遠い霄
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その人はいつも私たちの知らない、どこか遠くを見ている。 それはその人の失われた故郷かもしれない。 それは私たちの誰もまだ知らない遥けし未来なのかもしれない。 それは私たちには考えつきもしない、その人の過去なのかもしれない。 私たちの知らない…その人の大切な人なのかもしれない…――。 その人はいつも遠くを見ている。 私たちの知らない。 ずっと遠く。 遥か遠く。 その人の心の中には私たちの居場所がないのではないかと…。 ――…少し、寂しく思う。 白銀の髪が揺れる。 風の行方に合わせて流れる白い光。 紫色のその瞳は、蒼い蒼い透き通るような――その紫色の瞳と同じに、透き通るような蒼い霄。 空を見つめている。 どこか遠くに行ってしまいそうな。 …もしかしたら、もうとうの昔にどこかへ行ってしまっているのかもしれない。 心が。 「紫苑くん…」 このまま消えてしまうのではないかという不安に駆られ、壱与は声をかける。 もう随分と伸びた薄茶色の髪が、風に流れて揺れた。 「壱与?」 呼び掛けられて振り向いた紫苑のきょとんとした顔に、壱与は我知らず安堵の溜息を吐いていた。 彼はここにいる。 「どうしたんだ?」 「あ…うん。何でもないよ」 笑って云うと、紫苑はパチパチと目を瞬かせ、不思議そうに壱与を見る。 先ほどの消え入りそうな雰囲気はまったく感じられなかった。 初めて出会ってからもう随分経つ。 その時からすれば、彼のこんな子供っぽい表情なんて想像も出来ないが、これは違えようのない現実だった。 「みんな探してたのよ」 いつもふらりと居なくなるあなたの事を。 あの時から。 あなたは時々消えてしまいそうに…どこか遠くを見つめてる。 「いつも悪いな。でも、別に心配なんていらないぞ」 「心配だよ。紫苑くん…いつどこに行くか分からないもの」 平和な時。 必死で走って。走って。 ようやく手にした平和。 これから創って…そして護っていかなければならないもの。 「これからなんだから」 誰もが笑て生きられる国。 彼はそれを償いだと云う。 自分の罪に課せられた罰。 だから時々思う。 それが終わったら、もうここにいる必要はない。 どこかに行ってしまう。 ――消えてしまう? 「…何、見てたの?さっき」 壱与は訊ねた。 誰にも行き先を告げず、ふらりと消えてしまう紫苑。 いつも必死に探して見つけると、彼は決まって空を眺めている。 小高い丘の上から。 果てし無い荒野の中心で。 彼は遠く彼方を見つめている。 訊ねたことはなかった。 どこを見ているのかなど。 訊ねれば…彼をもっと遠くに感じてしまうそうになりそうで。 訊ねることが出来なかった。 それでも訊ねたのは、もう不安が限界だったから。 不安で不安で仕方がなく。 心が破裂してしまいそう。 「…さぁ……どこ…だろうな・………」 紫苑は再び遠く彼方を見つめるようにして云った。 首を巡らして広がる蒼を見つめているその視線は、どこか焦点の合っていないぼんやりとした物で。 また消えてしまいそうに、その存在が稀薄になる。 「紫苑くん…」 呟く。 紫苑は気がつかないまま、今だ空のカナタ遥かを見つめている。 彼の全てが硝子玉の影でできているような気になる。 「本当に…何を見ているんだろうな……」 最後にそう呟いて、紫苑は壱与に微笑みかけた。 「女泣かし…ってやつか?」 「紅真…」 夜の月明かり。 薄暗い闇の中から響いた、どこかからかいを含ませた声に、紫苑は柔らかな声と表情で返した。 「昼間は随分だったじゃないか。 あの女王様、お前のことすっげぇ心配してるみてぇだったぜ」 よっと。 小さな声と共に木の上から下りて来たのは、漆黒の闇に溶け込むかのような黒髪に、妖しく光る星のような赤い瞳の少年だった。 紫苑とは正反対で、けれどとても近しい感を持たせる少年だ。 紫苑が呼んだ「紅真」というのが、その少年の名前だった。 「そうか?…少し散歩に出てるだけなのにな。 いつものことだし…みんななんでそんなに気を使うんだ?」 心底わからないとでも云うかのように紫苑は首を傾げて云う。 そんな紫苑を見て、紅真は呆れたように。面白そうに。 目を細めた。 心なしか口の片端も上がっているようだった。 「お前が消えそうで心配なんだろ」 「なんだ?それ?」 「ぜーんぶ終わって…。お前、どこ見てるか分からなくなってるぜ」 紅真は空を見上げながら云った。 満天の星。 