唯一人













この心を奪える者

たった一人

たとえ一瞬だろうとも

他の何者にも

この心は奪えない



















その日、訪れた銀色の小鳥。
それが伝えたのはたった一言。

「常世の森に行く」

ただそれだけだった。

紅真は遠い昔のことを思い出していた。
懐かしい過去。
実を言えば、まだ大して長生きしたわけでもない自分に、遠い過去などあるわけもないが。
今のこの状況からそれを思い出すと、とても遠い昔の出来事に感じるのだ。
それは、あの時から始まった。











そこは広大な草地の一角だった。
辺り一面を生め尽くす青々と繁った草が、吹き過ぎる風にその切っ先をなびかせる。
風と草の音以外は何もしない。
心地良い静寂(しじま)の中に、その二人は佇んでいた。

「お前が…≪月≫なのか?」

向かい合うように正面に立つ少年に、紅真は慎重に尋ねた。
年のころは紅真自身と同じ――五つか六つ――だろう。
美しい銀色の髪と、意思の強そうな藤色の瞳の少年だった。

「月読の通りだ」

紅真の問いには直接答えず、銀の髪の少年はただそう言って微笑んだ。
とても綺麗な、柔らかな微笑だった。
紅真は瞬時に見惚れる。
言葉も出なかった。

「お前は≪紅星≫なのだろう?」

銀の髪の少年が尋ねてきた。
その声に漸く我に返った紅真は、慌てて首を縦に振る。
紅真の示した肯定の返事に、銀の髪の少年は嬉しそうに笑った。
美しい、可愛らしい笑顔だった。

「俺の名前は紫苑。お前は?」

銀の髪の少年は紫苑と名乗った。
紅真は自分の名を名乗る。
紅真が名を名乗ると、少年は再び嬉しそうに笑った。

「昨日、月読をしたんだ。赤い星に逢えると出た」
「俺もだ。七つ星の先見で、月に逢えると出た」

月読と七つ星の先見。
それは、それぞれの少年の家に代々伝わる、未来見の術の名だった。
未来見とは、その名の通り。未来に起きるべき事柄を知る為の、占いのような物だった。

「紅真」

銀の髪の少年――紫苑が、初めて自分の名を呼んだ事に、紅真は思わず顔を赤らめた。
不意に名を呼ばれた事と、その名を呼んだ相手が目の前で美しく微笑む紫苑であったことへ対する照れからだった。
何故紫苑に対して自分がこんなに照れなければならないのか。
今の紅真には分かりようもなかったが、しかし、当の紫苑はそんな紅真の様子など気にも掛けていないらしい。
相変わらずの柔らかな微笑で言葉の続きを紡いだ。

「俺の見た先見と、お前の見た先見は、同じモノだと思うか?」

そこで紅真は、はっとした。
紫苑の声音には、どこか憂いを帯びた物が含まれている。
よくよく見れば、それは美しい微笑の中にも見え隠れしている。
紅真は視線を下に落として答えた。

「多分…同じモノだと思う。高天の都が…」
「…開封される?」

紅真はコクリと頷いた。
どちらの表情にも、もはや笑みは欠片もない。
苦痛と憂いに満ちた、なんとも云えない物であった。
こんな表情を、どうしてこれほども幼い子供が形作っているのだろうか。
一体どれ程の事があれば、こんなにも深い表情をさせる事が出来ると云うのか。

「国が滅びて、高天の都が開封されて…その先は?」
「…誰かに言ったのか?」
「いいや」

紫苑は首を横に振って答えた。
きちんと確認したわけでもなかったが、二人は出会ったときに確信していた。
絶対と言う力強い確信ではない。
ただ漠然と感じる、とても心許ない確信だ。
だが、二人は共に、自分の魂とでも云うべき、何か深いそれの訴えてくる漠然としたその思いを信じていた。

「国の滅びと高天の都の開封までは、他に巫女や神官達も見てる。だけど、その先のことは誰も知らない。誰かに云うことじゃないしその必要もないから、誰にも言わないけど」
「俺の方も同じだ。本当は、どうなろうとあまり興味はないんだけどな。ただ…」
「ただ?」

