もう一人にはしない。
決して一人にはさせない。
そう誓った相手がいるから。
豊かな土と碧い空。緑と風と水。まぶしい太陽が燦燦と降り注ぐその下で、人々が畑を耕していた。泥と汗にまみれたその表情は明るい。
畑と畑の間を走る畦道の左右は、やわらかな黄緑色の草で覆われている。伸びすぎず、短すぎず、見ていて美しいと感じるその姿。ゆったりと散策を楽しめば、草の香りに心が和む。
畑を楽しんで歩けば、点々と佇む小さな家々。まだ畑仕事をするには幼すぎる子供たちの笑い声に扉の振るえているところもある。見渡せば見えるその家々のすべてに共通しているものを、なんとはない違和感を持って見つけられるだろう。
それは扉の前に小さく掲げられている「紋章」だ。直径は五センチあるかないかの円状の板に、クロスを描く二振りの剣と、零れ落ちる幾つかの雫。縁を飾るのは何かの植物だろうか。これは何かと人々に訊ねれば、彼らは笑顔で答えてくれる。
「これは王と君の象徴だよ」と。
この国の王は国民に自分たちを讃えるための象徴を掲げさせているのかと訊ねれば、彼らはみな、同じように首を横に振る。
「王様がやめてくれと頼んでも、これは外せないよ」と。
国民のすべてが自主的に掲げているらしい。
この国の王は慕われているんですねと訪ねれば、今度はみなが同じように首を縦に振る。そして心底嬉しそうに云うのだ。
「もちろんだよ」と。
王様には会えないだろうかと訪ねてみれば、これは思った通りの返答だった。
「お忙しい方々だから、すぐには合えるものじゃないよ」
そして次に返ってきたのは思いがけない答え。
「でも、順番さえ守れば、必ず会ってくださるよ」
会いたいときは申し込んで順番待ちをすれば、誰とでも謁見してくれるらしい。どれくらい待つのが普通なのかと訊ねれば、みんなみんないつだって会いたがるから、最低でも二、三ヶ月は待つことになるそうだ。
別に急ぐ旅ではない。私の心はすぐに決まった。
安い宿と王に会うための手続きの仕方を教えてもらい、そこを後にする。久しぶりに訪れた、居心地のいい農地だった。離れ難く思う。
農村の雰囲気は街に出ても変わらなかった。否、街と農村という違いはもちろんある。どこまでものんびりとしているのが後者であるのなら、前者はもっと活気に満ちていた。ただ本質的な部分では変わりがない。どちらも人々の心は穏やかだ。
最近では珍しい。本当に、珍しいことなのだ。
どこの国でも人心は荒れている。王侯貴族と、それに連なる一部の富裕層の腐敗と、それを戒めるかのような異常気象。食物は枯れ、飢えと疫病が流行る。物価はますます値上がりし、貧富の差は開く一方。
どこの国でもそれが当然で、旅人に笑顔で答えを返してくれる国などというものにはほとんど始めてお目にかかったものだ。否、旅などということをしている私の方がおかしいのだろう。暇を持て余した貴族なたともかく、こんなみすぼらしいなりをしている旅人など、私くらいのものではないだろうか。よく今まで奴隷商人に捕まらなかったものだと、改めて思う。
この国に来て、初めてそんなことを振り返る余裕ができたのかと気づき、実は今まで余裕がなかったことに気づかされた。
街での物価は高いのだろうか。確かに、貧困に喘ぐ他国の民衆から見れば十分と高いが、私には安いと感じられた。こんなに良い品質の生野菜が、こんな安価に手に入るなど、それ以前に市民の手に入るなど、奇跡にも近いだろう。
こんな安く売って良いのか。これは本当に商品なのか。私でも買っていいのかと訊ねれば、店の主人はおかしそうに笑って云う。
「うちの食材はこの先の農家から直に仕入れているから特別新鮮だよ。あんたでも買っていいかって?きちんと金額さえ払ってくれれば誰にだって売るさ。それこそ犬猫にもね。ああ、そういえば知っているかい。三丁目の奥さんのところの犬はとても賢くて、主人の代わりに買い物をするんだよ。うちの店にも週に一回は必ず来るんだ」
ここにもあの紋章が飾られている。ふと思って訊ねてみた。
「これはどこか専門店で買うのかい?」
「あはは。そんなことをしたら王様の機嫌を損ねちまうよ。拗ねて奥方様に叱られちまうんだ。だからみんなこっそり、自分で彫って飾ってるのさ。欲しかったらあげるよ。彫ろうと思えばいくらでも彫れるからね」
王様が拗ねる?
そんなふうに王を侮辱するようなことをこんな往来で口にして大丈夫なのだろうか。すぐに憲兵が来たりはしないだろうか。実は私は試されているのか?
