smoky



 二人は屋上の扉に背を預け凭れていた。座り込んだコンクリートは冷たい。隣り合って座り、かといって何を話すわけでもなかった。
 互いに笑い合ってギャグでも飛ばしながら会話でもしようもなら、その薄ら寒さに揃って鳥肌を立てたことだろう。会話がない。音がない。けれど隣に互いの気配が感じられる。それでちょうど良かった。

 校内の屋上はもちろん立ち入り禁止だ。屋上への扉には鍵がかけられ、そこへ続く階段の前にはがっちりとバリケードが張られていた。
 子供騙しのそれはあくまでも威嚇であり、注意を促しているだけのものだ。それで本気で侵入を防げるなどとは、誰も思っていない。そもそも侵入を防ぐためのものですらないだろう。そちらの役目を負うのはかけらた重い鍵だ。
 けれどそれで侵入を防ぎきれないはいつの時代も、どこの学校でも、きっと同じことなのだろう。ここではこの二人。今、ここにだらしなくも身を投げ出している紅真と紫苑。二人の少年がそうだった。

 紫苑は紅真の咥える煙草から伸びる紫煙をぼんやりと眺めていた。晴れているはずなのにどこか灰色がかって見える空に吸い込まれていくそれは、まっすぐと伸びていた。
 このまま寝てしまおうかと考えていた矢先。珍しく――それでも彼等の会話で先に口を開くのは必ず紅真だった。いつだって、二人の会話のきっかけは紅真が紫苑に水を向け、紫苑がそれを返す。そのスタイルが崩れることはほとんどない――紅真が口を開いた。開かれた彼の口から吐き出された煙は、白かった。

「なぁ…」
「……なんだ」

 紫苑は寝る一歩前の胡乱な視線を紅真に向けて返した。首から上が辛うじて扉に凭れ、背中の半分まで地面にくっついた紫苑に比べ、背中全体を扉に預けて座っている紅真とでは、当然紅真の方が視点が高い。自然、紫苑の視線は上目使いになった。
 紫苑に視線を向けず、屋上から見えるどことも知れぬ景色に目をやっている紅真には、どうでもいいことだったが。

「お前さ、なんでやめたんだよ。剣道」
「……別に」

 紫苑は内心、溜息をついた。『またか』、と思ったのだ。
 中学に上がり、紅真は剣道部へ、紫苑は文芸部へとそれぞれ入部した。周囲は意外に思った。なぜなら、紫苑は当時既に、剣道においてその天才振りに名が知れ渡っていたから。
 不敗。
 大きいものから小さなものまで。大会で優勝するのはいつだって紫苑だった。紅真はいつだって二番目だった。
 中学に上がれば当然、二人ともが剣道部に入ると誰もが思っていたのに。
 紫苑は中学に上がり、それまで通っていた道場まで辞めてしまった。運動部にさえ入らず、剣道はもうやめたのだと公言して憚らなかった。興味のない冷めたその様子に、誰もがそれ以上の追求を許されなかった。

「どうしたんだ、今更」

 今度は溜息を隠しもせずに紫苑は云った。ほとんど落ちかけていた体を起こし、背を扉に預ければ、その視線の高さは紅真とそうは変わらない。
 紅真はちらりと紫苑に視線だけを向け、指に挟んでいた煙草をそのままに、また視線を前方へと戻した。紫苑はそんな紅真に、無言で肩を竦めるだけだった。

「……別に」

 今度は紅真が同じように答えた。その声は平坦で、本当に、特に意味はなく、ただ訊ねてみたといった風だった。
 けれど紫苑の予想に反してその言葉は続けられた。僅かに瞠目した紫苑の面(おもて)が紅真に向けられる。

「……ただ、勝ち逃げだなって」

 そう、思っただけだ。

「……」

 紅真の言葉に、紫苑は押し黙った。この負けず嫌いの幼馴染が、この三年間、胸中、常々そう思い続けていたことを、彼は知っていたからだ。
 紫苑は視線を下げた。僅かに目蓋を下ろしたことによって狭くなった視界に、白いコンクリートと、そこに投げ出された自身の足が写っていた。
 僅かに唇を震わせてから、彼は漸く口を開いた。