言葉を濁すように言葉を切った紅真に、紫苑は疑問の声を投げ掛けた。
小首を傾げたまま、真っ直ぐに紅真を見つめている紫苑の様子を窺がいながら、紅真はどう言おうか言葉を選んでいるようだった。
暫らく逡巡してから、ゆっくりと口を開く。

「別に、どうだっていいんだ。誰が、あそこに封じられている「あれ」を手にしようとも」
「ああ」
「ただ、おそらくはそれに導くであろう高天の民の末裔…。そいつには、もう任せては置けないと思った」
「何故?」
「高天の民の末裔って云っても、所詮はただの人間だ。高天の都への知識を持った、普通の人間に過ぎない」
「俺達もそうだろう?」

そう言った紫苑の声音は、どこか含みを持った物だった。
紅真が言わんとしている事を、聞かずとも分かっていると云った感を持つ。
紅真もそれには気付いているだろう。だが、彼は言葉を切りはしなかった。
何となく。
それは本当にただそれだけなのだが、紫苑が自分――紅真の気持ちを、きちんとした形のあるものとして聞きたがっているような気がしたのだ。

「高天の民の末裔には力がなさ過ぎる。あれじゃぁ、ただ崩壊へ向かうだけだ」
「確かにな。そもそも、高天の民の末裔達は、単なる伝承者に過ぎない。にもかかわらず、そこへ赴こうとする者を審査している。そんな権利も資格はないはずなのに…」
「高天の都に関する伝承は、それを求める者全てに与えなければならないし、末裔達にはその義務がある」

高天の民の末裔。
高天の都を訪れようとする者全てに、そこに関する情報を与える義務だけを負(お)った者達。
紫苑と紅真は寂しそうに呟いた。

「高天の都に訪れなければならない人間なんていないし、訪れてはいけない人間もいないのに……」
「高天の都も、そこにある神威力も、その先にある「あれ」も……誰が手に取ったって構わないんだ。本来はな」

紅真のその言葉に、紫苑は黙って頷いた。
暫らくは会話が止まり、ただ風だけが吹き抜けていく。

どれほどの時が経ってからだろうか。
先に口を開いたのは、紫苑だった。

「なくなればいいのに……」

ポツリ。
思わず零れた。
そんな言葉だった。

「何が?」
「全部。大きな力、全部」

紫苑の瞳には、強く、そして思いつめたようなやるせない光が浮かんでいた。
真っ直ぐに紅真を見つめる瞳。
紅真もその瞳を見つめ返す。

「戦ばかりだ。憎しみと狂気と…欲望と。殺しあってばかりだ」

紫苑は搾り出すように言った。
紅真は黙ってその言葉を聞いていた。

「あんな物がなければ、これから起こる戦のほとんどが起こらずにすむかもしれないのに。その戦で死ぬ多くの人が、助かるかもしれないのに…」

人だけじゃない。
焼かれる森も。そこに暮らす生き物も。
煙に曇る空も。血に覆われる大地も。その匂いに穢れる空気も。

「世界を手に入れることの出来るほどの力も、どんな望みを叶えてくれる力も。そんな大きな力なんて、みんな無くなってしまえばいいんだ」
「無くなっても、きっと戦は起こると思うぜ。高天の都が開封されたその先の未来でも、戦はいくらだって起きる。それが俺達の見た運命だ。しかも必ず当たる…」

子供の高い声に似合わぬ、重い言葉だった。
辺りの空気までもが、重く淀んだような気がする。

「俺達の…もういないずっと先の未来でも、この国以外の場所でも。戦は永遠に続く」

人が、人である限り。
全ての欲だとか、願いだとか。
そんな、人が人としてあるべき感情を持ち続ける限り。

「人が殺されて。殺した人間が恨みを買って。また戦が起こるんだ」

欲や願いや希望は、生きるために必要な心の支えになる。
それは光り輝く美しい夢でありながら、それとは正反対の闇でもある。
手に入れるために手段をいとわなくなった時、光は闇に変わる。
愛が憎しみに変わり、欲は狂気を生み、そうして世界が炎に包まれる。

