 左手に重みを感じた。


 ・……。


 紫苑は暫し、あっけに取られた。

 紫苑の直ぐ隣。
 正確に言えば、
 紫苑の身体に折り重なるような形で、
 紅真が眠っていたのだ。
 その左手は、
 しっかりと紫苑の左手を握り締めていた。


 風邪…引くぞ。


 胸中で呟く。

 そんな言葉しか出てこない自分が、
 どこかもどかしかった。
 もっと、暖かい感謝の言葉を。
 それが出来なくとも、
 それに代わる行為を何か――。

 何でも良いから、
 ただ胸中で呟くだけでなんて、
 終わらせたくなかった。

 結局。
 自分が暖房のために掛けていた布の一枚を、
 その背に掛けてやることしか出来なかった。

 黒く艶のある髪を、
 開いている方の手の指先で梳いてみる。
 その髪は、見た目よりもずっとやわらかく。
 その手のぬくもりと同等に、暖かかった。

 手を振りほどこうなどという考えは、
 欠片ほども思いつきはしなかった。

 その暖かさに、再び眠気が誘われる。
 紫苑は、紅真に繋がれた手をそのままに、
 再び夢の中へと誘われていった。
 今度は、悪夢ではない夢。

 外では、未だに雨が振り続いているようだった。









 紅真は目を開けた。
 寝てしまった時の記憶がなかったが、
 自分が寝入ってしまっていたのは間違いがなかった。

 紫苑に見ほれて、そのまま寝入ってしまった。

 その事実を目の辺りに尽き付けられ、
 不意に気恥ずかしさが込み上げてくる。


 せめて、紫苑に気づかれていないのが救いか…。


 未だ手は繋がれたまま。
 眠っている紫苑を確認し、
 にが虫を噛み潰したような表情で、そう呟いた矢先。
 置き上がろうと、
 上半身を紫苑の身体から浮かせた時だった。

 ぱさっ。

 肩から何かの布が滑り落ちた。
 手に取って見てみる。

 それが何であるかは直ぐに分かった。
 紫苑が掛けていた布の一枚だ。
 見ると、確かに彼の掛けていた布の数は、
 一枚足りなくなっている。

 カァッーー!

 紅真は自分の顔が一気に熱くなっていくのを感じた。
 今、目の前で安らかな寝息と共に眠っている
 紫苑よりも熱を持っているような気がする。

 紅真は愕然とした。

 紫苑に掛けられていた布が、自分に掛けられている。
 それはつまり、
 紫苑が一度目覚めたという事を意味していた。

 もし他の誰かがこの部屋に入ってきて、
 ご丁寧にも自分に布を掛けてくれたのだとしたら、
 まかりなりのも病人に掛けられている物を
 使ったりはしないだろう。

 そもそも、
 紫苑の上には自分が折り重なっていたのであるから、
 どちらも寝入っている状態で、
 この布を取る事の方が難しい。

 そんな事をするくらいなら、
 この部屋にまだ残っている、
 別の布を使ったほうが余ほど楽である。

 紅真は紫苑を見た。

 紫苑はいまだ安らかな寝息を立てて眠っている。
 規則正しいその呼吸は、彼の容態が
 もうかなり良くなった事を意味していた。

 その事実に、紅真我知らず安堵の溜息を付いていた。

 暫らくはそのまま。
 再び紫苑を寝顔を見つめていた。

 もう、外からは、雨音は響いてこなかった。

「なぁ…なんで、雨の日に外になんかいたんだよ…」

 先ほど飲み込んだ言葉を、紅真はそっと呟いていた。
 いまだ、紫苑は目覚める様子を見せはしない。

 部屋にはただもう。
 紫苑の静かな寝息しか響いてはいなかった。










 紫苑が目覚めると、紅真の姿はもうそこにはなく。
 繋がれていた手に僅かに残るぬくもりだけが、
 僅かに残っているだけとなっていた。

 彼は繋がれていたその手を見つめた。
 夢現の中に響いた、彼の人の言葉が思い起こされる。


 なんで、雨の日に外になんか――


 紫苑はその言葉を反芻した。
 心の中には、
 その答えなど何も思い起こされはしない。

 当然だ。
 理由など、いまだに自分でも分からないのだから。

「なんで…か…――」

 どうしても答えを出さなくてはならないのだろうか。
 もしそうであるのなら、出せる答えは一つ。
 それでも、きっと違うのだが…。
 今ある答えの中では、一番近い気がする。

 それは――。

「夜の水に…触れたかった…から――」

 きっと、それだけ。
 月の雫に触れたかった。










 次の日。
 紫苑の熱は完全に下がっていた。

 紫苑の傍で寝入ってしまっていた紅真は、
 どうやら風邪がうつる事はなかったらしく。
 いつもと何ら変わりない朝を迎えていた。

「紅真」

 紫苑は声を掛けた。
 紅真が振り向く。

「なんだ」
「……」

 紫苑は暫く言うのを躊躇うかのように、
 目を宙にさ迷わせてから、
 決心したように、
 真っ直ぐに紅真の目を見つめた。

 紅真はじっと黙って、それを見ていた。
 紫苑の言葉を、ずっと待っていた。

「…昨日は、悪かった…――」
「っ…それ――」
「それからっ」
「……」

 紫苑の台詞に何か言いかけた紅真は、
 それを遮る、
 紫苑のさらなる言葉に口をつぐんだ。

「……ありがとう…――」

 大して長くもない沈黙の後、
 紫苑はそれだけを言い、
 そのまま紅真に背を向けて歩いて行ってしまった。

 その時の彼の顔がどこまでも穏やかだったのが、
 彼の言葉が心からのものであることを
 表しているだろう。

 紫苑の背を見送る紅真の顔は、
 どこまでも赤く染まっていた。
 身体が硬直して。
 頭が真っ白になって、何も出来なかった。




















 何もない。
 もう何もなくなったはずのそこで得た。
 たった一つの…ぬくもり。










 知らない。
 どうしてそうしたのかなんて知らない。
 ただ、触れていたかった…。































 それだけが、最後に残された本当だった。
































 おわり









 ■あとがき■

 400HITリク小説「その手のぬくもり」のアナザーストーリーです。
 紫苑が知っていた、もう一つのぬくもり。
 本当は、紫苑は自分の手を握っていてくれた人が誰なのか
 知らないで終わる予定だったのですが…何がどうなったのか、こうなりました。
 紅真はこんなに出張る予定ではなかったし…。
 陰陽連時代の一齣だと思っていただけたらいいなぁ…と。




 もどる