「違う」
「?」
「違うん、だ…」
「違うって、何がだよ」

 躊躇うように吐き出された紫苑の言葉に、今度は紅真がその面を紫苑へと向き直らせた。まさかきちんとした答えが返ってくるとも思っていなかったらまずはそれが意外で、その瞳は微かに開かれていて。けれど理解できないそれに、その表情は訝しげに歪んでいた。
 紫苑はそんな紅真から視線を外すように、その瞳を眇めて彼がいるのとは反対側の虚空へ視線を向けた。僅かに顎を引き下向きになっていた為、その視界にいつったはやはり、屋上の薄灰交じりの白だった。

「違うんだ。俺は…、勝ってなんか、いない。買ったことなんて、一度も、ないんだ」
「ああ? なんだよ、それ…っ」

 ガッ!

 強く首の辺りが引かれたかと感じた次の瞬間には、紫苑の目の前には紅真の激しい真紅の瞳があった。
 ああ、そうだ。
 彼は思う。紅真は、いつも、まっすぐに相手を見ていた。いつだって、昂ぶる感情を抑えようとはしなかった。
 そしてそれが、酷く、羨ましかった。

「なんだよ、それ」

 紅真はもう一度云った。迸るほどの激情を向けられ、しかし紫苑は蕩けてしまうかと思うほどに心地が良かった。
 まるで彼とのSEXの後のように、居心地がいい。

 そんなことを思って無意識に両の口角が持ち上がれば、紅真は何を勘違いしたのか。掴んだ紫苑の襟をさらにきつく締め上げた。
 苦しさに僅かに瞳を眇めれば、その苦しげに歪められた紫苑の表情に紅真の頭も僅かに冷やされたのだろう。入れられていた力が僅かに緩められる。
 それでも尚、絞め付けられるような圧迫と苦しさを感じながら、紫苑はどうにか口を開く。声を発するのさえ苦しいその痛みさえ、紅真から溢れ出す激情の欠片だと思うと心地好かった。
 きっと麻薬とはこんな効果を齎すのではないかと思うほどに、どこかが麻痺しているような心地。

「違うん、だ。俺は、いつだって、怖くて。…恐くて、ただ、竹刀を振り回してるだけだった」

 向き合った相手の背後に、闘志によってできる巨大な、何か得体の知れないものが見えるようだった。それがなんであるのか分からなくて、ただ恐怖のままに竹刀を振り回した。
 背中は決して向けてはいけないと本能が訴えた。逃げれば捉えられ、ただ喰い殺されると思った。

「だから、俺はいつだって、勝ってなんかいない」

 泣き叫びそうなほどの恐怖に、ただ、頭は真っ白で。思いが理性を貫き、その恐怖の激情のままに叫び、立ち向かった。
 優れた技を持っているわけでも、体力が人よりあるわけでもなければ、立ち向かおうとする覇気があったわけでさえない。ただ、恐怖のままに我を失くし。我武者羅に突っ込んでいっていただけ。
 それなのに。
 それなのに……。

「みんな。誰も、そのことに気づかない。勝ったと云われる度に、…すごく、嫌だった」

 まるで吐き気にも似た気持ちの悪さを何度味わっただろう。
 いつしか紫苑の襟を締め上げる紅真の腕は完全に弱まっており、紫苑は自嘲に口端を吊り上げながら吐き出した。

「俺の覇気だと思われているものは、猫に追い詰められた鼠のそれだ。俺はお前と違って短気だからな。すぐに我を見失う。いつだって、そうだった」

 怒りに我を失って突き走るように、恐怖に我を失って死に物狂いで立ち向かった。その結果、鼠が猫をかむのに成功し、まんまと逃げ果(おお)せた。
 それだけのことなのだ。
 けれど、そんな幸運いつまでも続くはずもない。そんなぎりぎりのこと、いつまでも続けられるはずもない。
 紫苑の精神はもう、疲れ果てていた。

