求めるもの
―――嫌がらせだよ―――
そう言って、彼は笑ってみせました。
ドンッ!
紫苑が壁に叩きつけられ、
建物が大きな音を立てて揺れた。
彼は首元を片手で抑えつけられ、
壁に縫いつけられる形になっていた。
彼の首元を抑えつけ、
彼を壁に縫い付けるような形で、
壁に抑えつけている人物。
それは、彼と同じ年頃の少年だった。
黒髪に赤い瞳の少年。
名を紅真という。
彼は、憎しみの篭もったその赤い瞳で、
紅真自らの力によって
壁に縫い付けられている紫苑を睨みつけていた。
ここは、数ある陰陽連支部の内の一つだった。
陰陽連支部の中で、
紫苑にあてがわれた部屋の室内だ。
紫苑が自室のこの場所で
休みをとていたところに、
紅真は急にやって来た。
そして、紫苑が紅真に、
彼がこの部屋にやって来たことの
要件を訊こうと立ち上がると…。
紅真は何も言わずに
紫苑の首元を抑えつけて壁に押し付け…
…今に至っていた。
「何のようだ。紅真」
首元を抑えつけながらも、
紫苑ははっきりとした声で訊ねた。
喉を抑えつけられてはいても、
潰されてはいないようである。
紅真は未だ、黙っていた。
憎しみのこもった強い瞳で紫苑を睨みつけ…。
紫苑もまた、それに返すように
強い瞳で紅真の瞳を真っ直ぐと見つめ返していた。
紫苑の瞳には、
憎しみは特別見受けられなかったが…。
「紅――」
「――でだ…」
何も言おうとはしない紅真に、
再度紫苑が問いかけようとした時。
紅真のかすれるように小さい――
――けれど強く重たい声が盛れ、
紫苑の言葉が止められた。
紅真の搾り出されるような声音が、言葉を続ける。
「なんで…俺はお前に勝てない……」
「紅真…?」
「俺は!
俺は誰よりも何よりも強くならなくちゃ
いけないのに…!!
なんで!お前に勝てないんだよ!!」
紅真は紫苑に抱き付いていた。
縋り付くように、紫苑に泣きついていた。
「紅真…」
紫苑は自分の肩口に顔を埋めるようにしている
紅真の後頭部をなでるようにして、
その名を呼んだ。
彼が何故、泣いているのかが、分からない。
両の肩は、紅真の手によって掴まれ、
彼が彼自身の身体を支えるかのように、
紫苑の肩に掛けられたマントに立てられた爪が、
紫苑の身体にも痛みを与えた。
「紅真…。なんで、お前は
強くならなければならないんだ?」
紫苑はもう一度訊ねた。
紫苑の肩に顔を埋める形で下げられた
紅真の顔を上げさせるように、
彼の肩にそっと手をかける。
紅真は心持ち顔を上げると、
先程よりはずっと弱々しい瞳で。
けれども真っ直ぐと紫苑の瞳を見つめて言った。
「俺の国は、古から方術を伝えていた…」
「!」
紅真の言葉に、紫苑は己の目を見開かせた。
しかし、紅真はそんな紫苑には
気づいていないように、
自分の言葉を続けた。
「俺の国は、俺の国と同じように、
古から方術を伝える他の国々に、
ずっと馬鹿にされつづけてきた。
俺の国は、戦術である方術を伝えながら、
そのほとんどが
治癒や防御にばかり偏っていたからだ」
紫苑は黙って紅真の言葉に耳を傾けていた。
驚愕に高鳴る己の鼓動を感じながら。
記憶の片隅に浮かび上がってきた、
父の言葉を蘇えらせながら。
紅真の言葉に耳を傾けつづけた。
「牙を持たない龍。
ずっと、そんなふうに言われ続けてきた。
父王はずっと俺に言い聞かせていた。
強くなれと。
周りの奴らに、
自分達が牙を持っていることを知らしめるんだと!」
紅真は紫苑を掴む手に力をこめた。
紫苑の肩の肉が、それに軋むような音を立て、
紫苑の顔が僅かに歪む。
「父王も俺の国も、願い果たせずに滅んだ。
だから、俺は誰よりも何よりも
強くならなければならないんだ!
俺の国と同じように、古から方術を伝える
月代国や他の国々を見返すために!」
紅真の言葉に、紫苑の肩が揺れた。
だが、自分の言葉に、
その思いに霧中になっている紅真は、
その事に気が付かない。
「治癒や防御ばかりしか使えない弱い国だと
嘲った国々を、俺は見返してやるんだ!
