朱い鳥



 いつからなのだろう。
 この夜空に浮かぶあの星が。
 この地のサイクルを手にしたのは。

 いつからなのだろう。
 この夜空に浮かぶあの星が。
 この僕の心を狂わせ始めたのは。


 僕の中には、朱き焔を纏った鳥がいる。




 満月の夜だった。
 煌煌と照らし出される世界は、昼よりずっと冴え渡る。

「父さんーー!!」

 絶叫は戦乱の渦に呑み込まれ―――。
 やがてそれは混沌の涙と共に現れる。

「いつかかならず殺してやる!いつか―――!!」

 少年の瞳には、憎き敵の姿が焼きついた。
 それは―――。
 恐ろしいほどに美しい―――朱き炎に栄える蝶。




 月が出ていた。
 美しい新月の夜。
 何の姿も見せない月が、夜空にひっそりと浮かび上がっていた。

 こんな日はいつだって不安になる。
 何故か何て分からなかった。
 きっと理由などないのだと思ってみるが、それが違う事ははっきりと分かる。
 自分が月の満ち欠けに左右されているのを、いつからこんなにはっきりと感じるようになったのだろうか。

 紫苑は夜空を仰ぎ見た。
 月はない。
 月のない日はいつだって不安になる。
 月代国にいた頃も。陰陽連にいた頃も。そして今―――邪馬台国にいてもそれは変わらない。
 新月の夜は、いつよりずっと臆病になる。
 どうしようもないほどに全てが恐ろしくなって、何もかもから逃げたくなる。
 光がないからこそ浮かび上がる数々の憎悪の瞳が、こちらを獣のように見つめているようで。
 何もかもが恐ろしくなる。
 まるで、自分が獣に狙われ続けているように。
 そして―――。



 月が出ていた。
 美しい満月の夜。
 冴え冴え(さえざえ)とした光りが、辺りを仄かに照らし出していた。

 こんな日はいつだって恐ろしくなる。
 自分がとても恐ろしくなる。
 自分の心がこの月の光と同じよう。冴え冴えと尖(とが)れていく。
 何もかもを突き刺すように、心が尖れていく。
 腹を減らした獣以下。
 敵も味方もなくなりそうで、何より自分が恐ろしくなる。

「はぁ……」

 紫苑は溜息を一つ付いた。

 ここは邪馬台国から少し離れた所にある川原だった。
 邪馬台国にやって来てから、紫苑は満月の夜は必ずここへとやって来て、夜が明けるのを待っていた。
 人も獣の気配もしないこの場所は彼のお気に入りの場所だ。
 何にも心を動かされることなく、ゆっくりと眠りに付ける。
 尖がり、冴えた心とて、奮うものがなければ意味はない。
 どんなに強暴な獣とて、獲物がいなければ何も傷付けられはしない。
 なんの気配も感じる事のないこの場所は、冷酷に猛る己の心を鎮める子守唄だった。

 どうしてこんななのか。
 紫苑は草の上に横になりながら夜空を見上げた。
 月は相変わらず。
 暖かな温度など一欠けらも持ち得ない光を放ち続けている。
 この光を受けていると、自分の心が、まるでこの月の光と同じ温度にまで下がっていくような気がしてならない。
 暖かな人の心など全て忘れ、いっそ何もかも消し去ってしまいたくなる。
 どこまでもどこまでも。自分でも信じられないほどどこまでも冷酷になる自分を見つける夜。
 自分でも信じられないほど冷酷な自分が現れる夜。
 それが満月の夜だった。



 恐ろしくて眠れなかった。
 新月の夜はいつもこうだ。
 部屋の片隅に縮こまり、震え続けながら朝を待つ。
 目を開けてその手を見れば、それは血に朱く染まり。
 何かが来るのではとその視線を前に向ければ、そこは屍の山で。
 ひきつった声を上げ目を逸らそうと下を向けば、そこからは己の血に染まった死人が自分を引きずり込もうと腕を伸ばして迫ってくる。
 どれもこれも皆虚ろな焦点の合わぬ目をしているのにもかかわらず、それらは確かに己を睨みつけていた。
 恨みのこもるその瞳。
 醜く腐りかけたその身体。
 己を染め上げるその血の色。
 それら全てから逃れたく目を閉じれば、今度は暗闇が自分の恐怖を煽りたてる。
 この暗闇の中に潜む獣が、突然自分を襲うのではないか。
 少しでも眠ってしまえば、辺りに隠れる獣にその身を裂かれ、自分はあの亡霊によって地の底へと引きずり込まれてしまう。

 目を逸らす場所などなく、その目を閉じることさえ許されぬ恐怖。
 全ての気配と、全ての音と。
 自分の中にある全ての記憶。
 この世の全てが自分に恐怖を与え、それらが自分を捕らえにやって来る。
 己が最たる敵となるのだ。
 ただ震えて耐えることしか出来ない。