「だから、辞めたんだ」

 本当は、恐怖に打ち勝つことも出来ずに、逃げ出したんだ。あの世界から――。

 もう完全に顔を俯かせてしまった紫苑の頭部を、紅真はじっと見つめていた。薄蒼色の銀の髪はまるで氷のように美しく、研ぎ澄まされた刃(やいば)とは、きっとこのような凛とした気高さを持っているのだろうと思っていた。
 紅真にとって紫苑は常にそうあったし、そして紅真の感じたそれは、やはり正しかったのだ。

「こ、紅真?!」

 突然抱きしめられ、紫苑は驚きに声を上げた。あまりにも体が密着し過ぎている為に、抱きしめている張本人である紅真の表情は伺えなかった。
 背中に回った紅真の腕と、肩に触れる紅真の額の温もり。そして首筋に掛かる髪が与える微かな痛み。
 戸惑い、どう返していいかわからずにいると、紅真の体が震える気配がした。

「紅真?」

 紫苑が不思議に感じて問い掛ければ、その振動はさらに増して行く。とうとう紫苑にもその正体が分かった。
 紅真は笑っているのだ。可笑しそうに。実に、愉快そうに。

「くっくっくっ。紫苑、おまえって、本当に、莫迦だよなぁ…」
「な、…紅真! いったいなんなんだ、おまえは!!」

 焦りと照れも多分にあるだろう。紫苑が身を捩って声を上げた。けれどそんな反応はいつものことなので、紅真は気にも留めずに笑い続けた。
 体を重ねるようになって大分経つ今でさえ、紫苑は紅真の些細な愛の告白に頬を染める。時には照れて諌め、時には恥ずかしそうにはにかみ。
 紅真は紫苑のそうするどれもが愛しくて仕方がなかった。好き過ぎてどうしようもなかった。

「紅真!」

 紫苑が今度こそ声を荒げた。怒りを装ってはいたが、それが本気ではないことなど、その姿を見なくても分かる。
 紅真は笑いを収めた。次に彼の口から放たれたそれは、想いの外(ほか)真剣なもので、紫苑は思わず黙り込んだ。

「紫苑」
「紅真?」

 いつの間に、彼の燻(くゆ)らせていた煙草の煙は消えていたのだろう。どこか灰色に写る空を眺めながら、紫苑はぼんやりとそんなことを思った。

「弱くねぇ。おまえはいつだって、勝ち続けてた」
「…紅真」

 肩がきつく抱きしめられるのを感じながら、紫苑は『それは違う』と叫びたかった。勝ったことなど一度もなかったのだと、否定したかった。
 けれどそれを云うのは紅真の向けてくれる自分への気持ちも全て否定してしまいそうで、やはり、紫苑は恐ろしさにそうすることが出来なかった。
 そんな紫苑に構わず、紅真は言葉を続ける。相変わらず、顔は上げないまま。紫苑に、その表情は見せないまま。

「いつだって、おまえはちゃんと、必死で、全力で、戦って、勝利をその手にしてた」

 紫苑の透明なその瞳の奥に恐怖が浮かんだのを見逃したことはなかった。それ以上に、その恐怖を覆って迸るほどに滾(たぎ)る闘争心を見逃したことはなかった。
 研ぎ澄まされたその姿は、常は静謐な紫苑が見せる数少ない紅蓮の様だ。氷の華の中から明るく灯る光が、雷(いかずち)となって打ち抜いてくるような激しさ。限界まで追い詰められ、そうして研ぎ澄まされた命の宿る瞳。
 それは炎の広がるような美しさをもって相手を魅了し、その気を飲み尽くすのだ。
 そして、紅真はいつだって、紫苑に負けたその他大勢と同じ。その美しさに魅せられ、その激しさに飲み込まれ、その瞳の真っ直ぐさ、鋭さに動きを止められて。敗北するのだ。

「やっぱり、てめぇは勝ち逃げだ。紫苑」
「紅真?」

 そう云う紅真の声音は苦々しげで、けれどどこか嬉しそうだったので。紫苑はただ不思議そうに、その名を呼ぶだけだった。
 空は相変わらず高く、遠く。煙のように灰色がかって見えるばかりだった――この屋上のように。





          一応補足。二人は中三です。ご意見ご感想お待ちしております(オンマウスで駄文)。_(c)2006/11/11_ゆうひ。

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