熱射病



























それはまるで熱射病のような

身体が熱く火照り、息が苦しくて

しかし違う

それは決して苦ではないから――

























この国の夏は蒸し暑い。それはもう尋常ではないほど。
ただ暑いだけなら、まだ我慢のしようもあるだろう。薄着になれば良い。
陽の当たらない木陰に避難するのも一考だ。
しかし、蒸し暑いとなると、そうはいかない。
薄着になろうと、木陰に逃げ込もうとも、身体を覆う湿気からは逃れられないのである。

陽光がさんさんと――と云うよりも、ぎらぎらと、と云った方が的確であろうか。
とにかく強い日差しの降りしきる、湿度の高い夏のある日の事だった。










紅真はここ最近、ある事柄について悩み続けていた。
否、悩まされ続けていると云った方が良いだろうか。
紅真自身にとって言えば、自分が悩まさせられているなどと、そんな気は微塵もないのだが。
しかし、彼は自分が悩んでいると言う自覚はある。
紅真は初夏の頃から、ひたすらに悩んでいたのだった。

紅真の悩み。
それは一重(ひとえ)に原因不明の病気である。
否、それが病気かどうかは、紅真自身定かな所ではなかったが――。
少なくとも紅真にとっては、それは病気以外の何物とも思えなかったのである。

「紅真」

森の木陰の下。
悩みに悩み、一人考えに集中していた紅真は、自分の名を呼ぶ声に、はっとして顔を上げた。
あまりに自分の世界に入り込んでいた為、名を呼ばれるまで気配に気が付かなかったのである。

「どうしたんだ?」

紅真が顔を上げた先にいたのは、輝くばかりに美しい銀髪に、藤色の瞳の少年だった。
名を紫苑と云い、紅真とは同じ歳くらいの、言わばライバルといったところだろうか。
必要最低限のことしか口にしない紫苑であるから、彼が紅真のことをどう思っているかは定かではなかったが、少なくとも紅真自身はそう思っていた。

紅真を覗き込んでくる紫苑の顔は逆行に照らされてしまい、紅真からはその姿がはっきりとは見てとることが出来ない。
声の様子から推測すれば、どうやら彼は紅真を心配してくれているように思える。
一人黙って樹の陰に座り込んでいた紅真を見つけ、気分でも悪いのではないかと気遣ったのだ。
紫苑が紅真を、心から心配して声を掛けたのは明らかだった。
いまだ付き合いは浅いが、無口な彼の本質が優しいと云うことを、紅真は本能的に感じ取っていたのだ。

「気分でも悪いのか?」

再度尋ねてくる紫苑に、紅真は顔を真っ赤にさせた。
いつのまにか、紫苑の顔が近づいて来ていたのだ。
まさに目と鼻の先ほどの距離に、紫苑の顔があり、紅真が慌てて後ず去った。
動悸が早くなるのが分かる。

「紅真!お前、顔が赤いぞ?風邪でも引いたんじゃないのか?」

紅真の慌て振りを見て、紫苑は驚きに声を上げた。
紅真の顔は真っ赤に染まっている。
熱を測ろうと紫苑が更に顔を近付け、紅真はますます顔を赤くする。

「い、いい!なんでもない!」

紅真は搾り出すようにそう云った。その言葉を言うだけで精一杯だったのだ。
尚も心配そうにその美麗な顔を顰めている紫苑の手を振り払い、無理やり立ち上がる。
急に立ち上がった紅真に、紫苑はバランスを崩し、後ろに尻餅を付いた。
きょとんとした顔で紅真を見上げていると、紅真はそんな紫苑から逃げるように去って行ってしまった。
駆け足で去って行くその後姿を、紫苑は尚も呆然と見送るだけだった。










「くっそ…。なんで紫苑を見ると動悸が早くなるんだよっ…!」

紅真は胸を抑え、肩で息をしながら苛立たしげに呟いた。
吐き捨てるように言い放ったその声音はとても小さな物であったが、別に誰に向けて言ったと云うわけでもないので関係がない。