 紫苑は目を覚ました。
 否、元より眠れてなどいなかった。
 川を挟んだすぐ向こうにある森の中から突き付けられる視線に、寝むけなど掻き消される。
 それでもじっと横になっていたのは、それが単なる視線であったからだった。
 それが殺気に変わった。
 殺気に変わったその時、それを発する何者かがゆっくりとこちらとの距離を縮めて来るのを感じる。
 確実に縮められていくその距離に、紫苑は意識を集中した。
 身体は起こさないまま、その意識を研ぎ澄ます。

 ガサリ。

 草の擦れる音がしたと同時。
 森へと続く草地の中から黒い影が飛び出した。
 紫苑はすばやく身体を起こして腰の剣を抜く。そのまま一つ動作で飛び出してきた影の頭部めがけて剣を突き出した。
 影はとっさにその動きを止める事により頭部への剣戟を免れたものの、己の剣を振りかぶったままの不自然な体勢での停止は、どう考えても不利な事この上なかった。

 紫苑は起き上がろうと地に片膝を立てた姿勢のまま、真っ直ぐと影の頭部――正確に言えば眉間――に剣を指し示していた。
 冴え冴えとした満月の明かりが、影を照らし出す。
 浮き彫りになったそれは、紫苑と同じか一つ二つ年上の少年だった。
 悔しそうなその目とその表情で、微動だに出来ず紫苑を見下ろしている。
 憎しみが込められているか否かなど、愚問であった。

 紫苑は立ち上がるとその剣を収めた。
 そのまま少年には見向きもしないまま。まったく興味がないとでも言うかのように立ち去ろうと背中を向ける。
 歩き出そうとしたその時だった。
 少年は紫苑の背中に声をかけた。

「待てよっ!」

 紫苑は立ち止まり首だけを動かして振り返る。どちらかというと、それはただ視線を向け一瞥しただけといった風だったが、少年の次の言葉を待つかのようにじっと黙っているのを見ると、振り返ったと言っても良いような気がする。
 冴えきった無機質な表情と視線は、月の光に照らされてどこまでも美しかった。
 その美しさに、少年は思わず言葉を詰まらせる。
 凛とした。弱さなどどこにもない戦乙女のようなそれに、洗礼を受ける前のような緊張感と、大鎚で直接胸を打ち叩かれたような衝撃に身が竦んだ。
 何も言葉を発しようとはしない少年にたまりかねて、紫苑は先を促がすために口を開いた。

「…――なんだ。早く言えよ」
「!―――どうして……」
「?何が」
「どうして!なんで殺さない!!」

 少年は叫んだ。
 それは怒鳴りつけたと言っても良かったかもしれない。

「人殺しめ!どういうつもりだ!何を企んでやがる!!」

 紫苑が何も言わずにいると、少年は勝手に叫び出した。
 喚き散らすように、紫苑に向かって悪態を吐き続ける。
 紫苑はただ黙って―――じっとそれを聞いていた。
 少年から目を逸らすこともせず。もはや身体の向きまでも少年に向き直らせて、じっと黙って少年に向き直っていた。
 真っ直ぐに。
 瞳も心も逸らすことなく、少年に向き直らせていた。

「どうせなんとも思っちゃいないんだろうがな!お前に殺された人間には家族がいんだよ!!てめぇが潰した国には、確かに民が存在していたんだ!!」
「……」
「憶えてもいないんだろう?知りもしないんだろうけどな!俺はお前に父上を殺されたんだ!!お前は父上の敵なんだよ!!なんで…!!なんで、人殺しのくせに俺は殺さないんだよっ!何もしない父上や民は殺してッ。なんでお前を殺そうとした俺は殺さないんだよっっ!!!」

 少年の叫びには、何時の間にか涙が混じっていた。
 少年は嗚咽と共に涙をこらえきれずに流し続けた。
 俯き、拳を握り締め。
 悔しさとやりきれなさに涙を流し続けた。
 暫く黙ってそれを見ていた紫苑が、ゆっくりと口を開いた。

「―――意味がないからだ」

 紫苑のその声に、少年は顔を上げた。
 紫苑は言葉を続けた。
 その身に沸き起こる……どうしようもない衝動を抑えながら。しっかりと言葉を紡いだ。

「お前のことは…知らない。でも、お前の国を潰したのは、きっと俺に間違いない。お前を知らないから、お前の言っている国がどれなのかは分からないけど…言われれば、それも憶えてる。潰した国の名も。殺した人間の顔も。忘れた事なんてない」
「そんなの…信じられるか……。だいたい、意味がないってのはそういう事なんだよっ。俺には殺す価値もないってことか!!」
「そうじゃない…。別に、お前に事細かに説明する気はないがな――その時は、それが正しいと思っていたんだ。迷いは確かにあった。それでも、その時はああする事が平和への最短の道だと思ってたんだ」
「平和…だと?」
「そうだ。今はそれは間違っていたと思っている。殺してしまった人々。潰した国々。全てに罪悪感を持っている」
「そんなの信じられるか!だったら…本当に悪いと思ってんなら、どうしてあんなことして、今ものうのうと生きていられんだよっ!!」
「俺には――」