それが、今は亡き父王の、国の民のの願い――」
「――違う!」
紫苑の叫び声に、紅真の言葉が中断される。
めったに声を荒げない紫苑の怒鳴り声に、
紅真ばかりでなく、
声を上げた紫苑自身も、
驚愕に顔を歪めていた。
「――違う…」
暫らくの沈黙の後、
漸く口を開いたのは、紫苑だった。
「月代国は、そんなこと、言っていない。
馬鹿にしてなんていない…」
「――どうして、そんなことが言える?…」
紫苑の言葉に、紅真が眉を顰めて問うた。
誰を嘲っているのか。
皮肉のような微笑が、その顔に貼り付いていた。
「俺が…月代の人間だから…だ……」
「!」
紫苑の台詞に、今度は紅真が驚愕に顔を歪めた。
もっとも。それは紫苑の時と同等。
ほんの一瞬の事でしかなかったが。
「父上に…聞いたことがある。
月代と同じように、古から方術を伝える国の話」
「……」
「治癒や、防御に優れた才を見せる国の話を
…聞いたことがある」
「……で?弱い国だと嘲っていたか?」
紅真は自嘲するように言った。
そんな紅真の台詞に、
紫苑は紅真を睨みつけた。
強い口調で返す。
「違う!父上はそんなこと言っていなかった」
「ふん。言っていなくても思っていただろうよ。
お前だってそうだろ?
攻撃の術(すべ)を持たない戦術に、
何の意味がある?」
紅真は再び捲くし立てた。
紫苑に口を挟む余裕を許さないかのように。
今までため込んでいた己の思いを
ぶつけるかのように。
吐き出すかのように。
彼は言葉を捲くし立てた。
「俺も聞いたことがある。月代国の話だ。
たしか、暗殺術に優れた国だと聞いた。
父王はいつも言ってたぜ。
この国にもその術があったらとな。
そうしたら、他の国になめられることも、
馬鹿にされることもなかったとな。
笑い話さ。
その月代国は、俺らの国より先に滅びたんだ」
「!…俺も聞いたことがある」
紅真の言葉に、
紫苑は何かを叫ぼうとして…やめた。
何を言っていのか。
何を言えばいいのか。
言葉が喉元で抑えつけられたかのように、
霧散してしまい、何も言葉が出なかったからだった。
溜息と共に、とっさに沸き起こった激情も吐き出し。
浴びせようとした罵声の代わりに、
紫苑は別の言葉を紡いだ。
「たしかに、俺の国は暗殺術に秀でていた。
俺の国は…というより、
俺の一族は…って言った方が良いけどな」
紫苑は静かに語り始めた。
心の奥底に封じこめてしまった、
懐かしい過去の記憶を。
何故紅真にそれを話す気になったのか。
何故、今、自分はその事を話すのか。
口が勝手に動くように、言葉が紡がれていた。
「俺は、父上に訊ねたことがあった。
もっと、人を殺す以外の術はないのか?と…」
紫苑の問いに、紫苑の父は答えた。
それは、別の国に伝わっていると。
自分達には、その術は伝えられていないと。
父のその答えに、紫苑はさらに言った。
その術を伝えている国に、
その術を教えてもらえるように言ったらどうかと。
「父上は言った。
たとえ術を教えてもらった所で、
俺達にその術は使えないと」
「…俺も聞いたことがある。
治癒以外の術を、他の国に教わればいいと」
「…で?」
「同じ答えが返ってきた。
……方術は誰にも使える。が、――」
「――が、しかし。特定の者にしか使えない術もある」
紅真の台詞を、紫苑が継ぐようにして言った。
紫苑の言葉に、紅真は頷いた。
「それは、たとえ自分の血をすべて抜き去り、
その術を使える者の血と入れ替えたとしても、
使えはしない――」
「何故なら、それは魂に刻まれた印によって
力を発揮し、使うことができるものだから…」
時刻はもう、深夜と呼んでいい頃だった。
どこかで鳴いてる梟の声が、
静寂に包まれた部屋の中に響いた。
その静寂を先に破ったのは、紅真だった。
「…なぁ、紫苑」
「なんだ?紅真」
「なんで、治癒の術なんか、知りたかったんだ?」
紅真の問いに、
紫苑は少しだけ考えるように言葉を切ってから
…答えた。
「誰かを傷つける術より、
誰かを助けられる術を知りたいと思ったんだ」
命を奪うことよりも、
命を助ける術を持ちたかった。
命を奪うことで誰かを助け、
何かを守るよりも、
癒すことで守りたいと考えた。
「俺は…牙が欲しいと思った」
紫苑の言葉に、紅真は言った。
強く。
何者をも従える強大な龍。
けれど、爪も牙も持っていなければ、
それは巨大なミミズでしかないではないか。
「ミミズは言い過ぎだと思うぞ」
「そうでもねぇよ。攻撃が出来なきゃ、蛇にも劣る」
苦笑して言う紫苑に、紅真は素っ気無く答える。
「…でも、すべてを囲み、
護ることのできる鱗が残ってるじゃないか」
「方術は戦術だぜ。
攻撃ができなきゃ意味がねぇよ」
紅真はそう言い、
再び紫苑の肩口に顔を埋めた。
何時の間にか、
彼の両の手は、紫苑の背中に回され…。
彼の腕は、紫苑を囲うように抱いていた。
紫苑はそうする紅真の頭をそっと撫でやった。
まるで母が子をあやすように、
何も言わずに、そっと撫でてたやった。
「――父上が」
「?」
不意に発せられた紫苑の言葉に、
紅真は疑問符を浮かべて顔を上げた。
紫苑はかまわずに言葉を続ける。
「父上が言ってたんだ。
月は、生物の心を狂わし、
その命を奪うことしか出来ないって…」
「…それで?」
「俺は訊いたんだ。
それなら、何が、命を助けるのか…って」
月は生物の心を魅了し、狂わせる。
命を与え得る生命の水は、
狂った月の神が司っている。
生命の母たる蒼海原を治める神は、
闇に支配される夜の神だ。
では、何が命の救う?