星で埋め尽くされた天(そら)。 星で埋め尽くされて…けれど真っ暗な天。 「どこを見てるか…分からない?」 俺が? 紫苑は云った。 きょとんとした。 歳よりずっと子供っぽい表情。 「本当に消えそうだよ。お前」 「・……」 紅真の言葉に、紫苑は何も云わずに俯いた。 目を軽くふせる。 「…消えないさ」 暫らくは鳥と虫の鳴き声に耳を傾け。 それから紫苑はおもむろに呟いた。 「消えないさ。まだ…やることが残ってる」 少し前にはいつも見せていた、覚悟を決めたような真っ直ぐで強い瞳だった。 何の覚悟を決めるというのか。 その視線の先には何があるというのか。 「まだ?…じゃあ、それが終わったらどうする気なんだよ」 紅真は幾分声の調子を落として云った。 問い詰めるような声音だった。 「まだ分からないさ」 「やることっていうのは?」 もう十分だと思う。 あまりにも傷ついた。 傷つきすぎて…心のどこかが壊れるほどに。 多くの人の幸せの為に、幾人かがあまりにも傷ついた。 ――自ら地獄に身を投げた。 「…償い」 紫苑の答えに、紅真は舌打ちする。 顔を背け、けれど何も云わなかった。 彼はまだ足りないと思っている。 まだ傷つき足りないと思っている。 人々を傷つけた分。 自分は決して幸せになどなれないと。 「あんまりにも幸せすぎて…こんなに幸せで…」 ぼんやりと。 心ここにあらずというような状態で語り始めた紫苑の声に、紅真はその顔を紫苑に戻した。 ぼんやりと。 ぼんやりと、宙を眺めたまま言葉を紡ぐ。 「オレばっかり幸せになったら…ずるいだろ?」 自嘲するように云う。 「何がずるいんだよ?」 紅真は不機嫌に云う。 誰がそんな風に思うというのか。 「いっぱい死なせたからなぁ…」 まずは子供として。 親を死なせてしまった。 自分は何もせずに。 そして皇子として。 国の人々を死なせてしまった。 自分よりもずっと幼く弱かった子供さえも護れず。 自分だけが生き残り、死なせてしまった。 次は刺客として。 多くの王やその家臣を死なせた。 その国の滅びと共に、そこに生きる人々を死なせた。 邪馬台国に来て。 護りきれずに死なせた者たち。 国の民、兵士…数え切れない。 敵対して死なせてしまった者たち。 陰陽連。 「そいつらを見てるのか?お前…」 紅真は云った。 どこかやるせないように苦々しい顔で。 「そうなのかな…?」 紫苑は はぐらかすような答えを返す。 楽しそうに笑った。 「そうかもしれない。 見えない故郷を見てる…いいかもしれないな。それ」 微笑む紫苑を見つめながら、紅真は顔を歪める。 やるせない。 どうしようもないほどの胸の痛み。 「お前…馬鹿だろ……」 紅真は搾り出すように云った。 声が震える。 身体が震える。 「そう…だな……」 紫苑は一滴。 涙を流した。 彼は囚われている。 決して弱くはないけれど。 現実を生きることが出来ないわけではないけれど。 あまりにも責任感が強すぎるのか。 あまりにも純粋過ぎるのか。 あまりにも優しいのか。 ――哀しいのか。 彼は囚われている。 囚われ続けている。 もういない。 遥か遠く。 無限に広がる空の向こう。 「紫苑…」 「なんだ?」 紅真が呼ぶ。 紫苑が応える。 「…たぶんさ」 「うん…」 「多分…いろんな奴が、お前のこと…想ってるぞ」 「……」 紅真が云う。 紫苑は何も云わなかった。 「今、ここにいるいろんな奴が…お前を想ってる。 信じられねぇくらい大切に…強く…想ってる」 「……紅真も?」 「…多分な」 「そうか……」 それだけ。 あとは何もなく。 二人は空を見ていた。 暗い暗い空。 満天の星の輝く空。 月明かりの下。 彼は遠いソラを見た。 |
あなたが見ているのは 私たちの知らないソラ ここではない世界 もう…ここにはいない人 本当は何を見ているの? 私たちの…知らない誰か ねぇ… 私たちを見て どうか それだけを |
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遠琉さまに捧げます3400Hit小説です
リクエスト内容は「想われている紫苑君」でした
なんというか、その…申し訳ありません!!
いやもう本当にこれしか云えないです…
中身のない小説というかただの文字の羅列?!
せっかくリクエストしていただいたのに(泣)
もう煮るなり焼くなり好きにしてくださいです
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モドル