 紫苑はそこで一端言葉を切った。
 自分で自分の思いを決めるかのように。
 しっかりと言葉を放つ決意を。その言葉に自分の確固たる決意を込める。
 紫苑は少年の瞳を真っ直ぐに見た。

「俺には、やらなければならない事がある」

 だから、まだ死ねない。
 どんなに悪夢に襲われても、決して死ぬわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。
 どれほど傷ついても、決して倒れるわけにはいかない。立ち止まるわけにはいかない。

「きっと…これからも誰かを殺すことはあるんだと思う。でも、俺はそれをやめるわけにはいかない。それが―――今まで俺がしてきたことへの、唯一の償いになると思うから」
「―――…きれいごと…っだ」

 少年は絞り出すように言った。

「そんなの…単なるきれいごとだ!」
「ああ」

 紫苑はその言葉を肯定した。
 分かっている。
 誰かの命を奪うことの重みも。
 大切な場所を潰す重さも。
 それの起こす悲しみも。歪みも。憎しみも。
 全て分かっている。
 知っている。

「それでも、俺はそうしなければならないと思った。俺は、そうすることで償おうと決めた」

 大切な何かを奪ってしまった罪を。
 この国の大地を傷つけた罪を。
 これから先を生きてく者達の為に、平和を残すことで。
 それで全てが償えるとは思っていないけれど。
 それはただの自己満足なのかもしれないけれど。
 それでも、何もせずに死ぬわけにいかない。

「きれいごとだ…そんなのは。俺はっ、お前を殺して皆の敵を取ることだけを支えに!お前への憎しみだけを糧に生きてきたんだ!!」
「それでも、俺は未だ死ぬわけにはいかない。だから、お前に殺されるわけにもいかない」
「っ!それがきれいごとだって言ってんだよっ!!」

 少年は再び剣を上段に構えて突進してきた。
 真っ直ぐと。
 紫苑めがけて一直線に、全速力で駆けた。
 少年は紫苑の胴体を真っ二つにでもするかのように剣を勢いよく落とす。
 紫苑はそれを横に体の向きを変えることで軽く受け流す。
 少年はすぐさま紫苑に顔を向け、下ろした剣を力任せに振り上げ横に薙ぎ払った。
 紫苑は半歩片足を後ろに引く事それをでかわす。
 それらが一連動作に行われた後、少年は再び口を開いた。

「何で剣を抜かねぇんだ!やる気があるのか!!」
「剣を抜く必要はない。俺にはお前を殺す理由がない。必要もな」

 紫苑は落ち着いた声で言った。
 その言葉には多少の偽りがある。
 剣を抜く必要がないのではないのだ。
 剣を抜いたら最後。彼を殺さずにいることなど、今度はもう出来ない。
 満月の光に心が冴えていくのが分かる。
 次は、きっともう止められない。

「―――言っただろう。俺は、お前に復讐することだけを糧に生きてきたんだ」

 少年は今度は静かな声で言う。
 構えを解いて、力が抜けたように剣を下げたまま。

「俺には…お前は殺せない。力の差がありすぎるからな」
「だったら―――っ」
「でも!お前に復習することは出来るんだよ!!」

 紫苑が何か言おうとするのを遮るようにして、少年は自分で自分の腹にその剣を付き立てた。
 その行動はあまりに急であまりに早く。
 紫苑の止める間などどこにもありはしなかった。

「なっ…何を……」
「ハ…ハハハ……。どんなにきれいごと並べたってな…おまえっは、人殺しなんだ…よ」

 少年は切れ切れな声で。それでも笑ながら言った。
 どこか狂気じみたその笑みに、紫苑はただ呆然と聞き入ることしか出来なかった。
 今なら未だこの少年の命は救うことが出来る。
 どこかでそんな声が聞こえた気がしたが、体は微動だにもしようとはしなかった。

「これからもいくらでも来るッ…だ!俺みたいな奴が…いくらでも…。みんな、お前のせいで死んでいくんだ!!」

 少年は最後にそう叫び―――息絶えた。
 人殺しはどこまで行っても人殺しなんだ。
 何も変わらない。
 いるだけで。その存在だけで人を殺すんだ。

 紫苑は未だに動くことが出来なかった。
 喉が乾く。
 冷たい汗が噴き出してくる。



 どうしたの?
 今更何に脅えてるの?
 これが君の本性だろ?