紅真の悩み。
つまりはそれであった。

いつの頃からか――おそらくは初夏めいて来た春の終わり頃だろう。
紫苑の姿やその声を目に留める度に、紅真を、体温の上昇と動機息切れが襲うのだ。
顔が熱くなり、息が上手く出来なくなる。

「なんなんだよ…一体……」

紅真は情けなく顔を歪ませ、頭を凭れさせた。

紅真が紫苑と出会ってから、すでに二年近くが経とうとしていた。
彼が紫苑を直視できなくなったのはつい最近だ。
それまでは何という事もなかった。
共に修行をして、生活をして……。
そんな日常が続いていたのだ。

「あの日からだ…」

紅真は唸り声を上げた。
彼の云うあの日と云うのは、彼が初めてこの症状に気が付いた――というか、その症状に初めて見舞われた日のことだ。
ふとした拍子に視界に入った紫苑に、一気に顔が赤く染まった。
それから紫苑から視線を外せず…しかし紫苑に自分を見つけられ、その顔を向けられた途端。身体が勝手に紫苑からから逃げていた。それはもう凄い勢いで。

それは初夏の気配も見え始めた、ある日の朝のことだった。
その日、紅真と紫苑は修行の為に、川が直ぐ横を流れている草原を訪れていたのだ。
紫苑は泳げない。
その事を知らなかった紅真は、子供らしい悪戯心から紫苑を川へ突き落とした。

ばざーん。
という派手な音を立てて川に落ちた紫苑は、慌てて手足をばたつかせる。

突然水の中に落とされれば、誰だって似たような反応を返すだろう。
なので、紅真は紫苑も例に洩れぬ反応を返し、直ぐに泳いで岸に上がって来るだろうと、軽い気持ち笑い声を立てていた。
しかし、紅真の予想に反して、紫苑は岸に上がる気配どころか、泳ぐ気配さえ見せない。

本気で溺れている。

紅真がそのことに気が付いたのは、紫苑が川に飲みこまれ、いくらか流された後だった。
はじめ紅真は、いくら経っても岸に上がって来ない紫苑を見て、溺れた振りをして自分をからかおうとしているんだろう。と思ったのだ。
だが、それにしては様子がおかしすぎる。あまりにも必死なのだ。

紅真は慌てて川の中に足を踏み入れた。
思ったよりも深く流れの速いその川は、泳ぐことできない者にとってはなかなかの脅威であるだろう。
紅真は紫苑を助ける為に水の中に潜った。
なんとか紫苑を助け出し、岸に引き上げる。
紫苑はもとより、紅真も水浸しだが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

紫苑は大分水を飲んでしまったらしい。気を失っている。
冷えきった身体からは人らしい体温が感じられず、顔にはまったく血色がない。
力なく横たえられた紫苑に、紅真は必死に呼びかけた。
胸に手を添え、水を吐き出させようとする。

どれほどの時間だったのか。
それはものすごく短い一瞬のようにも、何時間も経ったようにも思える時間だった。
ケホケホッという軽い音と共に、紫苑が水を吐き出し、意識を取り戻したのだ。
うっすらと開かれた紫苑の瞳を見、紅真は安堵に息を吐いた。

「紫苑…大丈夫か?」

紅真は声を掛けた。
その声音は心の底から紫苑を心配し、そして気が付いた紫苑に安堵してのものだ。

紫苑はいまだ霞んだままのぼやけた視界を、ただぼんやりと眺めやった。
微かに写る黒い影は何なのか?人影のようにも見える。
風の吹き過ぎるような音が聞こえるが、それが何の音であるかがはっきりとしない。
身体が重かった。

「っ紫苑!」

紫苑からの反応が何もないことに不安を憶え、紅真は再びその名を呼んだ。
すると、僅かに開かれた紫苑の藤色の瞳が、声の出所を探るように動く。
それを見た紅真は、紫苑の身体に覆い被さるような形で、勢い込んで紫苑の顔の前に自分の顔を持ってきた。――紫苑に自分の顔が確認できる様に。

「こ…うま?…」

紫苑の口が震えるように動き、極々小さな音が洩れた。
掠れたような聞き取りにくいその音が、間違いようもなく自分の名を紡いでいることを聞き取って、紅真は安堵に胸を撫で下ろす。
思わず笑みが零れた。