「父上はこう言ったんだ。
命を救うことができるのは、
夜の闇に支配されずに、輝く星々だって」
「星?それなら、月もそうだろう?」
月は、太陽のない夜の空で、
どんな星よりも明るく輝いている。
「月は狂わすんだ。心を奪う。
星は巡るんだ。命をつくりだす道を巡る」
紫苑は静かに言った。
紅真は黙ってそれを聞いていた。
「華のように静かに
光り輝いている存在じゃないと、
命は救えないんだってさ。
その話を聞いたとき、凄く悔しかった。
そんな、優しい強さが欲しいと思った」
「華のように静かに…光り輝く…」
「華麟国だろ?お前の国の名前…」
「……」
紅真は何も言わなかった。
紫苑の何も言わない。
ただ黙って、二人とも互いを抱きしめていた。
「…それでも」
口を開いたのは紅真だった。
紫苑は、顔を下げたままの紅真を見た。
「それでも俺は、強くなりたい。
強くならなくちゃ、いけないんだ…」
「……いいんじゃないのか…それで」
紅真の台詞に、紫苑がそれだけを言うと。
「…おいっ、紅真…?」
不意に、紅真の顔が近付いてきた。
紫苑は慌てて、己の顔を後ろへ逸らすが、
体は紅真に抱かれるように支えられ、
後ろは直ぐに壁というその状況では、
大して顔を動かすことは出来なかった。
ゆっくりと近付いてくる紅真の顔に、
紫苑からはもう、
彼の赤い瞳しか見えなくなった時だった。
「……」
唇に触れる暖かな何かに、
紫苑はその瞳を見開いた。
触れた暖かな何かが
紅真の唇であると気が付いたのは、
それが自分の唇から離され、
紅真の顔の全体が窺がえるように
なってからだった。
「……紅真?…何…を?」
何が起こったのか未だ理解できていない。
そんな呆然とした声音で吐かれた紫苑の台詞に、
紅真は薄く笑って言った。
たった一言。
「別に。ただの、嫌がらせだよ」
いとおしいほどに、憎いお前への。
「ただの、嫌がらせだ」
そう言って、紅真は紫苑の部屋を後にした。
後にはただ、呆然とする紫苑の姿。
紫苑はゆっくりと、
未だそのぬくもりの残る
己の唇に触れてみた。
去り際の紅真の表情が浮かぶ。
今更火照りだした自分の顔に
紫苑は漸く、何が起こったのかを理解した。
夜は、静かにふけていった。
――凄く悔しかった――
紫苑の部屋から出て、
自室へ続く廊下を歩きながら、
紅真はその言葉を繰り返していた。
唇に触れてみる。
最後に見た、彼の表情を思い出す。
紅真はうっすらと笑った。
「ぜってぇ、まけねぇよ」
そう呟いた彼の台詞は、
夜の静寂の空気に消えていった。
何故、こんな話をしたのだろう?
そんなことすら、
忘れてしまうほどの―――。
おわり
■あとがき■
紅真ってなんで強くならなければいけないのでしょうか?
彼は「強くなりたい」ではなく、
「強くならなければいけないのに」と言っているんですよね。
その理由が結局わからないままに
物語の方は終わってしまったので、
正しい答えっていうのは分からずじまいなんですが…。
いろいろ考えてみますが、これだ!っていう答えが出ないんですよね。
今回の話も、そういう事を考えて、一つの答えとして書いてみました。
まぁ…その中に紅真×紫苑がほんのり入ってしまうのは…。
そこはそれ。ゆうひが書くのですから仕方なし(笑)
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