 俺の…本…性?



 どこからか語り掛ける声が聞こえてくる。
 身体に何かが纏わり付くような感覚に襲われる。



 そうだよ。
 君はいつだって、何かの死を望んでるんだろう?
 だから、さっきも彼を助けなかった。


 違う…。
 それは…身体が動かなく…て……。


 違わないよ。
 君はいつだって血の香りと、土の焼ける匂いと。
 山のように築かれる屍を求めているんだ。
 鮮やかなどす黒い血が流されるのを望んでいるんだよ。


 違う!


 違わないよ。



 違う違う違う!!


 違わないよ。
 君はいつだって暗闇に栄える赤い炎を求めているんだ。
 その中に飛び込んでいく虫どもを眺めたくてね。
 君はいつだってその朱い炎でいるのさ。



 違う違う違う違う違う違う違う―――。



 違う…。



 違う。



 …――。




 月が出ていた。
 決して目に見えることのない月の夜。

 あの満月の夜。
 少年の遺体を土に返した。
 その血が腕に染み付いた。
 川の水につけてどれだけこすっても、それはいつまで消えてくれなかった。
 実際はすぐに洗い流されたのだろう。
 しかし、紫苑の目にはいつまでもその染みが彩鮮やかに写り続けた。

 いつもと同じ。
 全てが敵だらけ。
 この夜は自分が獲物になる。
 数々の屍と亡霊に狙われ続け、脅え続ける。

 今夜もそう。
 目の前には屍の山。
 虚ろな目を煌煌と輝かせて真っ直ぐにこちらを見てくる。


「!」


 紫苑は目を見開いた。
 目の前にそびえる屍の山の中。
 その中に動くものがある。
 生きている者がいる。
 屍に埋もれ、今にも押し潰されてしまいそうで。
 こちらに向かって必死に助けを求めている。


(助けなくちゃ――!)


 そう思い立ち上がろうとしたが、身体が動かない。
 生者(せいじゃ)はだんだんと力をなくしていく。
 そうしてついには息絶えて―――。

 恨めしそうな瞳がこちらを見つめる。
 足が竦んで動かなかった。


―――人殺し―――


 どこからか声が聞こえた。
 紫苑は、はっとして辺りを見まわすが、声の主を見つけることは叶わず。
 けれども確かにいる何者かの気配に、再び身を縮こませた。


―――君は朱い炎なんだ―――


 再び声が響く。
 あの満月の夜に聞こえた声と同じ。
 紫苑は必死に耳をふさぐが、それは頭の中に直接吹き込まれるかのように消えてはくれなかった。
 その声が再び言葉を発する。
 目を閉じ、耳を塞ぎ。
 何をしても脳を叩くように響いてくる声に、紫苑は身体を固くした。



―――君はそこにいるだけで全てを燃やし尽くす―――
―――君はそれを望んでいる―――
―――誰かにその腕を伸ばしてみるといい―――



―――その腕の焔に焼かれ、全て炎に包まれるから―――




 紫苑は必死に耳を塞いだ。
 もう否定の言葉も出せなかった。
 恐怖は日に日に数を増していく。
 生きている限り、その罪に身が引き裂かれるほどの罪の意識を確認させられる。
 生きている限り、どれほどの者の恨みと出会うのか。



(それでも―――)



 紫苑は震えながら必死に呟いた。
 未だ心の片隅に残る、一欠けらの砦。
 そこが崩れれば、自分はいとも簡単に人を殺し、罪の意識に殺される。
 紫苑は震えながら必死に呟いた。



(それでも…――俺は、まだ死ねない)




 どこからか声が聞こえる。
 それはあの満月の日に聞いた―――。



 ほら。君は永遠に苦しむんだ。
 死と、罪と。
 そして生の恐怖に――。




 ほら。君は永遠に苦しむ。



 ――己の身を取り巻く、その焔の熱に――



 君は、まだ死ねない。





おわり





 遠琉さまに捧げました500HITリク小説です。
 リクエストは「邪馬台幻想記小説/紫苑くんのダーク系な話」でした。
 いかがでしたでしょうか?
 何か無駄に長い文になってしまいましたが…もう本当に進歩なしで申し訳ないです。

 ■少年について■
  (注:ネタバレあとがきかもです)
   その一:実はどこかも国の皇子様という設定でした。
   その二:初めは死ぬ予定ではありませんでした。
  という使うことのなかった設定があったりして…(汗)。
   少年が生きてるとダークにならなそうだったのです。

 それでは遠琉さま。
 このようなつたない小説ですが、受け取っていただけたら光栄です。


もどる