真冬に咲く華
-磔にされて焼かれる者-
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「紅真、本当にいいのか…」 「ああ、もちろんだ。気に入ったか?」 瞳を輝かせて振り返る紫苑に、紅真が優しく微笑む。紅真の言葉に紫苑は華が開かんばかりの笑顔で紅真に抱きつく。 駆ける紫苑の。踏みしめられた花弁(はなびら)が塵のように風に舞い上げられていた。 「ああ、とても素敵だ! ありがとう、紅真。本当にお前は最高だ。どろどろになるまで犯してその心の臓に剣(つるぎ)を突き立ててしまいたいほどに愛してる…。でも、こんなに素敵なものを貰ってしまって、お前はいいのか」 紫苑の白く美しい指が紅真の頬を撫でる。興奮に頬を高潮させながらも尚小首を傾げる紫苑に、紅真ま頷き微笑んで云った。 「俺にはお前がいるから必要ない」 「紅真…」 「俺もお前を愛してる。美しく切り刻んで溶かし込んで食べてしまいたいくらいに」 紫苑の瞳が潤みを帯びさせながら眇められる。 「ああ、そんなに嬉しいことを云われると、今すぐにその瞳をくりぬいて、俺以外の何も見えなくしてしまいたくなる」 「それは嬉しいな。紫苑、お前の耳を引きちぎって他の言葉が一切届かなくしてしまいたくなる」 紫苑の指先が紅真の目尻に触れ、紅真の指が紫苑の耳に触れる。白い肌でより高貴に輝く黄金色のカフスが、紅真の指腹に冷たい感触を齎す。 紫苑の唇の弾力。いつもよりも幾分か高い体温。寸分洩らすことなくすべてを味わうように紫苑の抱きしめながら、紅真は紫苑の様子をどこか冷淡に見つめていた。 やわらかな抱擁にうっとりと身を委ねる紫苑は美しく、紅真はそれを何よりも愛しく感じる。手にしたかったのはまさにこれだ。これだけだ。 自分にその身を委ねてくれるほどの歓喜は格別のものだ。しかし。 そうだ。紅真はしかし、と思う。 これは紫苑の最も美しい姿ではない。 どうであろうとも彼が美しいことに変わりはない。 それは間違いない。 紅真の中で、紫苑はいつだって美しいし、何よりも尊い。輝かんばかりの鋭さはしかし、切なく儚い脆さを常に潜ませて彼を覆っている。その仄かな淡い光に包まれて立つ紫苑の姿を、紅真は紫苑のもっとも美しい姿ではないかと思っている。 彼は敵がいてこそ美しい。 絶望と孤独に佇んでこそ美しい。 鮮血に塗れて尚冷めた瞳。 凄惨な美をこそ、彼をもっとも華やかに引き立てる。 けれど紅真はそれを壊してしまった。ただ美しいと、それだけを愛でて満足していればよかったのに。 愛して、幸せにしてあげたいと思った。 喜びと至福。暖かな波の中でたゆたうようなまどろみを与えたいと願った。 二人は楽園の中で抱き合っている。そこに在るのは二人だけだ。 他には何もない。 何もない。 あとはただ、常春があるばかりだ。 だって、ここでは永遠に、華が咲き続けるのだから――…。 それは本当に温かかった。生きている人間のぬくもりだ。 けれど紅真は思った。 生きている人間のぬくもり。けれど自分が『温かい』と感じることができるぬくもりは、紫苑と身を寄せ合っているそのときだけだろう、と。 だからこそ思ったのかもしれない。 ずっと、考えていたことだったのかもしれない。 紫苑のぬくもりは温かい。 生きている人間のぬくもりだ。 何よりも美しく、何よりも愛しいと感じられる唯一の存在。 あらゆる幸福を与えてあげたいと思った。 幸せに包まれて、優しげな微笑(えがお)だけでその心を彩らせてあげたいと願った。 そして『罪』を犯した。 嘘をつきました。 誰よりも私を信じ、私だけを信じてくれた人さえ騙しました。 愛する人の『願い』さえ裏切って。 私の夢を彼に押し付けました。 高天の都へ一番に辿り着いて。 そして今。紫苑は微笑っている。 紅真の目の前で、嬉しそうに。 戦もなく。悲しみも忘れて。美しい、花の咲き乱れる世界に身を置いて。愛する人と二人。その幸福に酔いしれて。 陶酔したかのような瞳で。 けれどと思う。 紅真は紫苑のぬくもりを感じながら、自らの内側が冷めているのを感じてた。 紫苑は美しい。 それは何も変わらない。 けれど、彼が最も美しく輝くのは。絶望を抱え、地獄のような戦場で一人。血の雨に濡れても尚、瞳を鋭く前方だけを向いているときだった。 紅真は恐怖した。戦慄に身を竦ませた。 紫苑が女王を殺し、シュラを屠り、紫苑を信じていたあらゆるものへ本性を見せて笑ったその姿の美しさ。 初めて出会ったときから、すでに覚悟を固めていた。すべてを捨て去って歩いていく覚悟を。 その気高さに見惚れ、吸い寄せられた瞬間を。 思い出した瞬間に、紅真は大地から脳天に目掛けて何かが突き抜けて行くような感覚を受けたのだ。 それは明らかに恐怖だった。 