「気が付いたか?…紫苑」
「紅真?…俺……」
「溺れたんだよ。ッたく、泳げないんだったら先にそう言っとけよな」

紅真は呆れたように言った。
その口調からは、紫苑が溺れる事になった原因が紅真自信であることなど、もうすっかり忘れてしまったような感がある。
決して自分の行為を棚に上げるつもりではなかったが、今の紅真には、紫苑の意識が戻った事への安堵と歓喜で頭の中がいっぱいいっぱいだったのだ。

いまだ意識のはっきりとしない紫苑は、紅真のその言葉を聞き、溺れた自分を助けてくれたらしい紅真に、素直に礼を言った。
身体を無理やり起そうとしてよろけ、紅真に支えられる。

「悪い…」

その時だ。
呟いた紫苑が、紅真の胸に寄りかかるようにして凭れてきた途端。紅真は自分の顔が一気に熱を持っていくのを感じた。
それと同時に動悸が激しくなり、紫苑を直視していられなくなる。
今すぐにでもこの場から逃げだしたい衝動に駆られたが、如何せん腕の中にいる紫苑は苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。風を引き、熱を出したようだった。

そんな紫苑の様子を見た紅真は、先程の逃げ出したい衝動や、顔の熱の上昇などを忘れ、今度は大いにうろたえた。
直ぐに紫苑を休ませてやれる場所を探して、顔をきょろきょろと動かす。
川岸から少し離れた場所にあった大木を見つける。
紅真はすぐさま紫苑を抱きかかえて、木の下へと走り出した。

木陰に紫苑を下ろすと、紫苑は、ほんの少し落ち着いたようだった。
息が荒いのはそのままだが、先程よりはマシに見える。
熱のせいもあるだろうが、今の彼は先程の死人のような青ざめた肌の色はしていない。
たとえそれだけも、紅真の心を安心させる事が出来た。

濡れた服を着たままでいると、自分まで風邪を引きかねない。
そう思った紅真は、直ぐに服を脱いだ。
紫苑の服も脱がせるべきか迷った挙げ句、秋や冬のように寒いわけでもないので、ずぶ濡れの服を身に纏っているよりは格段に良いだろうと、紫苑の服も脱がせた。とは云っても、さすがに全部脱いでは寒すぎる。上着一枚を脱がせただけだ。

いくら初夏めいて来たと言っても、肌を晒すにはまだ少し寒かった。
ましてや濡れ鼠状態だ。
紅真はすぐさま火を起こした。

パチパチとはぜる焚火の炎に、濡れた服も、冷えた身体も温まっていく。
熱で汗ばんだ紫苑の身体を、紅真は濡れた布で丁寧に拭いてやる。
善意から来ているのか、それとも罪悪感からか。
自分の行為がどちらから来ている物なのか。
紅真には判断しかねたが、今はただ、紫苑の具合が――その辛そうな姿が心配で仕方がなかった。

紅真の必死の看病もあってか、紫苑の熱はそんなに高く上がる事もなく治まった。
紫苑本人が体をきちんと鍛えていた事も理由の一つだろう。
熱は一時的な物のようだった。

「迷惑…掛けて悪かったな…――」
――ありがとう。

本当は紫苑を川に突き落としたのは紅真なのだが、紫苑はそのことを知らない。
自分が誤って川に落ちたと思っているのだ。
情けない所を見られた挙げ句、助けられたことへの照れから、頬を僅かに染めて礼を言う紫苑に、紅真は今度こそ硬直した。

「紅真?」

顔を真っ赤にした紅真の様子に、紫苑は、今度は紅真が熱を出したのかと思った。
声を掛け、それでも反応を示さない紅真をいぶかしみ、紫苑は心配そうに顔を歪めて、躊躇いがちに紅真に顔を近づけた。
熱を測ろうとしたのである。

目の前に来た紫苑の顔に、紅真は反射的に身を引いていた。
相変わらず顔は真っ赤だ。

「紅真?」

紫苑が不思議そうに手を伸ばしてくるのを見るや、紅真はもうすでに真っ赤なその顔を更に赤くした。
藤色の瞳に自分の姿が写っているのを確認すると、紅真は物凄い勢いで走り去って行ってしまったのだった。