疑心暗鬼に駆られてそっと訊ねてみれば、目をまん丸に見開いた不思議そうな表情で返された。
「悪いこともしてないのに憲兵が捕まえに来るわけないじゃないか」
つまり、王の悪口は悪いことではないらしい。確かに、普通はそうかもしれない。そう思ってそれをそのまま云えば、これには否定の返事。
「王様の悪口?この国の王様を悪くいう奴なんて誰もいないよ。そんなこという奴がいたら、憲兵なんかに連れて行かれる前に、私たちがみんなで懲らしめてやるよ」
つまり、先ほどのあれは悪口にはならないらしい。親しみを込めて、王の人柄を語ったということになるのだろうか。それが許されるのだろうか。
そこでは赤く熟れた木の実を買った。そこで赤がこの国では特に好まれている神聖な色なのだと知った。だが最も高価なのは銀だそうだ。金ではなく。特に薄い青が入った銀だと、それを身に着けることができるのは特に身分が高いものに限られるのだそうだ。そういう慣習だとか、身に着けて罰せられることは別にないのだが、なんとなくみんな畏れ多くて遠慮してしまうとのことだった。
謁見の手続きに城へと訪れた。初めに王と女王のどちらに会いたいのかと訪ねられる。
王と女王?王と王妃ではなく?王が二人?
疑問に思って訪ねれば、もう何度目になるだろうか。あの人付きのする嬉しそうな笑顔で返された。
「本当はそう呼ぶのが普通なんだろうけどね。まぁ「王」っていうのが敬称みたいなものだから。どちらも同じくらい貴い方っていう意味さ。区別するために女王って呼んでるだけだよ。男王っていう言葉はないからな」
王が敬称?身分ではなくて?
「ああ、王なんて身分はないな。この国を守り治めていらっしゃる方のお名前をお呼びするのが畏れ多いから、みんな王とか君とか女王とか敬意を込めて勝手に呼ぶだけだよ。普通はそうだろう?」
違うと思う。
なんとなく、そう応えるのは憚れたので、曖昧に頷くだけで返した。話を逸らせる意味も込めて、別の疑問を口にした。王と女王に一辺に会うことはできないのかと。受付係は困ったように考えてから返した。
「う〜ん。昔はご一緒に謁見が叶ったんだが、あまりにも人数が多くてね。少しでも数を分散させるために、今ではお一人ごとになったんだよ。同時に両方への申し込みはできないから、どちらか一方に謁見した後で、改めて申し込みをし直すしかないね。待つ期間はどっちもどっちだから」
両方に会うには最低でも半年…。急ぐ旅ではないが、それはゆっくりしすぎだろう。とりあえず、王に謁見するということで申し込みをお願いした。
順番が回ってくるまでの暇潰しに、国中を歩き回ることにした。気づきたくても気づかざるを得ないほどに、どこへ行っても王と女王は尊(たっと)い方と呼ばれていた。
この国の外にある国々を消し去ってしまったかのように豊かで穏やかなこの国の現状を見れば、それももっともなことに思えるが、この国が初めからその状態であるのならば、これほどにはならないだろう。それともその畏敬の念こそがこの国の特質なのだろうか。
その機会がようやく訪れた。すなわち、王との謁見の時だ。
私は驚いた。あれほどの信頼と敬愛を受けるその王は、以外にもまだ歳若く、少年の域を脱したばかりの青年といった様子だった。
黒髪に赤い瞳。なにもかもを見抜かれそうな、射るような瞳だと感じた。
「始めて見る顔だな」
王のその台詞にまたも驚かされる。
「謁見の叶った者の顔を、一人一人覚えていらっしゃるんですか?」
普通、王侯貴族は民衆の顔など覚えない。名前も覚えなければ、その生活の実態さえ知ろうともしない。
「まぁな…それくらいの記憶力くらいはあるさ。―――見たところ旅人か。どうだ、この国は」
「…すばらしいと思います」
思いがけず訊ねられ、私は少し考えるように間を取ってから答え始めた。
「食料も豊富だし、気候も安定しています。それを証明するように、人々の表情も明るい。何より民衆が王に抱く敬愛の念の程度は、私がこれまで歩んできた国のどこよりも勝ります。この時代にあってこのような国が存在するとは思いませんでした。まるで、楽園に迷い込んだような思いです」
「楽園、か……」
王はその真紅の瞳を眇めて、どこか遠くを見つめるような表情で呟いた。
失礼を承知で訊ねてみようか。そうすれば、この王はどのような対処をするだろう。素直に胸の内を話すのだろうか。怒って立ち去るか、追い出すか、捕らえて処刑するか。
しかし幸いなことに、私がそれを試す機会は永遠に失われた。
王の坐しますその背後に広がっているのは、真珠色に輝くさも高級そうな重厚な布地だった。普通、その奥に隠れているのはただの壁だ。だが違った。そこから、一人の女性が姿を現したのだ。
「よぉ、紫苑じゃねぇか」
「謁見中に邪魔したな、紅真」
「いや、」
女性に気づいたらしい王は首だけで振り返り、驚くこともなく女性に声を掛けた。対する女性の言葉には謝罪が含まれていたが、そこにはまったく悪いと思っている様子などない。