「それでも…高天の都と神威力と。そして…あの強大な力が無くなれば……」

何か変わるかもしれない。
人の願いを叶えてなお余りある強大な力。

「努力なんてしなくても、それさえあれば簡単に夢が叶うんだろ?」
「それを得る事が目的になるほどに…」

目的が摩り替わる。
強大な力を前に、崇高な意思が歪む。
欲に目が眩まぬ保障が、一体どこにあるというのか。

また沈黙。
今度の静寂を破ったのは、紅真だった。

「なら、壊そう」
「え?……」

紅真の言葉の意味がわからずに、紫苑は思わず紅真を凝視する。
ほうけたような声が出た。
紅真は微かに笑って言った。
何かを振りきったような、晴れ晴れとした感のある――。
それでいて、優しさに溢れた微笑だった。

「高天の都も含めて、そこにあるもの全部。壊そう」
「…いいのか?それで……」

紫苑は聞いた。
そこに在るものはこの島の全てが護ってきたものだ。
神の意志。威光。否、もしかするとそれは神その物なのかもしれない。
神の意志と権力。そしてそれを持つ其の者自身を消し去る。
紅真が言ってるのは、そう言うことになるのだ。

「紫苑はそうしたいんだろ?」
「……」

変わらぬ笑顔で答えた紅真を、紫苑はただ黙って見つめていた。
驚きの表情が、徐々に崩され。そして瞳が閉じられていく。
俯かれた顔。御く僅かに、だが確かに震えている肩。
そんな紫苑の様子が気になり、紅真は躊躇いがちに声をかける。

「紫苑?」
「……と」
「ヘ?」
「ありがとう……」

顔を上げた紫苑の表情は、初めに逢った時と同じ。いや、それ以上の笑顔だった。
張り詰めていた物が切れ、溜めていた物が一気に溢れ出たような。
何かから救われたような。
そんな、晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。

「……」

紅真は目を見開いた。
雨上がりの晴天のような、綺麗な笑顔だった。















全てを消し去る。

人を狂わす力の全てを。

その尊さなど…何の関係もない。
















その日から、二人の長い計画が始まった。
誰にも何も話さずに。
二人だけで計画を進めていった。
これから起こるはずである全ての事を知っているから。

その時から、全てを偽ると決めた。
自分の愛する全てと。
自分を愛してくれる全てと。
流れる刻の運命さえも。

偽らないのは、ただ一人。

その為に自分を鍛え上げた。
力の使い方を身に着け、感情のコントロールを覚え。
嘘の自分をも創り上げた。

「紫苑…。心具を使わないって…どう云うことだ?」

紅真が驚きを声に含ませて尋ねてきた。
心具は方術の高等術。
心具とは云っても、それを使いこなせる者とそうでない者との力の差は限りない。

二人の持つ刻印の心具は、その力を発揮することが出来れば、他の心具とは違う、特殊な力を発揮する。
心具は方術を使う方術士にとって最大の武器であり、身を護る為の防具なのである。
それを使わないと云うことは、命を無駄に捨てると言っている事と同じことだ。

「完全に使わないとは云っていない。
でも、初めは方術なんて使えないと思わせておいた方が良いと思う」
「体術も?」
「全部だ。俺達は、何も知らない崩落の皇子だ」
「利用されるだけの馬鹿な…だろ?」

紅真の台詞に、紫苑が笑う。
それはお世辞にも、何も知らない子供の笑顔とは言い難かった。

「心具の創造に目覚めて、それから刻印を完全なものにして…。
一体どれだけの転機を味わえば済むんだか」
「心具の創造は簡単だ。真実が知れれば、自ずと心具は創造される」
「刻印の方は?」
「一度心具を壊されでもすれば、それで済むだろ。それだけの経験をしたんだ。刻印が完全なものになっても、誰も疑わない」
「心具を壊すって…――」

予想だにしなかった紫苑のその台詞に、紅真は絶句した。
心具の崩壊は、精神の崩壊を意味する。
精神が崩壊して再び正気を取り戻せる保障はどこにもない。

「絶対に平気だ。心具が壊されたくらいで全てが消えるような精神はしていない」
「慢心は危険だぜ。紫苑」
「慢心じゃないさ。自分がそこまで完璧な人間だとは思っていない。これは…覚悟だ」

そう言った紫苑の瞳には、力強い光が湛えられていた。
崩れる事のない、一寸の隙もない決意。

「誰が壊すんだよ」

紅真は低い声で言った。
険しい彼のその表情からも、強く崩れようのない意思が見て取れる。

「俺は…お前以外に心奪われる気はないさ」

紅真の言及に、紫苑はサラリと答える。
紫苑の言葉に、紅真は一瞬だけ虚を付かれたような表情をしてから、今度は顔を朱く染め上げた。
そんな紅真の反応に、紫苑は微かに笑みを作る。