「・……」

そんな紅真の様子を、紫苑はただ呆然と見送るしかなった。










それからだ。
紫苑を見る度に、紅真の顔は一気に熱を持ち、動悸が激しくなり息が切れる。
いつもどんな時も紫苑の事が頭から離れず、紫苑が自分以外の誰かと一緒にいるのが気に入らない。

これは一体何なのか。

考えども、考えども。紅真には分からなかった。
熱射病のように、強い日差しに照り続けられたせいでこうなったのかと、始めはそう考えもしたが、いまいち違うような気がする。
確かに身体が熱く火照り、息が苦しくなるが、それは紫苑の前でだけなのだ。

紫苑の前でだけ。
その姿を目に留めたときだけ。
その声が耳に飛び込んで来た時は必ず。

紅真にとって不思議なのは、まさにそれだった。
自分で自分のことが分からない。
一体、自分の身に何が起きているのか。
紅真は尚も、頭を捻らすばかりだ。

と。
紫苑の声が響き、紅真は再び顔を赤くして硬直した。

「紅真、ここにいたのか。さっきはどうしたんだ?」

紫苑が再び紅真の顔を覗き込んで来る。
どうやら、明らかに様子のおかしかった紅真を心配して、わざわざ探しに来たようであるらしかった。

「な、何でも…」

紅真はしどろもどろになって応えた。
声が僅かに上擦って聞こえる。
そんな紅真の様子に、紫苑は心配そうに眉根を寄せた。

「おい…本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ!なんでもねぇ!」

紅真も必死に応える。否、必死に応えた。
暫らくの間、いぶかしむような、心配するような視線で紅真を見ていた紫苑は、それでも紅真の言葉に一応の納得をしたらしく。

「それなら、別にいいんだ」

そう言って、極上の笑顔を作った。
その笑顔に、紅真は今まで知らなかった感情が、自分の心の底から湧き上がって来るのを感じた。
身の内から、己の心を躯を。全てを満たすように広がる心地良い感覚。
ふわりとした暖かい空気。
紅真は漸く理解した。

(ああ…そうか…)


――俺、紫苑が好きだったんだ――


顔の火照りや動悸の激しさは、好きな相手への照れと過剰反応のせいだったのだ。
紫苑が自分以外の誰かと一緒にいると嫌なのは、好きな相手を独占したいからだった。
いつも紫苑の事ばかり考えてしまうのも、みんなみんな。その人が好きだから。

分かってしまえば簡単なことだった。

だがしかし。
自分の気持ちを理解してしまえばしてしまったで、今度はまた新たな悩みにぶち当たる。
自分の気持ちを理解すると同時に浮かび上がった難題の数は、今までの比ではない。

もはやここを離れて行ってしまった紫苑。
去る前に彼が見せたあの笑顔を含め、自分はその全てが欲しいのだ。
しかし、彼はどう考えても一筋縄で行くような相手ではない。

紅真は溜め息を付いた。
それは呆れらめや絶望からではない。
彼は顔を上げ、紫苑の去って行った方向を見つめた。
その顔は、希望と自信に満ちている。










それは湿度の高いある夏の日のことだった。

今まで味わったことのないような。
清々(すがすが)しい晴れやかな気持ちが、身体中を満たす。
気づいてしまえば、それは至極簡単で単純なことで。
しかし、それから先が実に大変なこと。
先の見えないのは今までと何も変わらないのに。
何よりもそれを怖れる気持ちが溢れてくる。

怖れを伴っても尚すばらしく。
考えるだけで、自然と顔が綻ぶような。
そんな幸せな気持ちを、その日、ようやく理解した。

























熱射病のようなその気持ちに

身体が火照って止まらない



























おわり










■あとがき■
どうでしたでしょうか?
台風で、思いもよらず学校が休校になったので書き上げましたこの小説。
なんかもうめちゃくちゃです。
文もそうですが、紫苑と紅真がもう救いようがなく偽者臭い。
はてさて。紅真は紫苑を手に入れることが出来るのでしょうか(爆笑)
感想いただけたら嬉しいです。




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