+  泡沫の夢 +




それは泡沫(うたかた)の夢
それでも存在していた
どんなに儚くとも
それは確かに存在した







 桜が咲けば宴が開かれた。咲き誇る桜の花弁(はなびら)が風に散る様を見て、何をああも騒いでいたのかと不思議な気持ちになりながら、紫苑は母の隣で蜜水を口に含だ。
 視線を目前に向ければそこにはほろ酔い加減に顔を朱く染めた父と重臣たち。馬鹿笑いする彼らから離れたところでは、女たちもまた円座を作って談笑していた。

 何がそんなにおもしろいのか。

 わかっていたのはもう遠く昔のこと。つい一、二年前をそう云ってしまう自分に、紫苑は僅かに苦笑した。決して面に出すような真似はしないが、傍らの母にはばれているかもしれない。何を考えているかではなく、自分が楽しんでいないことを。
 それでもこの聡明な母は何も云いはしないだろう。決して、楽しめだなとは云わないのだ。云うのは、そう。目の前の酔っ払った親父。
「おう、紫苑。お前も騒げ!!」
 ほら、来た。
 紫苑の首に太く逞しい腕を乗せて、鼓膜が破れんばかりの大声を上げる男。まだ幾分素面の面々は王子の危機に慌てて国王を止めに入り、もうすっかり出来上がっている男どもはけしかけ、女たちは額に手を当てて呆れ返ったり笑ったり。
「父上…一人で楽しそうですね」
「なにお〜、今日はみぃんな楽しいぞ」
「そうですね」
「わははは」
 酔っ払いの相手は同じ酔っ払いしか楽しくない。酔っ払いだって楽しくない場合もあるのだ。酒の飲まない紫苑に楽しいはずがない。
 誰か止めてくれ…。
 紫苑は頭を抱えたくなった。ふといつもそれを抑えてくれる母に目を向ければ、彼女は目を細めて楽しそうに微笑んでいる。楽しそうに、あるいは嬉しそうに。
 紫苑はきょとんと目を見開く。
 どうして笑っているのかを考えて、ようやく思い当たった。今、自分が楽しんでいることに。





「酔っ払いに絡まれてたのにか?」
「ああ」
「ふ〜ん…」
「妬いてるのか?」
 紫苑がからかうように訊ねれば、紅真はただ一言「別に」と返した。その声音はどうみても拗ねている。
 紫苑はくすくすと笑いを抑えることなく話し続けた。
「けっきょく、父上にかまってもらって嬉しかったんだろうな…。変に大人ぶってないで、もっと甘えていれば良かったなんて、いまさら考えても遅いのに…―――どんなに覚悟をしていても、本当のところは何も分かってなんかないんだ。いつだって貴いものは、真実は、失ってから初めて気づく」
 そこで紫苑が言葉を切り、一瞬の沈黙。
 突然、紅真が紫苑を正面から抱きしめた。
「紅真?」
「甘えろよ」
「オレばっかり…そういうわけには、いかないだろ……」
 紫苑は目を伏せて云い、しかしそれは紅真に見えぬこと。
「いいんだよ。オレも紫苑に甘えるんだから」
 紅真が紫苑の背中に回した腕に力を込める。ぎゅっと服が握りこまれたのが分かった。
 紫苑は紅真の肩口にその顔を埋める。
 人の体温が暖かいということを教えてくれるのは、いつだって彼なのだと、改めて感じた。
「国の滅びも、みんな死も知ってて…覚悟してたはずなのに……っ」
 その本当の意味は、何も分かっていなかったのかもしれない。宴を楽しいと感じないのは、楽しかった時間を思い出して悲しくなるを恐れていたからかもしれない。楽しいことへ積極的になれないのは、それが失われたときに少しでもショックを受けないように構えていただけなのかもしれない。
 本当のことは、何もわかっていなかった。
「もっと、もっと、いろいろな話をしておけば、良かったっ」
 手をつないで。
 その腕に飛び込んで。
 笑ったり泣いたり怒ったり。
「もっと、がんばってみればよかった…っ」
 絶対の未来だと諦めずに、受け入れずに、抗えばよかった。
 どれほど無様だと、潔くないと罵られ、蔑まれようとも、抗ってみることだけはするべきだった。
「紅真…」
 紫苑は泣いた。
 泣きながら、紅真に縋り付いて。
 紅真は紫苑を痛めつけるほどに抱きしめて。
 その肩口が冷たくのなっていくのを感じながら、しかし不快には思わなかった。紅真は涙を流さなかった。何も云わず、ただ紫苑の声に耳を傾けて、歯を食いしばっていた。
「いつも不安になるんだ。これからやろうとしてることに、これから起こることに、いつも不安と恐怖ばかりが湧き上がってくるんだ」
 それが消え去る時間なんて片時もなくて、だから常に身構えている。楽しいことも幸せも、いつそれが裏返っても対処できるように。冷静になろうとして、ただ心を閉ざして。
 本当は、その行為こそが、悲しみと後悔に自分を染めると、もうずっと気づいているのに。
 楽しい記憶は、哀しみの後であっても、何よりも自分の心を幸せにすると知っているのに。
「だから、甘えてろよ…」
 紅真は云った。
 永遠に共に歩むことを誓った自分には、せめて。
「……オレも、甘えるから」
 永遠に一緒にいよう。そうすれば、悲しみを恐れる必要はないのだから。悲しみに身構える必要など、何もないのだから。
「うん…」
 紫苑は頷き、その瞳を閉じた。







涙が溢れるほどに幸せな
それは二度と来ぬ悠久の日々
たとえ泡沫の夢だとて
それは確かに存在していた





----+ こめんと +----------------------------------------------------

 夏世シリーズ第五弾。性格には第六弾(おまけも入れれば第七弾)。
 ssで久しぶりに書いたら書きたくなりました。気まぐれですみません。ていうか何これ、話?(←自分で書いておきながらこの台詞)。
 ご意見ご感想お待ちしております_2004/03/13

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