「なっ…」
「お前は?」
「……俺もだよ」

笑いながら訊ねる紫苑に、紅真は朱い顔を更に朱くさせて答えた。
些か拗ねたようなその答え方に、紫苑は更なる笑い声を上げる。
純粋な笑み。
そんな彼等の様子は、歳相応な少年の姿の何者でもない様に見えた。















銀の小鳥が伝えた一言。

「常世の森へ行く」

たったその一言で、全てが伝わる。















心具が壊された精神世界で、紫苑は父親である蒼志と相対していた。
強く厳しく、そして優しい励ましと叱咤を受けながら、紫苑は少なからず罪悪感を感じていた。
そんな励ましも叱咤も、本当は必要ないのだ。

自分を待つ相手。
自分の大切な相手。
護ると誓ったその人。
自分を呼ぶその人にも、偽りしか見せていない。

(この精神世界でさえ嘘なんだ)

蒼志に強い微笑みを向けながら、紫苑は胸中で呟いた。
心具が壊され、自分が精神の崩壊を起こす事すらも計画の内。
自分を信じ、慈しみ、そして愛してくれている者すらも欺いていると知ったら、目の前にいるこの父親は何を思い、どんな言葉を投げ掛けるであろうか。

本当の自分は、壊れるどころか傷ついてさえいないと知ったら?
父親である貴方のその行為も、自分にとっては道化にしか写っていないと知ったら?
自分にとって真に愛しく失えぬ存在が、今この心具を破壊した人物だと知ったら?
全てを慈しんでいるどころか、たった一人にしか心を開いていないと知ったら?

(息子の全てが偽りだと知ったら、貴方は何を思う?)

現実世界に戻る瞬間、蒼志は確かに微笑んでいた。
強い息子を誇り高く思っている。
その笑顔は、蒼志のそんな感情を雄弁に語っていた。

紫苑の胸に、ほんの少しの痛みが走り――。
しかし、その痛みは直ぐに消え去った。

(俺を知っていいのは、ただ一人だけだ――)

それは本心に間違いなかった。
誰よりも大切な存在は、過去も、今も。そしておそらくは未来も。
きっと唯一人しかいない。


真実の心を知り、その全てを奪える者。


この世で唯一人。
貴方だけ。

紫苑は現実世界へと再び目覚める。










心具を肩に担ぎ立ち上がったのは、白銀の髪の少年だった。
強い、何の迷いもない真っ直ぐな瞳。
藤色に輝くその瞳をとらえ、紅真は嬉しそうに微笑った。
誰にも気づかれぬ、至極小さなものだった。

紫苑も微笑った。
柔らかな、天女のような笑み。
しかし、やはりこちらの笑みも、誰にも気が付かれない。


唯一人。
最愛の貴方を除いて。


愛しさに満ちたその笑みは、その心を向ける相手にだけ伝われば良い。
否。
それ意外になど伝わって欲しくない。











壊される精神

私の心を奪う者

それは唯一人

最愛の貴方

私の真の心を知る

たった一人の貴方だけ















■あとがき■




「夏夜の気配」の設定でまたもや書いてしまいました。
この設定自分でも気に入っているので、これから先もまた書くかもしれないです。

「夏夜の気配」で謎だった二人の目的が、ほんの少し明かされました。
紫苑の心具が壊された所は、もっと原作を織り交ぜて書きたかったのですが、それをやるとただ単にくどくなりそうだったので止めました。
いつも思いますが…私の書く紅真さんは、紫苑さんの尻に敷かれまくってますね(苦笑)。

タイトルは唯一人(←「ただひとり」と書いて「ゆいいつにん」と読む/嘘。なんて読もうと構いません)。
作中に以前書いた作品の中のフレーズと似たようなフレーズがよく使用されますが、私の邪馬台幻想記の基本妄想がそれなんだと思って、突っ込まないでいて下さると嬉しいです(爆)。

それにしても。
毎度の事ですが、なんか書こうと思っていたことと違う事書いてしまって、書きたいことが極力少なくなるという…。










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