美しい女性だった。王に、似ていると感じた。
見目が似ているのではない。銀髪に紫水晶色の瞳、触れれば消えてしまいそうな白さはむしろ王とは正反対といってもいいだろう。では何が似ているのかといえば、その雰囲気だった。まるで肉食獣のような。
女性でありながらその腰には剣が下げられている。飾り物にしては装飾品が少ない。同じように、身につけている装飾品も質素だった。女王であるにはあまりにも質素すぎる。
そう、女王だ。
王の態度を見ても、王への態度を見ても、それ以外には考えられないだろう。
「何かあったのか」
「ああ、重大事だ」
「?」
私は緊張した。
問題など何も起こらなそうなこの国で、何があってものんびりと構えていそうなこの国で、重大事と呼ばれることとは…いったい何が起こったというのか。
「雲雀のところの娘が来てくれた。今年一番のジャムができたから、と」
やわらかな微笑は、悪戯っ子のそれに近かった。それに返す王の表情はまさにそれだった。
「あそこのジャムは天下一品だからな。そろそろお茶の時間にするか」
それでは謁見はこれで終わりだな。予定されていた時間よりも短い。やはりどこでも王とは自分勝手なものであり、ここでも例外はないのだと、僅かに落胆した。
「今紅茶を用意する。お前、食べられないものとかはあるか?」
「へ?いえ、何もありませんが」
「なら俺たちと同じいいな」
オレ?
私に対してもそうだったが、王も女王もその口調には威厳も何も感じさせない。初めから目の前にいるこの人物に、天にも並ぶ権威があると知っていなければ、それを信じることができないほどに。それでも、この国のことなど何も知らない私ですら、感じるのだ。
王を前にしている。
まるで獅子と向かい合っているようだと思った。貴き方と相対するというのは、ある種の恐怖とそれに伴う緊張を呼ぶ。
何も知らない私ですら、紛れもなく彼らは王なのだ戸確信させられる。
私は呆然として目の前で繰り広げられる様子を見つめていた。つまり、お茶の用意をする女王と、女王を抱き寄せようとして殴られる王と、殴られた頬に手を当てて拗ねる王と、それらを無視して。
「どうした?」
それらを無視して、私に紅茶を差し出す女王を。
カップを受け取らぬ私を不思議そうに眺める女王の後ろには、そんな私の様子などには無関心そうに王が紅茶を飲んでいる姿は視界に映る。
どうすればいいのか、私は身動きができなかった。
「飲むだけでいいんだ」
跪いている私と視線を同じくして、女王は地に膝を着いてゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここは楽園ではない…俺たちには、楽園を願うことなどとうていできはしないから」
―――――すまない。
なぜ彼らが私に謝るのかなど、私には理解のできぬことである。私に云えられるのは、ただ、そのお茶の甘さと温かさ。
躯の内側から満たされるような、切なさ。
「紅真…」
紫苑が呼び、紅真がその体をそっと抱き寄せた。紅真の胸に紫苑が顔を埋めるように寄り添えば、紅真の紫苑の肩を抱く力が強まる。
「俺の願いは、残酷か?」
「誰の願いだって、残酷なもんだろ」
彼らの足元には一羽の鳥の屍骸。空を飛び回り、世界を空から見て回っていた、小さな小さな鳥。
「俺の願いが世界を狂わせると、すぐに悟ることができた。だから、ずっと封印されていたんだ。隠され続けていた。でも、それでも、俺は…」
「俺たちは、ずっと、一緒にいたかった。もう離れたくなかった。俺も、お前も」
「そして、誰にも死を選んで欲しくなかった」
どれほどの絶望の中にあっても、力強く立ち上がり、生き抜く心を植えつけたかった。それを育てて欲しかった。
今、人々は絶望の中から立ち上がり、再生の希望に笑みを取り戻しつつある。かつての栄華はない変わりに、穏やかな緑が広がっていた。
誰かのための奇跡の代償のために汚染されて死にきれぬ罪なき小さな鳥は、絶望の世界を彷徨い続け、楽園に旅立つ。
そこは今度こそ、真なる楽園だ。
苦しみと悲しみが浄化され、再びこの世界に舞い降りる。浄化された魂は、再び悲しみと痛みを蓄積していき、願いが叶うのであれば、それ以上の喜びと幸せを。
紫苑は鳥を両手に取った。すくい上げるように。
それは光の粒子となって、風に吹かれて消えていく。
眩しくはないけれど、美しく輝いていた。瞬くようなその輝きは美しく、何より貴く感じられた。
紫苑はもう何も残ってはいない両の手を握り締め、瞼を閉じた。
きつく、きつく。
何かを誓うように。
きつく―――。
誰が彼らの罪を知るのか。
誰が彼らの罪を赦すのか。
それでも生きていくと誓うのに。
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