たとえば、いつか『今』の紫苑を美しいと感じられなくなってしまったら……。 もっとも美しいときを知っているが故に、それを求めすぎて『今』の彼を醜いと感じてしまったら。 それはとても恐ろしいことだ。 紫苑が紅真から消える。それは何より恐ろしいことだ。 だって、それは紅真が消えるということだから。 紫苑がいなくて、紅真が存在する意味はなく。紫苑を愛していない紅真など、彼自身にとってそれはもう自分ではなくて。 それはまさしく存在理由(アイデンティティ)の喪失だ。 それならば。 それならば。 それならば。 紅真は恐怖に震える心に突き動かされたようだった。 紫苑の背中に回した腕。右手はちょうど、彼の心の臓の真後ろにある。 握り締めてしまえばいい。 肉を破り、骨を砕いて、内臓を潰すことなど、何より容易いのだから――。 右の掌がじわりと温かい粘液に包まれていた。いつのまにか。 紅真は呆然としたまま、視線を下方へ向ける。 瞳を眇めて紫苑が微笑んでいた。その瞳は紅真だけを写しており、その微笑は明らかに紅真に向けられたもので、紫苑が紅真の何もかもを承知していることを無言のうちに語っていた。 「し、おん…」 紅真の呟きに、紫苑は乱れる息の下から――それでもすべてを理解し受け入れた微笑は崩さずに――応えた。 紫苑の腕は、相変わらず紅真の背中に回されていて。 もう一人で立ち続けることができないのだろう。支えを得るためにしっかりと、紅真の外套を握り締めていた。 「紅真…。もう、いいんだ。何も、云わなくて」 「紫苑!!」 紅真は漸く現状を把握することができたかのようだった。 紫苑の胸部に赤いシミが広がっていく。彼の背中に回した紅真の手は、未だ温かい血に塗れて濡れていた。 とうとう崩れ落ちた紫苑の体を慌てて受け止める。 「紫苑! 紫苑!!」 紅真が叫び、紫苑の震える腕がその頬へと伸ばされた。紅真の頬に届いたその指先はまだ血には濡れていない。 白く、細く、しなやかに。 相変わらず美しかった。 「わかって、たんだ…。お前に会ったときから、俺はもう、壊れてたんだって…」 紫苑はゆっくりと言葉を紡ぐ。 常世の森で心具を砕かれたときのことだ。心を粉々に砕かれて廃人となったそのときに、自らの心と向かい合った。 「そのとき、気づい、たんだ…。いや、気づかされた、のか…。俺はもう、ずっと前に、狂ってたんだって…」 幼い日。 幼い自分は、その当時にあった自分の大切なものすべてを失うと知ったそのときに、すでに立ち直れぬ『絶望』に身を堕としたのだ。深く暗い、どこまでも続く闇へと。 そして大切な何かを自分から捨てる決意をした。 紅真に会ったとき、幼い彼にはすでに『狂気』しか残されていなかった。 「紅真だけが俺の『愛』だから。…だから、わかってた」 紫苑は微笑んで、やがてその瞳は閉じられた。 完全に。永遠に。 この世の音のすべてを閉じ込めたかのように、静かに。静かに。 永久(とこしえ)に。 そうして紅真も涙を流し。 やがて楽園に冬が来た。 凍える寒さにさえ枯れることを許さなかった『華』が、かつてこの楽園の下に一輪(いちりん)在(あ)ったことを、今はもう、誰も知らない。 その華を愛して消えていった『星』のことも、『華』が踏み潰していった命の儚ささえも、遠い記憶に埋もれ。 やがて地上には新しい時代が築かれるばかり。『華』が真に憂え、愁えた『狂気』は再び生まれ。消えても尚、不死鳥のように、新たに湧き上がる焔より蘇り。永久(とわ)に繰り返す。ただ、それだけのこと。 また一つ、国が潰れて『幼児(おさなご)』が泣き。 藤(あお)い瞳のカラスが泣いた。ただの一声、ただ鳴いた。 |
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こめんと |
サイト開設5周年企画の配布小説です。これは『夏世シリーズ』と同設定の別物と考えていただけると嬉しいと思います。私の中で夏夜シリーズはもう『終わり』を書くくらいしか書くことが残っていないのですが、まだ『終わり』を書く気にはなれないのです。そこで今回、私の中にある『別の夏夜の終わり』を書くことにしました。つまり設定というよりは『コンセプト』が夏夜シリーズと同じだといった方が正しいかもしれません。コンセプト=紫苑と紅真の破滅的なまでの盲目的で独善的で甘々ラブラブです。紫苑と紅真はお互いのことしか考えられないくらいにお互いを愛していますが、『自分なりの愛』でしか相手を愛してあげることができないのです。 そんな感じでどこに並べるか迷いましたが夏夜シリーズにこそっと並べてみることにしました。 ご意見ご感想お待ちしております_(c)ゆうひ_2006/04/15 |
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